第一章 迷子の記憶と古書の匂い
柏木透の一日は、他人の記憶で始まる。
それはいつからか定かではない。気づいた時には、毎朝目覚めの瞬間に、自分の経験とは無関係な、誰かの人生の断片が、まるで昨夜見た夢の残り香のように頭の中に漂っているのが日常になっていた。彼はそれを「迷子の記憶」と呼んでいる。
今朝の記憶は、ひどく鮮明だった。『夕暮れの光が差し込む理科準備室。アルコールの微かな匂いと、窓の外で騒ぐ運動部の声。目の前には、使い古された顕微鏡のレンズ。その向こうに、ミジンコが心臓を震わせているのが見えた』。透自身は、高校時代、理科室に良い思い出など一つもなかった。それなのに、その記憶には、懐かしさと愛おしさにも似た感情が伴っていた。
透はベッドから起き上がると、枕元の分厚いノートを開き、万年筆でその光景を書き留めた。ノートはすでに半分以上が、そうした「迷子の記憶」で埋め尽くされている。「公園のベンチで食べたクリームパンの、少しパサついた甘さ」「真夜中のコインランドリーで聞いた、乾燥機の単調な轟音」「初めて子猫に触れた時の、指先に伝わる柔らかな温もり」。誰かの、取るに足らない、しかし確かな生の実感。
彼は古書店「時の葉書房」の店主だった。祖父から受け継いだその店は、街の片隅でひっそりと息づいている。古い紙とインクの匂いが混じり合った独特の空気が、透にとっては一番落ち着くシェルターだった。彼は変化を好まない。一日が、昨日と寸分違わず過ぎていくことに安らぎを覚える。だからこそ、「迷子の記憶」は彼にとって、自分の日常を侵食しない、安全な距離にある奇妙さだった。それは、誰かの人生という名の本を、一日一ページだけ、こっそり読んでいるようなものだった。
その日も、透はカウンターの奥で、値付けの終わった文庫本に透明なカバーをかけていた。カタリ、とドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。ショートカットの髪が快活そうな印象を与えるが、どこか物静かな雰囲気をまとっている。
「何かお探しですか」
透が尋ねると、彼女は少し躊躇いがちに店内を見回し、やがて口を開いた。
「古い、写真集を探していて。特に名前のある作家とかじゃなくて、誰かが撮った、昔の日常みたいなものが……」
その言葉が、透の心の奥で微かな音を立てた。誰かの日常。それは、彼が毎朝受け取っているものと、どこか似ていた。彼は書棚の一角へ彼女を案内しながら、ふと、今朝の記憶のことを思い出していた。顕微鏡を覗き込んでいたのは、もしかしたらこんな女性だったのかもしれない。そんなあり得ない想像が、彼の静かな日常に、小さな波紋を広げた。
第二章 重なり合う影とフィルムの音
その女性、水野琹(みずの ことり)は、それから週に二、三度、店を訪れるようになった。彼女は決まって夕方の、客足が途絶える時間帯にやってきては、写真集の棚を熱心に眺め、時折、透に話しかけた。
「この時代の写真って、空気が写っている気がしませんか。人々の息遣いとか、その場の匂いとかまで」
琹が指差したのは、一九七〇年代の街角を撮ったモノクロの写真集だった。彼女の言葉は、透が「迷子の記憶」から感じ取るものと奇妙に共鳴した。彼は、自分がただの傍観者ではなく、記憶の当事者であるかのような錯覚に陥ることがあった。雨上がりのアスファルトの匂い。ジャズ喫茶で流れるビル・エヴァンスのピアノ。古いフィルムカメラの、カシャンという小気味よいシャッター音。
最近、透が受け取る「迷子の記憶」には、ある種の傾向が生まれていた。写真や音楽にまつわる記憶。そして、それらはすべて、同じ一人の女性の視点から見ているような、不思議な一貫性があった。まるで、連続ドラマの断片を、毎朝少しずつ見せられているようだ。
透は、その記憶の持ち主が琹なのではないか、という淡い疑念を抱き始めていた。だが、確かめる術はない。そもそも、どうやって尋ねればいいのか。「あなたは毎朝、僕に記憶を送っていませんか」などと。馬鹿げている。彼は自分の空想を打ち消すように、仕事に没頭しようとした。
