刻限の残響、未来の幻影
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刻限の残響、未来の幻影

第一章 錆びた針の音

左腕に浮かぶ蒼白い数字が、また一つ減った。カイの『刻限』。それはこの世界に生きる誰もが背負う、死へのカウントダウンだ。街角の広場で、男が二人、互いの刻限を賭して争っていた。鈍い金属音が響き、短い悲鳴が上がると、敗者の身体が砂のように崩れ落ち、その腕から光の粒子が立ち上る。勝者の腕の数字が、眩い光とともに加算されていく。人々は目を伏せ、あるいは羨望の眼差しでそれを見つめ、足早に去ってゆく。これが日常。これが世界の理(ことわり)。

カイはその光景から逃げるように、路地裏へと駆け込んだ。背中を壁に預け、荒い息を整える。その夜、眠りについたカイの意識の縁に、見知らぬ子供たちの姿が揺らめいた。半透明の影。声はなく、ただじっとカイを見つめている。その瞳には、問いかけるような、あるいは責めるような、深い哀しみが湛えられていた。

翌朝、カイは自らの指先が微かに透けていることに気づき、息を呑んだ。まるで、存在そのものが薄められていくような、不気味な感覚。食卓の向かいに座る幼馴染のエリアが、心配そうに眉を寄せた。

「また、あの夢を見たの?」

カイは頷けない。これは夢ではない。現実が、彼の内側から侵食されていく予兆だ。エリアの視線が、カイが首から下げている古びた懐中時計へと注がれる。それは父の形見で、針はとうの昔に止まっていた。いや、この世界で唯一、誰の寿命とも連動しない、『純粋な時間』を刻み続けているのだと、父は言っていた。カチ、カチ、という微かな音が、世界の法則に抗うように、静かに響いていた。

第二章 透ける身体と囁き

警鐘が鳴り響き、街全体が震えた。東の都市国家が、我々の街に『刻限戦争』を仕掛けてきたのだ。空は砲火の煤で淀み、鉄の焼ける匂いが風に乗って運ばれてくる。争いが激化するにつれ、カイの世界は幻影で満たされていった。

子供たちだけではない。若者、老人、男、女。数えきれないほどの幻影が、彼の部屋を、通りを、視界のすべてを埋め尽くす。彼らは、カイにしか見えない。カイにしか、聞こえない。

『どうして、私たちは生まれなかったの?』

『父さん、母さんになるはずだった人…』

『あなたの未来に、私たちの居場所はなかったのですか?』

囁きは脳髄に直接響き、カイの精神を削り取っていく。彼の身体はますます希薄になり、エリアが差し出したパンを掴もうとした指は、するりとそれを通り抜けた。エリアは悲鳴を押し殺し、涙を浮かべてカイの腕を掴む。その手にも、確かな感触はなかった。

「もう、やめて…」

カイは呻いた。誰にともなく。幻影たちか、この世界そのものにか。この苦しみの根源を絶たなければ、自分は消えてしまう。彼は、震える足で立ち上がった。エリアの制止を振り切り、争いの中心地、刻限が最も激しく奪い合われている戦場の中心へと、ふらつく足取りで向かった。

第三章 懐中時計の奇跡

戦場は、刻限を求める者たちの狂騒と、失う者たちの絶望が渦巻く地獄だった。カイは、何万もの刻限をその身に吸収し、神々しいほどに輝く一人の『勝者』の前に立っていた。男は、希薄なカイの姿を嘲笑い、その残り少ない刻限すら奪おうと腕を振り上げる。

その瞬間、カイの胸元から、あの『無刻限の懐中時計』が鎖ごと滑り落ちた。硬い地面にぶつかり、カシャン、と澄んだ音を立てる。

カイの隣に佇んでいた幼い少女の幻影が、その時計に吸い寄せられるようにおそるおそる手を伸ばした。透き通った指先が、鈍色の金属に触れる。

奇跡が起きた。

幻影の少女の身体が、束の間、確かな輪郭と色彩を取り戻したのだ。彼女は驚いたように自分の手を見つめ、そして顔を上げ、実体のある声で叫んだ。

「お願い…! あの人を、止めて…!」

少女の小さな指が指し示したのは、遥か上空。硝煙の向こう、赤黒い空にぽつりと浮かぶ、ローブを深く被った人影だった。その姿に気づくと、カイを取り巻く全ての幻影たちが、一斉にその人影を指差した。声なき叫びが、慟哭が、カイの魂を激しく揺さぶった。彼らこそが、この悲劇の元凶だと、全身で訴えているようだった。

第四章 管理者の謁見

幻影たちの無数の指が天を突く中、その人影――『刻限の管理者』が、音もなくカイの眼前に降臨した。途端に、戦場の全ての音が消え、人々の動きが凍りつく。まるで、世界という舞台の時間が、演出家の一存で止められたかのように。

