追憶のフーガ

追憶のフーガ

0 4570 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 残響の調律師

リヒトの仕事場は、静寂と硝子の匂いに満ちていた。彼の肩書は「記憶調律師」。国家からは英雄と称えられ、兵士たちからは畏怖の目で見られる、この長きにわたる戦争の鍵を握る存在だ。彼の仕事は、捕らえた敵兵の脳から「戦術記憶」を抽出し、それを味方の新兵に注入すること。記憶を奪われた捕虜は、言葉も感情も失った抜け殻となり、注入された新兵は、一夜にして百戦錬磨の戦士へと生まれ変わる。効率的で、残酷な、戦争の新しい形だった。

リヒトは、目の前の捕虜の蟀谷(こめかみ)に、繊細な銀色の針が並んだヘッドギアを慎重に装着した。男は、敵国グライフェンの標準的な軍服を着ている。年は二十歳そこそこだろうか。恐怖に強張った顔が、リヒトの心を鈍く抉る。彼はいつも、この瞬間に目を閉じる。

「――調律、開始」

コンソールのスイッチを入れると、機械が低く唸り、目の前の硝子管に淡い光の粒子が流れ込み始めた。それは、男の脳から抽出された記憶の奔流。リヒトの意識は、その流れに同調し、必要な情報だけを濾し取っていく。戦車の配置、補給路、指揮官の癖。無機質な情報の断片を拾い上げる作業。だが、意図せず流れ込んでくる個人的な記憶の断片が、彼を苛む。母親の温かいスープの味、恋人と交わした他愛ない約束、故郷の祭りの喧騒。他人の人生の残響が、彼の精神を少しずつ削り取っていくのだ。

作業は順調に進んでいた。だが、その時だった。リヒトの脳裏に、突如として鮮やかな旋律が響き渡った。それは、彼だけが知っているはずの歌。幼い頃、病弱だった妹のセナが、窓辺でよく口ずさんでいた子守唄だった。

なぜ?

リヒトは思わず目を見開いた。セナは五年前、グライフェン軍の無差別爆撃で、瓦礫の下敷きになって死んだ。あの日以来、彼の中から消えたはずの温かい光。その光の残滓である歌を、なぜこの敵国の兵士が知っている?

記憶の奔流の中に、映像が浮かび上がった。夕暮れの麦畑。そよ風に揺れる黄金色の穂。そして、この若い兵士が、汗を拭いながら、穏やかな表情でその歌を口ずさんでいる。それは、憎しみに満ちた敵兵の顔ではなかった。ただ、故郷を愛する一人の青年の顔だった。

リヒトは激しい動悸を覚え、強制的に調律を中断した。硝子管の中の光が霧散し、捕虜は糸の切れた人形のように椅子に崩れ落ちる。アラームが鳴り響く中、リヒトは震える手でコンソールを握りしめていた。

妹の歌。敵国の兵士。夕暮れの麦畑。

バラバラのピースが、彼の築き上げてきた世界の土台を、静かに揺さぶり始めていた。

第二章 偽りの面影

あの日以来、リヒトは眠れない夜を過ごしていた。瞼を閉じれば、あの兵士の記憶がフラッシュバックする。妹の歌声と、穏やかな麦畑の風景。それは、彼が信じてきた「敵」のイメージとはあまりにもかけ離れていた。グライフェンは、我々の土地を奪い、家族を殺した憎むべき侵略者。そう教え込まれ、彼自身もその憎しみを原動力に、この残酷な任務に身を投じてきたはずだった。

「セナの歌は、我が家に代々伝わるものだ。他人が知るはずがない……」

リヒトは、軍の記録保管庫に忍び込んだ。彼には特権が与えられており、多少の逸脱行為は見逃される。目的は、あの兵士――個人識別番号G-734の身上データだ。彼はデータを引き出すと、自室の端末で禁じられている「記憶の断片の再構成」を試みた。抽出した記憶は不安定で、完全な再生は術者の精神を汚染する危険な行為だった。だが、リヒトはもはや躊躇えなかった。

