***第一章 敵の懐中時計***
店のドアベルが、乾いた音を立てて鳴った。煤けたガラスの向こうに立つ長身の影に、ケンジは思わず身を固くする。埃っぽい店内に踏み込んできたのは、敵国の軍服をまとった将校だった。冷たく磨かれた黒いブーツが、油の染みた床板を軋ませる。この街が占領されてから幾月も経つが、これほど高位の軍人が、しがない時計修理店に何の用だろうか。
ケンジは、作業台の上の分解されたムーブメントから顔を上げた。二十歳を少し過ぎたばかりの彼の指先は、油と金属の匂いに染まっている。
「ご用件は」
声を絞り出すと、自分でも驚くほどか細く響いた。恐怖を悟られまいと、彼は背筋を伸ばす。
将校は無言のまま、分厚い手袋を外し、懐から古びた銀の懐中時計を取り出した。そして、それをカウンターにそっと置いた。カツン、という硬質な音が、二人の間の緊張を一層際立たせる。
「これを、直せるか」
低く、抑揚のない声だった。しかし、その声色とは裏腹に、時計を見つめる男の瞳には、奇妙なほどの熱が宿っていた。
ケンジは恐る恐るその懐中時計を手に取った。ずしりとした重みが掌に伝わる。丁寧に面取りされたケース、繊細なギョーシェ彫りが施された文字盤。そして、裏蓋に刻まれた、小さな三日月と星を組み合わせた紋様。その瞬間、ケンジの心臓が大きく跳ねた。
「これは……」
声が震える。この意匠は、三年前に戦争で死んだ父、高名な時計職人だったマサトが得意としたものだった。父の作品は、その精巧さと美しさで知られ、一つひとつにこのサインが刻まれていた。だが、何かが違う。父の紋様はもっと曲線が柔らかく、星の位置も微妙に異なっていた。酷似しているが、父のものではない。
「父の……いいえ、父の作風にとてもよく似ている」
ケンジが呟くと、将校は初めてわずかに表情を動かした。
「君がマサトの息子か」
「……ご存知なのですか」
「腕の良い職人だと聞いていた。その息子なら、この時計を直せるはずだ」
男の言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
ケンジは葛藤した。敵国の将校。彼らのせいで、父は死に、街は活気を失い、人々は怯えて暮らしている。その敵に、父の魂が込められたような時計の修理を頼まれるとは、何の皮肉か。断るべきだ。それが、父への、そしてこの国への義理だ。
しかし、彼の指は、止まったままの青焼きの秒針をそっと撫でていた。時計職人の血が、この複雑で美しい機械の沈黙を許さないと叫んでいる。そして何より、この時計に隠された謎が、彼の心を強く掴んで離さなかった。なぜ、敵国の将校が、父の紋様に似た時計を?
「……お預かりします。一週間、お時間をください」
気づけば、ケンジはそう答えていた。将校は何も言わず、ただ静かに頷くと、再び手袋をはめ、音もなく店を出ていった。
一人残された店内に、止まった懐中時計の冷たい感触だけが、生々しく残っていた。ケンジは、自分がとてつもなく重い扉を開けてしまったような予感を覚えながら、作業灯の光の下で、その時計の裏蓋に工具を当てた。
***第二章 刻まれた秘密***
懐中時計の修理は、困難を極めた。内部の構造はケンジがこれまで見たこともないほど複雑で、いくつかの歯車には意図的としか思えない微細な傷がつけられていた。それはまるで、単なる時間を刻むための機械ではなく、何か別の目的のために作られた暗号装置のようだった。
「父さん、一体これは何なんだ……」
ケンジは、今は亡き父に語りかけるように呟いた。父から受け継いだルーペを目に、彼は来る日も来る日も、その小さな宇宙と向き合った。
修理を始めて三日目の午後、あの将校が再び店に現れた。彼は何も言わず、ただ椅子に腰かけ、ケンジの作業を静かに見つめている。その視線は、監視のようでもあり、祈りのようでもあった。二人の間に言葉はない。ただ、規則正しく時を刻む壁の振り子時計の音と、ケンジが使う工具の繊細な金属音だけが、店内に響いていた。
