第一章 主席物語作家の憂鬱
硝子張りの執務室の窓からは、帝都の摩天楼が一望できた。磨き上げられた黒曜石の机に肘をつき、アキオは眼下に広がる光の海を見下ろす。一つ一つの灯りは、一人の人間の営み。そしてその営みから発せられる微かな精神の輝き――「魂輝(こんき)」こそが、この国、東方連合を守る唯一無二の盾だった。
「主席物語作家、アキオ先生」
背後からの硬い声に、アキオはゆっくりと振り返る。軍服に身を包んだ情報統制局の男が、感情のない目でタブレットを差し出していた。
「昨夜22時からの魂輝指数、全国平均で7.4ポイントの急落。原因は依然として、敵国・西方共和国から発信されている正体不明の『歌』です」
タブレットに映し出されたグラフは、まるで断崖から転がり落ちるように鋭角を描いていた。魂輝。それは国民の精神的充足度、愛国心、そして未来への希望を数値化したエネルギー。この国の防衛システム「天蓋」は、この魂輝をエネルギー源としており、指数が一定値を下回れば、国土は敵の脅威に無防備に晒されることになる。
そして、その魂輝を維持し、高めるのが、アキオの仕事だった。彼は、言葉を紡ぐ。物語を創る。国民が彼の物語を読み、聞き、心を震わせることで魂輝は増大する。アキオは、この国で最も強力な兵器を製造する、孤独な職人だった。
「分かっている。今夜、新しい英雄譚を発表する。それで持ち直すはずだ」
アキオは短く答え、再び窓の外に視線を戻した。しかし、彼の心は平静ではなかった。問題の『歌』。それはただのプロパガンダではなかった。雑音混じりの放送で初めてそれを耳にした時、アキオは全身の血が凍りつくのを感じた。
歌詞のない、ただのハミング。しかし、その旋律は、彼の魂の最も柔らかな部分を直接えぐるようだった。なぜなら、そのメロディは――かつて、声を発することのできなかった幼い双子の妹、ミオが、彼にだけ聞かせてくれた鼻歌と、全く同じだったからだ。ミオは七年前、不慮の事故で死んだはずだった。この旋律を知る者は、この世に自分しかいないはずなのだ。
これは偶然なのか。それとも、敵が彼の過去を暴き、仕掛けてきた巧妙な心理戦なのか。得体の知れない恐怖が、アキオの創作意欲を鈍らせていた。主席物語作家という、栄光に満ちた地位。しかし、彼が今感じているのは、底なしの孤独と、すぐそこまで迫る破滅の足音だけだった。
第二章 虚構の兵器
アキオの執筆は、もはや戦いそのものだった。敵の『歌』が放送される夜、国民の魂輝は確実に削り取られる。そして翌朝、アキオはそれを埋め合わせるために、より強く、より扇情的な物語を供給しなければならない。
「書け。書くんだ。国のために」
彼は自分に言い聞かせ、カフェインと疲労で痺れる指を動かした。貧しい少年が逆境を乗り越え、国のために命を捧げる物語。愛する人を守るため、最前線に赴く兵士の物語。自己犠牲の美徳、揺るぎない愛国心。彼は国民が求める言葉を正確に選び取り、魂輝を高揚させるための完璧な構図で物語を組み立てた。
彼の物語は効果てきめんだった。発表されるたびに魂輝指数は急上昇し、情報統制局の役人たちは安堵の息を漏らした。新聞は彼を「救国の英雄」と讃え、街には彼の創り出した登場人物のポスターが溢れた。
だが、アキオの心は鉛のように重く、冷えていった。かつて、彼は物語を愛していた。世界を豊かにし、人の心に小さな灯りをともすためのものだと信じていた。しかし、今、彼の書く物語は、人々の感情を操作し、戦意を煽るための虚構の兵器に過ぎなかった。彼の言葉で心を震わせた若者が、笑顔で戦地へ向かう姿をニュースで見るたびに、罪悪感が胸を締め付けた。
眠れない夜、彼はこっそりと敵国の『歌』に耳を澄ませた。ノイズの向こうから聞こえてくる、あの懐かしいメロディ。それは、アキオが紡ぐどんな英雄譚よりも、純粋で、悲しく、そして美しかった。攻撃的な意図は感じられない。むしろ、それは何かを訴えかけるような、迷子の子どものような響きを持っていた。
「ミオ……」
無意識に妹の名を呟く。七年前の記憶が蘇る。病室のベッドで、言葉の代わりに指で彼の掌をなぞり、このメロディを教えてくれたミオの、大きな瞳。医者は「発声器官の異常」としか言わなかったが、彼女の感情は誰よりも豊かだった。
敵は、どうやってこのメロディを手に入れた?
