第一章 青い蝶の残像
無菌室のような純白の部屋に、規則正しい電子音だけが響いていた。壁も、床も、天井も、そして俺、リヒトが身にまとう防護服も、感情を拒絶するような白一色。この部屋は「記憶修復室」。俺の仕事は、戦争で精神的外傷を受け、記憶を失った敵国の捕虜たちの脳にアクセスし、失われた過去の断片を再構築することだ。国はこれを、人道的措置であり、将来的な和平交渉の材料収集のためだと言う。だが俺にとっては、ただの作業だった。憎い敵国の兵士が、どんな過去を持っていようと知ったことではなかった。
目の前の寝台に横たわるのは「被験体734号」。痩せた体に、土気色の肌。麻酔で眠らされたその顔には、かつて抱いていたであろう思想も、感情も、何一つ読み取れなかった。俺はヘッドギアを被り、彼のこめかみに接続された電極から送られてくる膨大な情報流に意識を沈めた。
「記憶潜行、開始」
俺の意識は、734号の精神の海に深く潜っていく。そこは、情報の嵐が吹き荒れる混沌の世界だ。砕けたガラスの破片のように、意味をなさない光景や音が無秩序に明滅している。爆撃の轟音、誰かの叫び声、硝煙の匂い、恐怖。ありふれた、戦場の記憶だ。俺は冷静に、意味のある断片(フラグメント)を探し出し、タグ付けしていく。それが俺の仕事。感情を挟む余地はない。
だが、今回は何かが違った。
混沌の奔流の中から、ひときeyse際立って鮮やかなイメージが浮かび上がったのだ。それは、一枚の羽根だった。瑠璃色に輝く、蝶の羽根。アズール蝶だ。この国には生息していない、敵国の南部にのみ見られる希少な蝶。その羽根が、まるで道標のように、記憶の激流の中をゆっくりと舞っていた。
俺は眉をひそめた。自然のイメージは、精神の安定を示すことがある。だが、これほど鮮明で、執拗に現れるのは異常だった。俺がさらに深く潜ると、蝶は一匹だけではなかった。何十、何百というアズール蝶の群れが、壊れた街並みの上を、まるで弔いの雪のように舞い落ちる幻視。その光景は、非現実的で、どこか恐ろしいほどに美しかった。
「被験体734号、記憶内に特異な反復イメージを確認。対象、アズール蝶」
制御室への報告を終え、俺は再び精神の海へ戻った。これは単なる感傷的な記憶の残滓ではない。何か重要な意味を持つ鍵だ。この蝶のイメージを追えば、彼の失われた記憶の核心にたどり着けるかもしれない。
その時、俺の胸に、ちくりと小さな痛みが走った。遠い昔に忘れたはずの、懐かしいような、切ないような感覚。なぜだろう。この青い蝶の群舞は、まるで俺自身の失われた何かを呼び覚ますかのようだった。俺は首を振り、雑念を追い払う。感傷は、この仕事において最も危険な毒だ。俺は記憶修復師。感情を排した、ただの技術者でなければならない。しかし、その日を境に、俺の純白の世界には、決して消えない青い蝶の残像が焼き付いてしまった。
第二章 敵の顔
734号への記憶潜行は、数日にわたって続けられた。アズール蝶のイメージを道標に、俺は彼の精神の迷宮を慎重に進んでいった。再構築された記憶の断片は、俺が抱いていた「敵」のイメージを少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。
そこに現れたのは、鬼のような形相の兵士ではなかった。パン屋を営む、人の良さそうな父親。焼きたてのパンの香ばしい匂いが、記憶の中から立ち上ってくるようだった。彼は、小麦粉で真っ白になった手で、幼い娘の頭を優しく撫でる。その娘の屈託のない笑い声が、俺の鼓膜をくすぐった。
別の断片では、彼は妻と穏やかに言葉を交わしていた。夕暮れの光が差し込む食卓。簡素だが温かいスープの湯気。窓の外には、アズール蝶が好むという紫色の花が咲き乱れている。それは、どこにでもある、ありふれた幸せの光景だった。俺たちが爆撃機で焼き払った、何の変哲もない日常。