時折、空襲警報のサイレンが遠くで鳴り響き、街を震わせた。そのたびに、将校の眉間に深い皺が刻まれ、その瞳に暗い影がよぎるのをケンジは見た。彼は冷酷な侵略者というより、何か重い運命を背負い、それに耐え続けている男のように見えた。ケンジの中に、最初に抱いた憎しみとは違う、複雑な感情が芽生え始めていた。
ある日、ケンジはテンプ受けの裏に、肉眼ではほとんど見えないほどの小さな文字が彫り込まれているのを発見した。「Ad astra per aspera.(困難を乗り越えて星へ)」。ラテン語の警句。父が口癖のように言っていた言葉だった。なぜ、こんな場所に。謎は深まるばかりだった。
時計は、ケンジの技術と知識の全てを注ぎ込むことで、少しずつ生命を取り戻しつつあった。しかし、どうしても一つの歯車のかみ合わせだけがうまくいかない。まるで、最後の鍵が足りないパズルのようだった。
約束の一週間が近づくにつれ、ケンジの焦りは募っていく。そんな彼の様子を察してか、将校は店を訪れるたびに、小さな包みを置いていくようになった。中には、このご時世では手に入りにくい黒パンや、チーズが入っていた。それは、無言の励ましのようにも感じられた。
敵と味方。その境界線が、この小さな時計店の中では曖昧に溶けていくようだった。ケンジは、自分が修理しているのは単なる時計ではなく、この男の、そして自分自身の失われた何かを繋ぎとめるための、大切な絆のようなものではないかとさえ思い始めていた。
***第三章 瓦礫の中の真実***
約束の一週間が経った夜、街はこれまでにない激しい空襲に見舞われた。爆音と振動が、古い建物を根こそぎ揺るがす。ケンジは作業台の下に蹲り、頭を抱えた。手元には、あと一歩で完成するはずの懐中時計があった。彼は無我夢中でそれをポケットにねじ込み、店の裏口から飛び出した。
夜空は不気味なオレンジ色に染まり、火の粉が雪のように舞っていた。防空壕へと走る人々の波に揉まれながら、ケンジは何度も振り返った。父から受け継いだ、彼の世界のすべてだった店が、轟音とともに炎に包まれ、崩れ落ちていくのが見えた。
煙と混乱の中、彼は指定された防空壕になんとか辿り着いた。人々の呻き声と子供の泣き声が響く地下の空間で、彼は壁に背を預け、呆然と座り込んだ。すべてを失った。そう思った時、ポケットの中の懐中時計の硬い感触が、彼を現実に引き戻した。
その時だった。人混みをかき分けるようにして、一人の男が彼の方へ近づいてきた。軍服はところどころ焼け焦げ、腕からは血が流れている。あの将校だった。
「無事だったか……少年」
彼は安堵の息を漏らし、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えている。
「時計は……?」
「ここに」
ケンジがポケットから時計を取り出すと、将校の目に、紛れもない喜びの色が浮かんだ。
「君に、話さねばならないことがある」
将校は、壁に身を預け、苦しげに息をしながら語り始めた。その言葉は、ケンジの世界を根底から覆す、衝撃的なものだった。
「私は、君たちが言う『敵』ではない。私は、この戦争を内側から終わらせるために活動する、レジスタンスの一員だ」
将校――彼の本当の名はクラウスといった――は、敵国の軍部に潜入したスパイだった。そして、ケンジの父、マサトもまた、国境を越えた平和主義組織のメンバーであり、彼の同志だったのだ。
「君のお父さんは、事故で死んだのではない。私たちの活動に気づいた軍の秘密警察に、暗殺されたんだ」
ケンジは息を呑んだ。信じられなかった。優しくて、ただひたすらに時計を愛していた父が、そんな危険な活動に?