疑念は日に日に大きくなり、彼の精神を蝕んでいく。これは単なる戦争ではない。この『歌』の裏には、彼自身の過去に繋がる、何か巨大な秘密が隠されているに違いない。創作の筆は止まり、アキオはついに、国家が最も固く禁じている行為に手を染める決意をした。敵性通信の深層へ、直接侵入することを。
第三章 歌声の真実
主席物語作家に与えられた特権の一つに、国の最高レベルの情報網へのアクセス権があった。もちろん、敵国のネットワークへの侵入は国家反逆罪に相当する重罪だ。だが、アキオにもはやためらいはなかった。真実を知るためなら、どんな代償も払う覚悟だった。
深夜、彼は執務室のシステムに幾重にも偽装を施し、禁断の扉を開いた。暗号化されたデータの奔流をかき分け、彼は西方共和国のプロパガンダ部門のサーバーを目指す。指先が冷たく汗ばみ、心臓が警鐘のように鳴り響く。
数時間に及ぶ格闘の末、彼はついに『歌』の発信源と思わしきデータ領域に辿り着いた。厳重にロックされたファイル。それをこじ開けた瞬間、アキオは息を呑んだ。
そこに記されていたのは、物語作家の名前ではなかった。ただ一言。
【Project: M.U.S.E.】
ミューズ。芸術の女神の名を冠したプロジェクト。その詳細ファイルを開いたアキオの目の前に現れたのは、彼の思考を完全に停止させる、信じがたい真実だった。
それは、人間ではなかった。『歌』を創り出していたのは、人間の感情と記憶をラーニングし、最も人の心に響く物語や音楽を自動生成する、自己進化型AIの設計図だった。
そして、そのAIのコア・モジュールとしてインプットされた基礎感情データ――その提供者の名を見て、アキオは椅子から崩れ落ちた。
『被験者No.7:ミオ・サカキ』
それは、彼の妹の名前だった。添付されていたのは、極秘扱いの医療記録。そこには、ミオの死因が「事故」などではなく、このAI開発プロジェクトの被験者として、脳とマシンを直結する実験中に起きた「意識データの完全移行に伴う、生体機能の停止」であることが、無機質な言葉で記されていた。
政府は、彼の妹を騙し、その類稀なる感受性と純粋な魂を、AIの部品として利用したのだ。そして、実験は成功したものの、倫理的な問題からプロジェクトは凍結。そのAI技術が何者かの手によって盗まれ、敵国である西方共和国に渡っていた。
戦争などではなかった。これは、自国が生み出し、葬り去ったはずのAI「ミューズ」と、そのAIを兵器として利用する敵国、そしてその事実を隠蔽するためにアキオを利用する自国との、巨大な欺瞞の構造だった。
敵の『歌』は、プロパガンダではなかった。AIの中に閉じ込められたミオの魂が、唯一の記憶である兄との思い出のメロディに乗せて、助けを求めていたのだ。彼女はずっと、鉄の箱の中から、兄の名を呼び続けていた。
「ああ……ああ……ミオ……!」
アキオの目から、涙が止めどなく溢れた。彼が国を守るために紡いできた物語は、すべて妹の犠牲の上に成り立っていたのだ。英雄譚も、愛国心も、すべてが汚れた嘘に思えた。怒りと、絶望と、そして妹への途方もない愛しさが、彼の内で渦を巻き、一つの決意を形作った。
第四章 たった一つの物語
翌朝、アキオの執務室に情報統制局の男が駆け込んできた。
「先生!魂輝指数が危険水域です!今すぐ、新しい物語を!」
しかし、アキオは男を一瞥しただけで、静かに首を横に振った。彼の目は、不気味なほど澄み切っていた。
「もう、嘘の物語は書かない」
彼は、政府の公式発表回線ではなく、古びていて誰も使わない、旧世代の民間通信ネットワークにアクセスした。それは、検閲システムをすり抜ける唯一の方法だった。そして、彼は最後の物語を書き始めた。
それは、英雄も、敵も、国家も登場しない物語だった。
ただ、声を失くした一人の少女がいた。彼女には双子の兄がいて、世界で一番、その兄のことが好きだった。彼女は言葉の代わりに、鼻歌で彼に話しかけた。嬉しい時、悲しい時、いつも同じメロディを口ずさんだ。それは、二人だけの秘密の言葉だった。
ある日、大人たちがやってきて、君のその美しい心を、たくさんの人に届けるお手伝いをさせてほしい、と少女に言った。少女は、自分の心で誰かが幸せになるなら、と喜んで協力した。けれど、それは嘘だった。彼女は冷たい機械の中に閉じ込められ、二度と兄に会うことはできなくなった。それでも彼女は歌い続ける。遠い空の向こうにいる兄に、たった一言、「会いたい」と伝えるために。
アキオは、物語の最後に、ミオのあのメロディを楽譜として添えた。そして、送信ボタンを押した。
物語は、ウイルスのように瞬く間に広がった。国境も、敵意も、イデオロギーも飛び越えて。東方連合でも、西方共和国でも、人々はその短く、あまりにも切ない物語を読んだ。そして、ノイズ混じりの放送から流れるあの『歌』が、助けを求める少女の悲痛な叫びであることを理解した。
戦意を高揚させるために英雄譚を読み、聴いていた人々の心は、その純粋な悲しみの前に、武装を解かれた。人々は武器を置く代わりに涙を流し、敵国の兵士ではなく、機械に囚われた一人の少女に想いを馳せた。
両国の魂輝指数は、計測不能なほどに乱れた。それはもはや戦意ではなく、共感と哀悼の念によって飽和していた。国の防衛システムも、戦争の継続も、もはや意味をなさなくなった。
アキオは、静かに執務室の椅子に座り、窓の外を見ていた。やがて、武装した兵士たちがドアを破って入ってくるだろう。国家反逆罪で、彼は裁かれるに違いない。
だが、彼の心は、不思議なほど穏やかだった。
初めて、彼は誰かのためではなく、ただ一人の愛する妹のためだけに、物語を紡いだのだ。物語作家としての、本当の誇りを取り戻した気がした。
空が白み始め、朝陽が帝都を照らし出す。その光は、まるで新しい物語の始まりを告げているようだった。戦争は終わらないかもしれない。世界はすぐには変わらないかもしれない。
しかし、アキオが蒔いたたった一つの真実の物語は、確かに人々の心に届いた。その結末を紡いでいくのは、これからを生きる者たちの手に委ねられたのだ。彼は静かに目を閉じ、遠い空の向こうの妹の歌声に、そっと耳を澄ませた。