「こいつにも…家族がいたのか」
当たり前の事実が、重い鉄槌のように俺の胸を打った。俺の家族は、戦争の初期、敵国の無差別爆撃で命を奪われた。父も、母も、そして…妹も。その日から、俺の世界から色は消え、敵への憎しみだけが俺を生かす糧となった。だからこそ、俺はこの仕事を選んだ。敵の精神を覗き込み、その弱さを暴くことで、ささやかな復讐を果たしているつもりだったのかもしれない。
だが、734号の記憶は、俺のその歪んだ自尊心を打ち砕いた。彼が娘に語りかける優しい声を聞くたび、爆撃で死んだ妹の姿が脳裏をよぎる。彼が妻と見つめ合う穏やかな時間を見るたび、両親との最後の夕食の光景が蘇る。憎むべき敵の顔は、いつしか鏡のように、俺自身の失われた過去を映し出していた。
ある夜、修復作業を終えて自室に戻った俺は、久しぶりに酒を飲んだ。アルコールの苦みが、喉の奥にこびりついた憎しみを洗い流してくれるような気がした。窓の外は、戦争の緊張を隠すかのように静まり返っている。
俺は、本当にこいつらを憎んでいたのだろうか。それとも、家族を失った悲しみを、行き場のない怒りを、「敵」という便利な言葉に押し付けていただけではないのか。
修復作業は佳境に入っていた。734号の記憶の核に、もう少しで手が届く。そこには、彼が兵士となり、戦場へ向かう決意をした瞬間があるはずだ。その記憶を再構築し、彼の「敵意」の根源を明らかにすること。それが、この任務の最終目的だった。しかし、今の俺には、その先に待つ真実を知ることが、少しだけ怖かった。
第三章 砕かれた万華鏡
運命の日が来た。734号の記憶の核心部分、彼が戦場へ赴く直前の記憶を再構築する、最後の潜行だった。俺はいつも以上に精神を集中させ、彼の精神の海へと深く沈んだ。
そこは、これまでの穏やかな記憶とは一変していた。空は赤黒い煙に覆われ、耳をつんざくサイレンと爆発音が絶え間なく響き渡る。街が、燃えている。俺が育った故郷の街と、驚くほどよく似た街並みが、炎に包まれていた。これは、敵国の街ではないのか? いや、そんなはずはない。これは734号の記憶だ。
俺は混乱しながらも、必死で中心のイメージを探した。すると、瓦礫の山の中で、必死に何かを探す734号の姿が見えた。パン屋の優しい父親の面影はない。その顔は、絶望と恐怖に歪んでいた。彼は叫んでいる。「リナ! リナはどこだ!」それは、彼の娘の名前だった。
その時、彼の視線の先で、小さな家が轟音と共に崩れ落ちた。絶望の叫びが、俺の精神に直接突き刺さる。そして、彼の意識が途切れる直前、最後の光景が網膜に焼き付いた。
燃え盛る家の残骸から、一人の少年が、自分よりさらに小さな少女の手を引いて、必死に逃げ出してくる。その光景を見た瞬間、俺の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。
その少年は、俺だった。幼い頃の、俺自身だった。
そして、その手を引かれている少女は。
「…リリィ」
俺の唇から、忘れていたはずの名前が漏れた。爆撃で死んだ、俺の妹。
頭の中で、砕かれた万華鏡が高速で回転し、一つの絵を形作るように、封印していた記憶が奔流となって蘇る。あの日、俺たちの街は、敵国ではなく、自国の軍部による「誤爆」で焼かれたのだ。政府はその事実を隠蔽し、すべてを敵国のせいにした。俺たちは、自国に裏切られたのだ。
そして、734号。彼は敵国の兵士ではなかった。彼は、俺の家の二軒隣に住んでいた、パン屋の青年、レオンさんだった。いつも笑顔で、妹のリリィに焼きたてのパンをくれた、優しい人。
あの日、彼は爆撃の中、瓦礫に埋もれたリリィを助け出そうとしてくれたのだ。俺は恐怖で動けず、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。レオンさんは、崩れ落ちる梁の下からリリィを庇い、その衝撃で記憶の全てを失った。