彼の意識が、再びG-734の記憶の海へと潜っていく。今度は戦術情報ではなく、より深く、個人的な領域へ。

最初に感じたのは、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、石畳のひんやりとした感触だった。そこは、彼の故郷とは全く違う、湖畔の小さな村。白い壁の家々が並び、人々が笑顔で行き交っている。平和そのものの光景だ。そして、彼は「見た」。G-734の記憶を通して、村の広場で開かれる収穫祭の様子を。楽しげな音楽、人々の笑い声。その中に、リヒトは息を呑んだ。

G-734の視線の先に、亜麻色の髪を三つ編みにした少女がいた。年の頃は十歳ほど。彼女は、他の子供たちと一緒に輪になって踊りながら、あの歌を口ずさんでいた。妹のセナに、瓜二つだった。同じ髪の色、同じ笑った時のえくぼ、そして何より、同じ歌声。

リヒトの精神が悲鳴を上げた。これは何だ?パラレルワールドか?それとも、G-734が妹の死に関わっていて、その罪悪感が見せる幻覚なのか?だが、記憶の中の空気はあまりに生々しく、陽光の暖かさや、風が運ぶ花の香りまでが、リヒトの五感を直接刺激した。

彼は混乱の極みに達した。もし、セナが生きているとしたら?敵国で?なぜ?そして、自分が信じてきた「セナの死」とは、一体何だったのか。彼の足元が、ぐらりと崩れるような感覚。今まで彼を支えていた、妹への復讐心という柱に、大きな亀裂が入っていくのが分かった。

第三章 砕かれた万華鏡

真実の糸口は、思わぬところから見つかった。リヒトは過去の記憶抽出記録を洗い直し、ある奇妙な共通点に気づいた。戦争が激化し始めた七年前を境に、両国の捕虜から抽出される「個人的な過去の記憶」の質が、著しく低下しているのだ。それ以前の記憶は豊かで多様性に富んでいるのに対し、七年前以降の記憶は、まるで誰かが書いた脚本のように、類型的で、憎しみに満ちたエピソードばかりが目立っていた。

リヒトは、自らが開発に関わった記憶調律技術の、最も根源的な理論ファイルにアクセスした。最高機密のロックを、自らの生体認証で解除していく。そこに記されていたのは、彼が今まで知らされていなかった、この技術の真の目的だった。

「国家間記憶改竄計画――コードネーム:レテ」

画面に表示された文字列を、リヒトは呆然と見つめた。

計画の概要は、彼の理解を、そして常識を遥かに超えていた。

そもそも、リヒトの祖国「アウローラ」と敵国「グライフェン」は、元々一つの連邦国家だった。人々は言葉も文化も共有し、平和に共存していた。しかし、地下資源の発見を機に、一部の権力者と軍産複合体が、富の独占を画策した。彼らは、国民を分断し、戦争状態を作り出すことで、莫大な利益を得ようとしたのだ。

その手段こそが、「記憶操作」だった。

彼らは、記憶調律技術を応用した大規模な記憶送信装置を使い、七年前に全国民から「共通の過去」に関する記憶を抜き取った。そして、代わりに「長年にわたる対立と憎しみの歴史」という、完全に捏造された偽りの記憶を植え付けたのだ。人々は、一夜にして、かつての隣人を「不倶戴天の敵」と認識するようになった。リヒトが信じてきた歴史も、セナがグライフェンの爆撃で死んだという悲劇も、すべてが、その時に植え付けられた偽りの記憶だった。

リヒトは、自分の頭を抱えた。全身から血の気が引いていく。では、妹のセナは?G-734の記憶の中にいた、あの少女は?

