帝国と連合を分かつ巨大な電波障壁「静寂のカーテン」。あらゆる通信を遮断するその壁を唯一越える特殊な周波数帯があった。人々はそれを「エーテルウェイヴ」と呼んだ。そして、その電波に乗って、毎夜、戦場に一つの声が響き渡る。
「やあ、帝国で退屈してる兵隊さんたち! 連合王国がお送りする『鋼鉄のカナリア』の時間だ。今夜のオープニングは、ジェリー・ネルソンの『ブルー・スカイ・ラヴァー』。憂鬱な夜は、軽快なスウィングで吹き飛ばそうぜ!」
DJリオの軽薄な声が、塹壕に潜む帝国兵たちの携帯受信機から漏れ聞こえる。上官に隠れてそれを聴くのが、彼らにとって唯一の娯楽だった。敵国のプロパガンダ放送とは名ばかりの、ただの音楽番組。誰もがそう思っていた。
帝国軍情報部のエリザ・フォン・クラウゼ少佐を除いては。
彼女は執務室の壁に貼られた巨大な地図を睨みながら、スピーカーから流れるリオの声を聴いていた。彼女の部下が、放送で流れた曲目と、連合軍の小規模な動きを時系列で並べた報告書を差し出す。
「少佐、またです。『ブルー・スカイ・ラヴァー』が流れた三時間後、セクター・デルタの第七補給路が何者かに爆破されました」
「DJが『軽快なスウィングで』と言ったわね。前回、『真夜中のハイウェイ』が流れた時は、第二機甲師団の燃料集積所が襲われた。奴の言葉と選曲は、単なる気まぐれじゃない。潜入した工作員への指令だわ」
エリザの瞳が、氷のように冷たい光を宿す。このふざけたDJは、その声一つで帝国軍を内側から掻き回しているのだ。彼女はペンを取り、ある計画を練り始めた。「鋼鉄のカナリア」を捕獲するための、巧妙な罠を。
数日後、リオはいつものように放送ブースに座っていた。ヘッドフォンをつけ、マイクの前に立つ。今日の放送には、連合司令部から最重要指令が託されていた。帝国軍の次期主力戦車「ファフニール」の設計図を奪取する作戦の、最終GOサインを送るのだ。
「さあ、今夜も始まったぜ、『鋼鉄のカナリア』! リクエストが山ほど来てる。ペンネーム“凍える夜”さんから、『“熱い”曲をかけてくれ』、ね。OK、任せとけ! アンタのためにかけるぜ、ファイア・バーズの『バーニング・ラブ』!」
曲が流れ始めると同時に、スタジオの警告灯が激しく点滅した。司令部からの緊急通信だ。リオが受話器を取ると、血相を変えた通信士官の声が響いた。
「罠だ! 帝国側がこちらの暗号体系を完全に解読している! その放送を送れば、我々のスパイ網は壊滅する!」
血の気が引いた。エリザという女狐が、こちらの動きを完全に読み切っていたのだ。今、自分が流している曲が、味方を死地に追いやる弔いの歌になる。
スタジオの外では、帝国軍の特殊部隊が工作員の潜伏先を包囲しているはずだ。作戦中止を伝える時間も手段もない。放送を止めれば、それ自体が異常事態を知らせる合図となり、いずれにせよ工作員は危険に晒される。
進むも地獄、退くも地獄。
曲が終わるまでの三分間。リオの脳は、灼熱のエンジンと化して回転した。エリザはこちらの暗号パターンを読んでいる。ならば、そのパターンそのものを利用するしかない。彼女の思考の、さらに裏をかくのだ。
曲がフェードアウトする。マイクの前のランプが点灯する。帝国の、そして連合の運命が、リオの次の言葉に懸かっていた。
「……いやー、熱いね! 『バーニング・ラブ』、最高だ! だが、ペンネーム“凍える夜”さん、悪いニュースがある。アンタのリクエスト、実は他のヤツとカブっちまった。しかも、そいつのリクエストは『同じ曲を、アコースティックバージョンで』だってさ。ハハ、無茶言うなよな!」
一瞬の沈黙。スタジオの誰もが息を呑んだ。
「でもな、俺はそういう無茶なリクエストが大好きだぜ! やってやろうじゃないか! だが、残念ながらアコースティックの音源がない。だから……俺が、この場で歌う。聴いてくれ、俺の『バーニング・ラブ』を!」
エリザは執務室でその放送を聴き、眉をひそめた。
「歌う……だと? 何を考えている、この男は」
部下が報告する。
「少佐、予定通りなら工作員はあと数分で設計図を奪取し、脱出ポイントへ向かうはずです」
「待ちなさい」
エリザはリオの意図を探ろうと、神経を集中させた。歌が始まった。それは、プロとは到底言えない、ひどく不器用で、音程が少し外れたアカペラだった。
しかし、その歌には、原曲にはない奇妙な「間」と「咳払い」が混じっていた。
「……熱く燃える……(コン、コン)……愛の……炎よ……(……コン)……」
エリザははっとした。モールス信号だ。だが、その内容は支離滅裂で意味をなさない。ただの悪ふざけか? いや、違う。この男が、この土壇場で無意味なことをするはずがない。
「逆よ……! すべて逆なんだわ!」
エリザは叫んだ。
「奴は、我々が暗号を解読したことを見抜いた。そして、本来の指令内容を“反転”させる、新たなコードを即興で送っている! 『バーニング・ラブ(熱)』を『アコースティック(冷)』で歌う。それは、作戦の“熱”を“冷ませ”、つまり『中止しろ』という合図! そしてあの咳払いは……」
彼女は素早くモールス信号を逆から解読し、戦慄した。
「……ニ・ゲ・ロ・ワ・ナ・ダ……」
それは工作員への警告であると同時に、エリザ自身への挑戦状だった。
その頃、帝国の研究所に潜入していた連合の工作員は、小型受信機から流れるリオの拙い歌を聴き、凍りついていた。彼は即座に意味を理解した。奪取寸前だった設計図を置き、彼は音もなく闇に溶けた。その数分後、エリザの部隊が突入した研究室は、もぬけの殻だった。
作戦は失敗に終わった。だがエリザは、怒りよりも奇妙な高揚感を覚えていた。スピーカーの向こうにいる、顔も知らない宿敵。彼女は窓の外に広がる夜のカーテンを見つめ、静かに呟いた。
「面白いじゃない、鋼鉄のカナリア。あなたのさえずり、次はどんな音色で私を楽しませてくれるのかしら」
放送を終えたリオは、汗で濡れたシャツのまま、椅子に深く沈み込んだ。ブースの外で歓喜に沸く仲間たちの声を遠くに聞きながら、彼はマイクに向かってそっと囁いた。
「リクエスト、届いたかい? ……また、来週」
声の戦争に、終わりは見えない。しかし、今夜もまた、一羽のカナリヤが、その声で仲間を救ったのだった。
鋼鉄のカナリア
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