第一章 忘却の街のレクイエム
灰色の空の下、都市は静かすぎた。人々は黙々と歩き、感情の起伏を見せない。大戦が終わって十年。物理的な傷跡はほとんど復興されたが、この街からは「音」が奪われたままだった。かつて人々が口ずさんだ歌、子供たちの無邪気な笑い声、恋人たちが交わした愛の囁き。それらはすべて、大戦末期に両陣営が最終兵器として投入した音響兵器『サイレント・コーラス』によって、人々の記憶から根こそぎ消し去られていた。
僕、リョウの仕事は「記憶修復師」。といっても、失われた記憶を完全に取り戻せるわけではない。依頼人の話を聞き、残された日記や写真などの記録から、失われた生活の輪郭を再構築し、物語として提供する。それは、空っぽの器に水を注ぐような、虚しくも、誰かにとっては必要な儀式だった。
「リョウさん、お願いがあるんです」
ある日の午後、古びた椅子に腰掛けた老婆、サキノさんがしわがれた声で言った。彼女は僕の数少ない常連で、いつもは亡き夫との他愛ない日常の再構築を依頼してくる。だが、今日の彼女の瞳には、いつもと違う切実な光が宿っていた。
「消えたはずの歌を、思い出させてほしいんです」
その言葉に、僕は思わずカルテから顔を上げた。「歌、ですか?」
「ええ。どんなメロディだったか、どんな歌詞だったか、まったく思い出せない。でもね、時々、胸の奥がじんと温かくなるんです。まるで、誰かが歌ってくれているみたいに。その温もりだけが、確かにここにある」
彼女はそう言って、皺だらけの手をそっと胸に当てた。
戦争で失われた「歌」の修復依頼など、前代未聞だった。記録媒体はすべて破壊され、人々の記憶からも消えている。手掛かりはゼロに等しい。不可能だと断るべきだった。だが、なぜだろう。彼女の言葉を聞いた瞬間、僕自身の胸の奥にも、微かな疼きが走ったのだ。それは、僕が事故で失った過去の記憶と、どこかで繋がっているような、奇妙な既視感だった。
「……分かりました。手掛かりは何もありませんが、できる限り探してみましょう」
その無謀な約束が、僕と、この静かすぎる世界の運命を大きく揺るがすことになるなど、その時の僕は知る由もなかった。僕の忘却の深淵で、ひとつのレクイエムが静かに鳴り響き始めた。
第二章 残響者たちの囁き
サキノさんの依頼を引き受けてから、僕の日常は一変した。閉鎖された旧市街の図書館跡に忍び込み、焼け焦げた本の残骸から「音楽」や「詩」に関する記述を探した。だが、見つかるのは意味をなさない言葉の羅列ばかり。この世界では、美しい言葉の連なりさえもが、記憶と共にその価値を失っていた。
調査を進めるうち、僕は奇妙な噂を耳にするようになった。「残響者」と呼ばれる人々がいるらしい。彼らは、僕と同じように、時折、理由のわからない感情の波や、音のないメロディ、色のない情景といった「記憶の断片(エコー)」を感じるのだという。
僕は必死の思いで、残響者たちが集うという地下のコミュニティに辿り着いた。そこは、打ち捨てられた地下鉄のホームで、壁には意味不明の絵が描かれ、人々は途切れ途切れの言葉で、自らが感じる「エコー」について語り合っていた。
「風の匂いがしたんだ。甘くて、懐かしい匂いが」
「俺は、夕焼けを見た。空が真っ赤に燃える、あんな色は初めてだった」
彼らの言葉は、他の人々にとっては狂人の戯言にしか聞こえないだろう。だが、僕には分かった。彼らは、失われた世界の美しさを、その魂の片隅で覚えているのだ。
そこで、僕はひとりの若い女性、ユナと出会った。彼女は、目を閉じると、輝く光の粒が舞い踊る光景が見えるのだという。
「それはきっと、雪よ」僕は無意識に呟いていた。
「ユキ……?」ユナは不思議そうに首を傾げた。
「空から降ってくる、冷たくて白い結晶です。光に当たると、キラキラ輝く」
僕の口から滑り出た言葉に、僕自身が驚いた。なぜ、僕は雪を知っている? 僕の記憶にも、そんなものは存在しないはずなのに。ユナは目を丸くして僕を見つめ、やがてその瞳に涙を浮かべた。
「そう……きっと、それだわ。なんて、綺麗な名前なの」
彼女の涙を見て、僕は確信した。僕たちは、巨大な忘却の海に沈んだ世界の、最後の記憶の灯台なのだ。だが、なぜ僕たちだけが? なぜ、僕の脳裏には、時折あのサキノさんが探す歌の、途切れたメロディが響くのか?
謎は深まるばかりだった。まるで、僕自身の過去が、僕に何かを必死に伝えようと囁いているかのようだった。その囁きに耳を澄ますほど、僕の心臓は激しく鼓動し、失われたはずの感情が、少しずつ色を取り戻していくのを感じていた。
第三章 追憶のエネルギー
残響者たちとの交流を深める中で、僕はひとつの名前に辿り着いた。「カジワラ」。大戦中、音響兵器開発の中心にいた科学者。そして、僕が記憶を失う前の、かつての上司だった人物だ。彼は戦後、一切の消息を絶っていたが、僕は彼が隠遁生活を送る山麓の研究所を突き止めた。
古びた研究所の扉を開けると、そこには白髪の老人がいた。カジワラだ。彼は僕の顔を見るなり、すべてを悟ったような、悲しげな目を向けた。
「……リョウか。ついに、ここまで来たんだな」
僕は堰を切ったように問い詰めた。サイレント・コーラスとは何なのか。なぜ僕たちは記憶を失ったのか。そして、残響者の正体とは。
カジワラの口から語られた真実は、僕の想像を遥かに超える、おぞましくも哀しいものだった。
「あれは、記憶を消す兵器などではない」彼は静かに言った。「真逆だよ。サイレント・コーラスは、人間の記憶の中から、最も純粋で強烈な『幸福の記憶』だけを抽出し、それを高純度のエネルギーに変換するための装置だ」
僕は言葉を失った。エネルギー? 僕たちの思い出が?
