折師(おりし)と鋼の鶴

折師(おりし)と鋼の鶴

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その戦争の勝敗は、火薬の量でも、兵士の数でもなく、一枚の紙を折る指先の繊細さで決まった。

「鋼紙(こうし)」と呼ばれる金属繊維を漉き込んだ特殊紙。それを折り上げて作られる自律人形「折兵(おりへい)」。東方連合とガルム帝国が繰り広げる百年戦争は、いつしか「折紙戦争」と呼ばれるようになっていた。

キリヒトは、埃っぽい補給廠の隅で、壊れた偵察用の「燕」の翼を修復していた。かつて「神の指を持つ」と謳われた天才折師は、今や前線を退いたただの修理工だ。鋭い牙を持つ「虎」も、空を裂く「龍」も、もう二度と折らないと心に誓っていた。三年前、彼が折った最強の折兵が暴走し、多くの仲間を巻き込んだあの惨劇以来。

「キリヒト!」

血相を変えて飛び込んできたのは、この第十七前線基地の司令官、リナだった。幼馴染でもある彼女の顔には、硝煙の汚れと焦りが浮かんでいる。

「敵の新型だ!『黒狼(ヴォルフガング)』……こちらの『犀』や『熊』が、まるで紙切れのように引き裂かれていく!」

窓の外に目をやると、黒煙の向こうに巨大な獣の影が蠢いていた。帝国の新型折兵ヴォルフガング。その漆黒の巨体は、連合の誇る重装甲折兵をいともたやすく蹂躙していた。基地の防衛線が崩壊するのは時間の問題だった。

「頼む、キリヒト。折ってくれ。あなたにしか折れない、伝説の『鳳凰』を」

リナの懇願に、キリヒトは固く目を閉じた。鳳凰。あらゆる折兵を焼き尽くすという、究極の攻撃型折兵。だが、その制御の難しさこそが、三年前の悲劇を生んだ元凶だった。

「できない。あれは……あれは呪いだ。味方も敵も、全てを灰にする」
「じゃあ、このまま見殺しにしろって言うの!?」

リナの悲痛な叫びが、キリヒトの心を抉る。脳裏に、炎の中で助けを求めていた仲間の顔が蘇る。もう誰も傷つけたくない。だが、何もしなければ、今度は目の前の仲間が死ぬ。

キリヒトは、震える手で工具を置いた。そして、倉庫の奥から、封印されていた一枚の巨大な鋼紙を運び出した。真紅の、血のような色をした最高品質の鋼紙だ。

「……折るよ。だが、鳳凰じゃない」

訝しげなリナを尻目に、キリヒトは鋼紙を広げた。その大きさは、部屋を埋め尽くすほどだ。彼は深呼吸を一つすると、その指をしなやかに躍らせ始めた。

山折り、谷折り。角を合わせ、折り筋をつける。その動きに一切の無駄はなく、まるで神聖な舞踊のようだった。絶望的な戦況の中、基地の兵士たちが固唾をのんで彼の作業を見守る。誰もが伝説の鳳凰の再来を期待していた。

しかし、組み上がっていく形は、彼らの想像とは全く異なっていた。鋭い嘴も、巨大な翼もない。それは、無数の小さなパーツが複雑に組み合わさった、巨大なオブジェのようだった。

「……鶴……?それも、千羽鶴だと?」

誰かが呆然と呟いた。そう、キリヒトが折っていたのは、一体の巨大な「千羽鶴」だった。戦場には最も似つかわしくない、平和の象徴。

「キリヒト、ふざけてるの!?」リナが叫んだ。
その時、ヴォルフガングの咆哮が基地を揺らし、司令部の壁が崩れ落ちた。

「間に合え……!」

キリヒトは最後の折りを終え、その中央に掌を置いた。
「目覚めろ。これは、殺すための力じゃない。守るための、祈りだ!」

刹那、巨大な千羽鶴がまばゆい光を放った。そして、信じられないことが起こる。連結していた一体一体の鶴が分離し、千の群れとなって空へと舞い上がったのだ。一羽一羽は手のひらサイズだが、鋼紙でできたその翼は、金属音を立てて空気を切り裂く。

千の鋼の鶴は、巨大なヴォルフガングへと殺到した。それは攻撃ではなかった。鶴の群れは、ヴォルフガングの装甲の隙間、関節、動力パイプへと吸い込まれるように潜り込んでいく。内部に侵入した鶴たちは、その金属繊維の身体で回路をショートさせ、駆動系を物理的にロックした。

ギャギャギャッ、と耳障りな不協和音を立て、あれほど猛威を振るった黒狼が、動きを鈍らせていく。やがて、巨体はバランスを崩し、操り糸の切れた人形のようにゆっくりと膝をついた。完全に沈黙したのだ。

だが、鶴たちの舞いは終わらない。群れは帝国軍の歩兵部隊の上を旋回し、兵士たちの銃口を塞ぎ、スコープを覆い、視界を奪った。一発の銃弾も、一筋の炎も使うことなく、ただ飛び回るだけで、一個大隊の戦力を完全に無力化してしまった。

呆然とする帝国軍は、やがて統制を失い、撤退を始めた。

静寂が戻った基地で、兵士たちは空を舞う千の鶴を見上げていた。それは、恐ろしくも、どこか幻想的な光景だった。

「……誰も、死んでいない」リナが震える声で言った。「戦争に勝ったのに、誰も死なずに済んだ……」

キリヒトは、空を見上げたまま、静かに答えた。
「武器が憎いんじゃない。憎むべきは、命が奪われることだ」

彼の指は、まだ新しい何かを折りたがっているように、かすかに疼いていた。破壊ではなく、未来を。絶望ではなく、希望を。

キリヒトの本当の戦いは、今、始まったばかりだった。

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