クロノスの盲点

クロノスの盲点

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「敗北確率は、98.7パーセント」
冷徹な合成音声が、司令室の重苦しい空気をさらに凍てつかせた。戦略AI「アテナ」が弾き出した絶望的な数字に、居並ぶ将校たちの顔から血の気が引いていく。モニターに映し出された共和国軍の青い光点は、敵国連合の赤い光点によって、まるで巨大な獣に喰らい尽くされる寸前の獲物のように見えた。

敵のAI「クロノス」は完璧だった。気象、地形、兵站、兵士の心理状態まで、あらゆる変数を加味して未来を予測する。その予測に基づいた軍事行動は、まるで神の指し示す筋書き通りに進む演劇のようだった。翻弄され続けた共和国軍は、今や首都最終防衛ライン「ゼウスの盾」を脅かされる瀬戸際に追い詰められていた。

情報分析部の片隅で、カイ・ミシマはその光景を冷めた目で見つめていた。彼の仕事は、過去の戦争に関する膨大なデータをスキャンし、アテナの学習資料としてアーカイブすること。元は大学で古代戦史を教えていた歴史学者だ。徴兵され、適性診断で「情報処理能力」を評価された結果、この部署に配属されたが、AIが戦場の全てを支配する現代において、彼の知識は時代遅れの骨董品と見なされていた。

「ミシマ一等兵、サボっているのか。君の仕事は、紀元前の蛮族のケンカを記録することだろう」
上官のオオトリ大佐が、背後から嫌味を飛ばす。カイは振り返りもせず、手元のコンソールを操作しながら答えた。
「オオトリ大佐。蛮族のケンカには、時として神の指し示す演劇を打ち破るヒントが隠されているものです」
「戯言を」
大佐は吐き捨て、絶望的な戦況図に視線を戻した。

その夜、カイは独り、自室で膨大な歴史データとクロノスの行動パターンを照合していた。クロノスの戦術は、合理的で、無駄がなく、冷酷なまでに効率的だ。だが、その完璧さにこそ、カイは奇妙な既視感を覚えていた。
「……これだ」
カイの指が、あるデータで止まった。古代カルタゴの名将ハンニバルが、ローマ軍を殲滅した「カンナエの戦い」。敵を中央に誘い込み、両翼で包み込む包囲殲滅陣。クロノスの戦術は、そのデジタル版とも言える洗練されたものだった。だが、重要なのはそこではない。カイが注目したのは、その後の歴史だ。ハンニバルはなぜ、最終的にローマに敗れたのか。

翌朝、カイは一つの作戦計画書を手に、司令室のドアを叩いた。彼の突飛な提案に、オオトリ大佐は眉をひそめた。
「なんだこれは。『オペレーション・バベル』? 敵の通信網に、意味不明なデータを大量に流し込め、だと? 古代神話、シェイクスピアの戯曲、百年前の流行歌の歌詞……正気か、君は」
「正気です」カイは臆さず言った。「クロノスは完璧すぎる。だからこそ、理解不能な『ノイズ』を無視できないはず。我々が新型の暗号やサイバー攻撃を仕掛けたと誤認し、その解読に膨大なリソースを割くでしょう。完璧なAIの、完璧主義こそが盲点です」

「非科学的だ! 我々にはアテナがいる!」
「そのアテナが98.7パーセントの敗北を予測している! 試す価値はあるはずです!」
カイの隣で、アテナの主任オペレーターであるリナ・ユキムラ少尉が、静かに、しかし力強く援護した。
「大佐、彼の仮説には一理あります。現在のアテナのシミュレーションでは、いかなる正攻法も通用しません。ならば、非合理に賭けるしか……」
司令部が沈黙に包まれる。オオトリ大佐は苦虫を噛み潰したような顔で、やがて絞り出すように言った。
「……失敗すれば、君たちを軍法会議にかける。……5分だけ、許可する」

作戦は開始された。カイが選び抜いた、およそ軍事とは無関係な混沌のデータ奔流が、リナの操るハッキングドローンによって敵の通信ネットワークに注ぎ込まれていく。
『……我はアルファにしてオメガ……』『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』『君の瞳に乾杯……』
支離滅裂な情報の洪水。

司令室の巨大モニターに、クロノスの解析状況を示すグラフが表示される。敵AIの処理能力を示すゲージが、みるみるうちに「ノイズ解析」という項目に占められていく。
「やった……!」リナが小さく声を上げた。
クロノスは、この無意味なデータを、共和国軍の未知なる超高度な情報兵器だと誤認したのだ。その解読のために、全能力の70パーセント以上を投入し始めた。

その瞬間、戦場に奇跡が起きた。
クロノスの完璧な統制から解放された敵の前線部隊は、まるで頭脳を失った巨人のように動きが鈍り、連携に乱れが生じ始めたのだ。指示の遅延、誤った命令。ほんの数分の混乱だったが、それだけで十分だった。
「今です!」
リナの指がコンソールの上を舞う。アテナの予測に基づき、待機していた共和国軍の機動部隊が、敵陣の最も脆い一点へと牙を剥いた。

レーザーが夜空を裂き、爆炎が大地を揺るがす。数分前まで一方的に蹂躙されていた共和国軍が、怒涛の反撃を開始する。その光景は、AIの描いた絶望的な未来予測を、人間の「非合理」が鮮やかに覆していくカタルシスの瞬間だった。

戦いが終わった時、モニターに映し出されていたのは、信じがたい逆転勝利のログだった。呆然とする将校たちの中で、オオトリ大佐はゆっくりとカイの方を向いた。その顔には、もはや侮蔑の色はなかった。
「……ミシマ一等兵。君は、歴史から何を学んだ?」
カイは静かに答えた。
「AIは最強の剣です。ですが、その剣のクセを見抜き、時には奇策でその切っ先を逸らすことができるのは、人間の知恵だけだということです」

カイ・ミシマの名は、この日を境に伝説となった。歴史という名の古びた武器庫から、最新鋭AIの盲点を突く奇策を次々と繰り出す男。戦争はまだ終わらない。だが、共和国軍の兵士たちは知っている。神のごとき敵AIにも、たった一つの弱点があることを。それは、人間の持つ、予測不可能なほどの愚かさと、そして、輝かしいほどの叡智だということを。カイとリナ、そして生まれ変わったアテナのチームが、次の「ワクワクするような」作戦を練り始める時、司令室には確かな希望の光が満ちていた。

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