エコー・ギャンビット

エコー・ギャンビット

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司令室の戦略ホログラムに映し出される光点は、絶望的な現実を冷徹に示していた。赤く点滅する無数の光――銀河ヘゲモニア連合の第四艦隊が、我々自由都市同盟最後の拠点、アステロイド要塞『プロメテウス』を完全に包囲している。その数、およそ三千。対する我々の艦艇は、寄せ集めの三十隻にも満たない。

「もはやこれまでか……」
白髪のダニロフ司令官が、絞り出すように呟いた。誰もが沈黙し、敗北の匂いが濃密に漂う。その静寂を破ったのは、部屋の隅でコンソールを眺めていた男の声だった。

「司令、まだ手はあります」

一同の視線が、作戦参謀のリョウ・サカキに集まった。彼は元々、伝説的なリアルタイムストラテジーゲームのプロプレイヤーで、『盤面の支配者(ボードマスター)』の異名を持っていた。戦場という究極のゲームにスカウトされてまだ半年。その若さと実績のなさから、古参の将校たちには侮られていた。

「サカキ参謀、冗談はよせ。この戦力差でいかなる手があるというのだ」
副司令が苛立たしげに言った。リョウは静かに立ち上がると、戦略ホログラムの中央に進み出た。

「チェスでは、劣勢の時にこそ仕掛ける定跡があります。『ギャンビット』。あえて駒を犠牲にし、より大きな利益、つまり盤面の主導権を奪うための戦術です」
リョウはホログラムを操作し、味方の艦隊を示す青い光点のうち、半数を要塞から遠く離れた宙域へと移動させた。それは敵の補給路でもなければ、戦略的要衝でもない、ただの何もない空間だった。

「主力艦隊の半分を、あんな宙域に? 正気か!」
「これは自殺行為だ! 敵に各個撃破されるだけだぞ!」
非難の声が飛び交う中、リョウは平然と続けた。
「この作戦の成否は、エースパイロットのサラ・ヴィンセント中尉にかかっています。彼女の部隊に、最新鋭のステルス輸送艦を一隻、与えてください」

ダニロフ司令官は、リョウの揺るぎない瞳をじっと見つめていた。藁にもすがる思いだったのかもしれない。
「……よかろう。全権を君に委ねる。このプロメテウスの運命、君の『盤面』とやらに賭けてみよう」

***

ヘゲモニア連合艦隊旗艦『テュランノス』ブリッジ。司令官ギデオン将軍は、敵の不可解な動きをせせら笑っていた。
「半数を意味もなく遊弋させるとは。劣勢で思考が麻痺したか。愚かな。予定通り、正面から総攻撃をかけよ。あの岩塊を宇宙の塵にしてしまえ」

ヘゲモニアの圧倒的な火力がプロメテウスのシールドを叩き、要塞が激しく揺れる。一方、リョウが派遣した別動隊も、案の定ヘゲモニアの哨戒部隊に発見され、交戦状態に陥っていた。全てがギデオンの、そしてヘゲモニアが誇る戦術予測AI『オラクル』の計算通りに進んでいるように見えた。

その頃、誰にも気づかれず、戦場の喧騒から遠く離れた暗礁宙域を、一隻のステルス輸送艦が滑るように進んでいた。
「こちら、サラ。リョウ、あんたの言う『敵の心臓部』とやらに着いたわよ。ただの旧式通信中継ステーションにしか見えないけど?」
艦長のサラ・ヴィンセントが、ヘルメット越しに皮肉を飛ばす。
『それで合っています、中尉。そこはただの中継ステーションではありません。ヘゲモニア全軍の思考を司るAI『オラクル』の、物理的なバックアップデータが保管されている『聖域』です』
リョウの冷静な声が返ってきた。
『彼らは、物理攻撃など絶対にあり得ないと信じきっている。だから警備も手薄です。中尉の腕なら、内部に侵入し、データを書き換えるのは造作もないはず』
「ハッ、人使いが荒いことで。で、なんて書き換えればいいの?」
『簡単な偽情報です。『自由都市同盟の隠し艦隊、ヘゲモニア首都星系へワープ準備中』と』

サラの部隊は、わずかな抵抗を排除してステーションを制圧。そして、リョウの指示通り、『オラクル』のバックアップデータに偽の情報を埋め込んだ。それは、大海に垂らされた一滴のインクに過ぎなかった。

***

旗艦『テュランノス』のブリッジに、けたたましいアラートが鳴り響いた。
「将軍! 『オラクル』より緊急勧告! 敵の別働隊の動きは陽動! 本命は首都星系への奇襲です! 脅威レベル、最大!」
オペレーターの絶叫に、ギデオンは目を見開いた。
「馬鹿な! 奴らにそんな戦力が残っているはずが……!」
だが、『オラクル』の予測は絶対だ。これまで幾多の勝利をもたらしてきた神託にも等しい。首都を失うリスクと、目の前の要塞を潰す利益。天秤にかけるまでもない。

「……お、全艦隊、反転! 急ぎ首都星系へ転進せよ! プロメテウスの攻略は中断する!」
ギデオンの苦渋に満ちた命令が下った。三千の艦隊が、まるで巨大な獣が向きを変えるように、ゆっくりとプロメテウスに背を向け始めた。

その瞬間を、リョウは見逃さなかった。
『司令、今です! 全艦、最大船速! 敵艦隊の背後を突きます!』

がら空きになった敵艦隊のエンジン部に、プロメテウスから飛び出した全艦艇と、陽動に出ていた別動隊が牙を剥いた。無防備な背中を晒したヘゲモニア艦隊は、予期せぬ奇襲に大混乱に陥る。推進システムを破壊された艦が次々と爆散し、統制を失った艦隊は雪崩を打って敗走していった。

静まり返った司令室で、歓喜の雄叫びが上がる。ダニロフ司令官は、呆然とホログラムを見つめていた。たった三十隻で、三千の艦隊を退けたのだ。

リョウは一人、自席のコンソールに表示させていたチェス盤のホログラムを見ていた。キングの駒を、そっと指で倒す。

『サラ中尉、聞こえますか。素晴らしい仕事でした』
通信機からは、サラの呆れたような、それでいて楽しげな声が返ってきた。
「全くよ。あんたのゲームに付き合うのは心臓に悪いわ。でも……たまにはこういうスリルも悪くないかもね、『盤面の支配者』さん」

リョウは小さく微笑むと、通信を切った。戦いはまだ終わらない。だが、この勝利で盤面の主導権は奪った。ヘゲモニアという巨大な相手に、鮮やかなチェックメイトを決めるその日まで、彼のゲームは続くのだ。

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