「そうだ。大戦末期、両陣営は資源が枯渇し、新たなエネルギー源を渇望していた。そこで着目されたのが、人間の感情エネルギーだった。特に、愛、喜び、感動といったポジティブな記憶は、莫大なエネルギーを生み出す。戦争は、領土や資源ではなく、互いの国民が持つ『幸福な思い出』を奪い合う、史上最も残酷な収奪戦争だったのだ」
街の静けさ。人々の無表情。すべてが繋がった。僕たちは、幸福だった記憶を根こそぎエネルギーとして吸い取られ、その抜け殻として生きているに過ぎなかったのだ。
「では、僕は……?」
「君は、最高の開発者だった。だが、最後には良心の呵責に耐えられなくなった。敵国の首都にサイレント・コーラスが向けられた時、君はそれを阻止しようとした。そして……君は、自らの記憶をシステムに捧げたんだ」
カジワラは苦しげに顔を歪めた。
「君は、愛する女性との、最も幸福でかけがえのない思い出のすべてをコアに叩き込み、システムを意図的に暴走させた。その膨大なエネルギー過負荷によって、兵器は沈黙した。君は世界を救ったんだ。その代償として、君自身の記憶と、君が捧げた思い出の中にあった……君の恋人が歌ってくれた、あの歌と共に」
サキノさんが探していた歌。それは、僕が世界から消し去った歌だった。僕が残響者なのは、僕自身が、この忘却の世界を生み出した元凶であり、最大の犠牲者だったからだ。足元から世界が崩れ落ちるような感覚に襲われた。僕は英雄などではない。愛する人の記憶さえも、自らの手で消し去った愚か者だった。
第四章 解放のシンフォニー
研究所の中枢、ガラス張りのシリンダーの中で、淡い光の粒子が静かに渦巻いていた。世界中から収奪された、数えきれない人々の「幸福な思い出」が、エネルギーとしてそこに封じ込められていた。カジワラはそれを「追憶の貯蔵庫」と呼んだ。
真実を知った僕の中から、過去を取り戻したいという執着は消え失せていた。代わりに、燃えるような怒りと、そして深い哀しみが込み上げてきた。この光は、誰かの初めての恋であり、家族との温かい食卓であり、友と笑い合った夜であり、我が子の誕生を喜んだ涙なのだ。それをエネルギーとして利用し、無味乾燥な平和を享受するなど、断じて許されることではない。
「カジワラさん。これを、解放します」
僕の決意に、カジワラは驚きもせず、静かに頷いた。「分かっていたよ。君なら、そう言うだろうと。だが、それをすれば、この国のエネルギーシステムは崩壊する。世界は再び混乱に陥るぞ」
「それでも、偽りの平穏より、真実の混乱を選びます。人々は、自分たちが何を失ったのかを知るべきなんです。思い出せなくてもいい。ただ、かつて自分たちに、こんなにも温かい時間があったのだということを、感じるべきなんです」
僕はコンソールに向かった。指が自然に動く。身体が、このシステムの操作方法を覚えていた。愛する人の顔も名前も思い出せない。けれど、彼女を、そして彼女と過ごした時間を守りたいという強い想いが、僕を突き動かしていた。
最後のリバース・プロトコルを起動する。シリンダーが眩い光を放ち、研究所の天井が開き、光の奔流が空へと向かって解き放たれた。
その夜、世界中に「追憶の雨」が降った。
光の粒子となった無数の思い出が、静まり返った街々に降り注いだ。それは、物理的な雨ではない。人々の心に直接降り注ぐ、感情のシャワーだった。
街角で、人々は理由もわからず立ち尽くし、空を見上げていた。ある者は、頬に伝う涙の温かさに驚き、ある者は、胸の奥から込み上げる笑いをこらえきれずにいた。誰かの母親が作ったシチューの匂い、遠い夏祭りのざわめき、初めて手をつないだ時の高鳴り。記憶は戻らない。けれど、その「感覚」だけが、人々の乾いた心に染み渡っていった。
僕は、サキノさんの元を訪れた。彼女は窓辺に座り、静かに空を見上げていた。
「リョウさん」彼女は僕に気づくと、穏やかに微笑んだ。「聴こえるかい? あの歌が」
もちろん、メロディは聴こえない。けれど、僕にも分かった。この空気の震え、胸を満たす温もり。これが、僕が忘れたはずの歌なのだ。
僕たちは、もはや失われた記憶を取り戻すことはないだろう。愛する人の顔を思い出すことも、二度とないかもしれない。
だが、それでいい。
追憶の雨に濡れた街で、人々は初めて互いの顔を見合わせ、戸惑いながらも、かすかな笑みを浮かべ始めていた。失われたものへの想像力が、これから新しい歌を、新しい物語を、そして新しい愛を紡いでいくはずだ。
僕が捧げたたった一つの思い出が、世界中に無数の温かい感情の種を蒔いたのだと信じて。僕は静かに目を閉じ、胸に宿る確かな温もりを、ただ抱きしめていた。