答えは、残酷なほどに単純だった。セナは、死んだのではない。ただ、分断された国家の向こう側、グライフェンと呼ばれるようになった地域に、家族と共に「割り振られた」だけだった。リヒトの記憶の中の「爆撃で死んだ妹」は、彼を戦争に駆り立てるための、巧妙に仕組まれた偽りの楔(くさび)だったのだ。

彼の英雄としてのアイデンティティ、戦争の大義、愛する妹を失った悲しみ――その全てが、砂上の楼閣のように崩れ落ちた。彼は、ただの操り人形だった。それも、自らの手で、同じように操られた人々から記憶を奪い、憎しみを再生産し続ける、最も愚かで哀れな人形。

コンソールの前で、リヒトは声を殺して嗚咽した。砕かれた万華鏡のように、彼の世界は無数の偽りの破片となって、足元に散らばっていた。

第四章 再生のフーガ

絶望の底で、リヒトの中に一つの熾火(おきび)が生まれた。それは、怒りであり、贖罪への渇望であり、そして何よりも、妹にもう一度会いたいという、純粋な願いだった。彼は、この狂った戦争を終わらせることを決意した。自らが作り上げた、この忌まわしい技術を使って。

リヒトは数日をかけて、計画を練り上げた。軍の中央記憶サーバーの奥深くに、七年前に人々から抜き取られ、封印された「本物の記憶」のデータバンクが存在することを、彼は突き止めていた。コードネーム「ムネモシュネ」。それを解放し、両国全土にブロードキャストする。それしか、方法はない。

決行の夜。リヒトは、首都に設置された最大出力の記憶送信アンテナに侵入した。警報が鳴り響き、兵士たちの怒声が迫る。だが、もはや彼に恐怖はなかった。彼はコンソールに座り、震える指で「ムネモシュネ」の封印を解いた。

「――再生、開始」

彼の最後の命令と共に、膨大な光の奔流がアンテナから解き放たれた。それは、忘れ去られた平和の記憶。アウローラとグライフェンが、まだ一つの国だった頃の、温かい日々の記録だった。

最前線で、引き金に指をかけていたアウローラの兵士が、ふと動きを止めた。彼の脳裏に、目の前の敵兵の顔が、幼い頃、一緒に川で魚を捕った悪友の顔と重なった。

塹壕に潜んでいたグライフェンの兵士は、砲弾の音の中に、遠い昔に聞いた祭りの音楽を聴いた。憎い敵が話す言葉が、亡き祖母の優しい訛りと同じであることに気づいた。

記憶は、光の波となって戦場を駆け巡った。市場で交わした笑顔、共に歌った祝いの歌、助け合った嵐の夜。憎しみという分厚い壁が、温かい追憶の雨に打たれ、少しずつ溶けていく。

あちこちで、銃声が止んだ。兵士たちは、武器を落とし、呆然と立ち尽くす。誰かが、懐かしい故郷の民謡を、ぽつりと口ずさんだ。すると、向かいの塹壕から、それに続くか細い歌声が聞こえてきた。やがて歌声は一つになり、戦場に、敵味方の区別ない、哀しくも美しいフーガ(遁走曲)が響き渡った。

アンテナの制御室で、リヒトはその光景をモニター越しに見ていた。全ての力を使い果たした彼の身体は、ゆっくりと椅子に沈んでいく。膨大な記憶の奔流を解放した代償として、彼自身の記憶もまた、急速に薄れ始めていた。家族の顔、友人たちの声、そして自らの名前さえもが、遠い霧の向こうに霞んでいく。

最後に彼の意識に残ったのは、一つの鮮やかな旋律だけだった。

窓辺で妹が歌ってくれた、あの優しい子守唄。

戦争は、その日、終わった。

歴史の偽りは正され、人々は失われた絆を取り戻すための、長く困難な道を歩み始めた。誰も、この奇跡を引き起こした「記憶調律師」の名を知らない。彼は、歴史の影に消えた無名の英雄となった。

ただ、新しい時代に生まれた子供たちは、親からこう教えられる。世界が憎しみで満たされた時、どこからか美しい歌が聞こえてきたら、耳を澄ましなさい、と。それは、我々が失くしてはならないものを、思い出させてくれる歌なのだと。その歌の主の名を、誰も知らなかったが、その旋律は、人々の心の中で永遠に生き続けるのだった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る