「この時計は」と、クラウスは続けた。「君のお父さんが、私たちのために作った、特殊な通信機だ。針の動き、チャイムの音階、そして内部の歯車の配列そのものが、暗号になっている。君が見つけたラテン語は、我々の合言葉だ」
あの奇妙な傷、複雑な構造、全てに意味があったのだ。
「時計が壊れたのは、次の重要な情報を仲間へ送る直前だった。修理できるのは、マサトの技術と哲学を受け継いだ、彼の息子である君しかいないと信じていた」
ケンジの頭は混乱していた。憎むべき敵だと思っていた男は、父の遺志を継ぐ同志だった。正確で、誰にでも平等だと信じていた「時間」の象徴である時計は、戦争を終わらせるための秘密の武器だった。尊敬する父は、自分の知らないところで、命を懸けて平和のために戦っていた。
彼は瓦礫と化した店を、失われた日常を思った。そして、父が本当に守りたかったものが何だったのか、おぼろげながら理解し始めていた。それは、特定の国やイデオロギーではなく、人々が穏やかに時を刻める、ささやかな未来そのものだったのだ。
ケンジは、懐中時計を固く握りしめた。足りなかった最後のピースが、今、カチリと音を立ててはまった気がした。
「……分かりました。この時計は、僕が必ず完成させます。父に代わって」
彼の声には、もう恐怖の色はなかった。そこには、父から息子へと受け継がれた、静かで、しかし揺るぎない決意が宿っていた。
***第四章 未来を刻む音***
夜が明けると、空襲の爪痕が生々しく広がっていた。ケンジの店は、完全に瓦礫の山と化していた。しかし、彼は絶望しなかった。近くの半壊した建物の軒下を借り、奇跡的に無事だった父の工具箱から、最低限の道具を取り出した。
クラウスは、ケンジの傍らで傷の手当てをしながら、静かに見守っていた。ケンジは、父の遺志を、クラウスの信頼を、その両肩に感じながら、作業に没頭した。もはやそれは単なる修理ではなかった。父との対話であり、平和への祈りを込めた儀式だった。
最後の歯車を組み込み、竜頭を巻く。すると、止まっていた秒針が、ためらうように一度震え、そして静かに、しかし力強く動き始めた。
カチ、カチ、カチ……。
その音は、破壊され尽くした街の静寂の中に、驚くほどクリアに響き渡った。それは、ただの機械音ではなかった。混沌とした世界の中で、決して失われることのない秩序と、未来へと向かう希望の鼓動そのものだった。
ケンジは、完成した時計をクラウスに手渡した。
「ありがとう、ケンジ君」
クラウスは深く頷き、その時計を慈しむように胸のポケットにしまった。「君のお父さんは、時間が未来を刻むと信じていた。だからこそ、今この一瞬を正しく刻むことに命を懸けたんだ。君も、立派な時計職人だ。彼もきっと、誇りに思うだろう」
それが、二人の別れだった。クラウスは、新たな情報を携え、再び危険な任務へと戻っていった。彼の後ろ姿が瓦礫の向こうに消えるのを、ケンジはただ黙って見送った。
戦争は、まだ終わらない。悲しみも、破壊も、すぐになくなるわけではないだろう。
ケンジは、瓦礫の中から焼け残った木の板を拾い集め、小さな作業台を作った。そして、その上に父の工具を並べた。近所の人々が、空襲で壊れた柱時計や、止まってしまった腕時計を、彼の元へ持ってくるようになった。
「ケンちゃん、これ、直せるかい?」
差し出された時計の針は、爆撃の衝撃を受けた時刻で、固く止まっていた。
ケンジは、その時計を静かに受け取った。そして、父がそうしていたように、小さなネジを回し、歯車を磨き、止まった時間に再び命を吹き込み始める。
カチ、カチ、カチ……。
瓦礫の街に、また一つ、小さな鼓動が蘇る。その一つひとつの音が、いつか訪れるはずの平和な未来を、静かに、しかし確実に刻んでいる。ケンジは、時計の向こうに、父が夢見た星空と、これから自分が刻んでいくべき時間の、果てしない広がりを見つめていた。
止まった針が告げるもの
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