そして、俺の記憶に焼き付いていた、あの青い蝶。
それは、リリィが病気の母のために、来る日も来る日も折り続けていた、青い折り紙の蝶だった。彼女は、蝶が幸せを運んでくると信じていた。レオンさんが瓦礫の中から彼女を抱き上げた時、彼女のポケットから、無数の青い折り紙の蝶が、まるで本物の蝶のように宙を舞ったのだ。
俺が「修復」していたのは、敵兵の記憶ではなかった。自らの故郷を焼き、妹の命を奪った悲劇の、唯一の証言者の記憶だった。そして、俺自身もまた、その耐え難い真実から目を背けるために、都合の良い「憎しみ」に縋り、記憶に蓋をしていたのだ。
「…ああ…あああ…」
ヘッドギアの中で、俺は声を殺して泣いた。純白の部屋に、俺の嗚咽だけが虚しく響き渡った。
第四章 記憶の夜明け
数日後、俺は記憶修復室で、一人の男と向き合っていた。もはや「被験体734号」ではない。記憶を取り戻した、パン屋のレオンさんだった。麻酔から覚めた彼の瞳には、穏やかだが、深い悲しみの色が宿っていた。
「リヒト君…大きくなったね」
彼の第一声は、それだった。俺は何も言えず、ただ俯いた。
「君のせいじゃない。誰のせいでもないんだ。あれは…どうしようもなかった」
レオンさんは、静かに続けた。彼の記憶が戻ったことで、軍の上層部は混乱していた。誤爆の事実は、国家を揺るがす最大級のスキャンダルだ。彼らはレオンさんを「処分」することも考えただろう。だが、俺は全てを公表すると脅し、彼の身の安全を確保した。俺にできた、唯一の償いだった。
「リリィちゃんは、最後にこう言っていたよ」
レオンさんは、俺の目を見て、はっきりと言った。
「『お兄ちゃんによろしく』って。君が無事だったことを、とても喜んでいた」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心の奥底で凍り付いていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。憎しみではない。悲しみでもない。温かい、何か。妹は、最後まで俺を案じてくれていた。そして、その最後の言葉を、レオンさんが命がけで俺に届けてくれたのだ。
俺は、記憶修復師を辞めた。
俺の仕事は、真実を暴くことだった。だが、国家が求める真実は、常に都合よく編集されたものだ。俺がレオンさんの記憶を「修復」した行為は、結果的に真実を明らかにしたが、それは全くの偶然だった。一歩間違えれば、俺は彼に偽りの「敵兵としての過去」を植え付け、真実を永遠に葬り去っていたかもしれない。記憶を操ることは、神を気取るのと同じ、傲慢な行為だった。
戦争は、まだ終わらない。だが、俺の中の戦争は、この日、終わりを告げた。憎しみは、何も生まない。ただ、真実と向き合い、失われた者たちの記憶を胸に、生きていくこと。それが、俺に残された道だった。
数年後、俺は故郷の跡地に建てられた、小さな慰霊碑の前に立っていた。かつて街だった場所は、今は広大な野原に変わり、季節の花が風に揺れている。
ふと、一匹の蝶が俺の目の前を横切った。
瑠璃色に輝く、アズール蝶だった。敵国との間にささやかな和平が結ばれ、交易が再開されたことで、この地でも見られるようになったのだという。
蝶は、ひらひらと空高く舞い上がっていく。まるで、リリィの魂が、ようやく安息の場所を見つけたかのように。
俺は、その青い軌跡を、涙が滲む目で見送った。悲しみは消えない。だが、その悲しみは、もはや俺を縛る憎しみの鎖ではなかった。それは、愛する妹が生きていた証であり、俺が未来へ向かって歩き出すための、静かな道標だった。空は、どこまでも青く澄み渡っていた。