「ようやく見つけた。お前が、この流れの始まり、特異点か」

管理者の声は、年齢も性別も感じさせない、不思議な響きを持っていた。次の瞬間、カイの意識は戦場から引き剥がされ、光の筋が無数に流れる異空間へと転移させられていた。ここは、あらゆる可能性と、あらゆる未来が交差する、時間の奔流の中心。

管理者は、カイに向き直ると、ゆっくりとフードを外した。

その下に現れた顔を見て、カイは息を呑んだ。自分と瓜二つ。ただ、その瞳には、幾億の歳月を生き抜いたかのような、底知れない疲労と諦観が宿っていた。

「驚いたか。私は、お前だ。遥か未来に生まれるはずだった、お前の遠い、遠い子孫だよ」

管理者は静かに告げた。

「そして、この『刻限の奪い合い』というシステムを構築したのも、この私だ」

第五章 悲劇の選択

管理者は語り始めた。彼が生まれた本来の未来。そこでは、人々は寿命の限りを生きられたが、際限のない欲望が、終わりのない戦争を生み出した。国々は滅び、大陸は裂け、最終戦争の劫火は、星そのものを焼き尽くし、ついには時間という概念さえも消滅させたのだという。

「私は、最後の人間として、全てが『無』に帰すのを目の当たりにした。そして、たった一つの能力を使い、時間を遡った。お前が持つ、その能力の源泉を使ってな」

彼の能力。それは、カイと同じく、失われた未来を幻影として認識する力。彼はその力を逆用し、過去に干渉した。争いの本質を、領土や資源といった無限の欲望から、有限である『刻限』の奪い合いへと矮小化させた。人々は小さな争いを繰り返すが、世界全体を滅ぼすような大戦は起こらない。一部の者が消滅する代わりに、全体は存続する。それが、彼の作り出した、悲劇の上に成り立つ歪んだ平和だった。

「私は世界を救ったのだ。最大の悲劇を、無数の小さな悲劇に分割することでな」

カイが見る幻影は、このシステムによって生まれる可能性を摘み取られた、彼自身の血脈に連なる子孫たちの魂の残滓だった。彼らが管理者を指差すのは、自分たちの存在を消し去った創造主への、悲痛な抗議だったのだ。

「その懐中時計を渡せ」と管理者は言った。「それは、私が作り出したシステムにおける唯一のバグ。時間を固定し、失われた未来を繋ぎ止める特異点。それを破壊すれば、システムは盤石となり、お前の苦しみも終わる」

管理者は手を差し伸べた。

「……あるいは、その時計の力を使えば、このシステムそのものを破壊することも可能だろう。だが、その先に待つのは、私が命懸けで回避した『完全な消滅』の未来かもしれん。さあ、選べ、始まりの男よ。この管理された平和を肯定するか。不確かな破滅に、全てを賭けるか」

第六章 明けない夜の決断

カイの周りを、無数の子孫の幻影が静かに取り囲んでいた。彼らはもう何も囁かない。ただ、その哀しげな瞳で、彼らの始祖であるカイの決断をじっと見守っている。

カイは、手のひらにある『無刻限の懐中時計』を強く握りしめた。カチ、カチ、と規則正しく時を刻む音が、希薄になった身体に、確かな存在の重みとして伝わってくる。それは、奪い合うためではない、ただそこに在り、過ぎてゆく、純粋な時間の音。誰もが忘れてしまった、命の音だった。

『カイなら、どうする?』

どこからか、エリアの声が聞こえた気がした。

光の粒子と化しかけた身体で、カイはゆっくりと顔を上げた。目の前に立つ、自分と同じ顔をした絶望の救世主を、真っ直ぐに見据える。彼の瞳には、もう迷いはなかった。

カイは懐中時計を、静かに胸の前に掲げた。

管理者の目が、僅かに見開かれる。それは驚愕か、あるいは、待ち望んだ答えを得た安堵だったのか。

カイが握りしめた時計から、柔らかな光が溢れ出した。それは、彼の希薄な身体を満たし、周囲を取り巻く幻影たちを優しく包み込んでいく。指先から、足元から、幻影たちの輪郭が溶けていく。だがそれは、消滅ではなかった。彼らは、一人、また一人と、満足したような、穏やかな微笑みを浮かべながら、光の粒子となってカイの身体の中へと還っていく。失われた未来たちが、その根源である現在へと、還っていく。

やがて、全ての幻影がカイの中に溶け込んだ時、彼の身体は眩いばかりの光を放ち、確かな実体を取り戻していた。左腕の刻限の数字は、跡形もなく消えている。

管理者は、その光景をただ黙って見ていた。彼の頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。

「そうか……」彼は、まるで長年の呪縛から解き放たれたかのように呟いた。「それもまた、一つの未来か……」

カイは、管理者――かつての自分自身であった者に向かって、静かに頷いた。彼が選んだのは、システムの維持でも破壊でもない。失われた全ての未来の可能性を、その哀しみを、たった一人で背負って歩き出すという、第三の道だった。その先に何が待つのかは、誰にも分からない。だが、彼の瞳には、夜明け前の空のような、静かで力強い光が宿っていた。

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