しかし、琹との会話は、彼の心を少しずつ解きほぐしていった。彼女は自分のことをあまり話さなかったが、彼女が発する言葉の端々から、何かを、あるいは誰かを、深く愛し、そして喪った人間の持つ、独特の静けさが感じられた。
ある雨の日、店内で雨宿りをしていた琹が、ぽつりと言った。
「昔、好きな人がいて。写真を撮る人だったんです。何でもない日常を、宝物みたいに切り取る人で」
彼女は窓の外の灰色の空を見つめていた。その横顔は、まるで一枚の古い写真のように、儚く、美しかった。透は、自分の胸が高鳴るのを感じていた。それは、古書に囲まれた静かな生活の中では、とうに忘れていた感覚だった。
その夜、透はいつものようにノートに記憶を記した。今朝の記憶は、『雨音を聞きながら、温かいココアを飲む。マグカップを持つ彼の指が、綺麗だった』というもの。彼は、その「彼」が自分であったらいいのに、と柄にもなく願ってしまった。
迷子の記憶の持ち主は、おそらく琹だ。そして彼女は、亡くなった恋人のことを想いながら、その思い出の断片を、無意識のうちに誰かに伝えているのではないか。だとしたら、なぜ自分がその受信者なのだろう。
答えの出ない問いを抱えながらも、透は琹に惹かれていく自分を止めることができなかった。変化を嫌っていたはずの日常が、彼女の訪れによって色彩を帯びていく。それは心地よく、同時に恐ろしかった。この感情が、もし他人の記憶によって作られた、ただの幻だとしたら?
第三章 未来からの贈り物
決定的な朝が訪れた。
その日の「迷子の記憶」は、これまでで最も切なく、そして衝撃的だった。『夕暮れの駅のホーム。発車ベルが鳴り響く中、「また明日ね」と手を振ってくれる彼の背中が、雑踏の中に消えていく。寂しいのに、明日が来るのが待ち遠しい』。
透は息を呑んだ。記憶の中に見えた「彼」の背中。着ていたトレンチコートのくたびれた感じ、少し猫背気味の立ち姿。それが、鏡で見る自分自身の姿と、あまりにも酷似していたのだ。
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。これは一体どういうことだ。他人の記憶のはずなのに、なぜ自分が登場する?
その日、店にやってきた琹の顔を、透はまともに見ることができなかった。心臓がうるさく鳴り、指先が冷たい。カウンターの上で、ページを開いたままの本が震えている。このままではいけない。真実を知らなければ、自分は前に進めない。
「水野さん」
透は、震える声で彼女を呼び止めた。
「あなたに、話さなければならないことがあります。信じられないような話ですが……」
彼は、覚悟を決めてすべてを打ち明けた。毎朝、誰かの記憶を持って目覚めること。その記憶をノートに書き留めていること。そして最近、その記憶があなたのものであるように感じられてならないこと。最後に、今朝見た、自分自身にそっくりな男性の記憶のことまで。
話が進むにつれて、琹の表情から快活さが消え、深い悲しみを湛えた色に変わっていった。透が話し終えても、彼女はしばらく黙っていた。沈黙が、古書の匂いと共に店内に重く満ちる。
やがて、彼女は顔を上げ、透の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、雨に濡れたガラスのように潤んでいた。
「ごめんなさい、柏木さん」彼女はか細い声で言った。「その記憶は……私の過去の記憶じゃないんです」
「え……?」
「それは、あなたに宛てた、未来からの贈り物、だったんです」
琹の告白は、透の想像を遥かに超えていた。
「私には、特殊な力があるみたいなんです。強く願った相手に、ありえたかもしれない未来の記憶の断片を、無意識に送ってしまう……。亡くなった恋人が、あなたにとてもよく似ていたから。この店で初めてあなたを見かけた時、もし彼が生きていたら、こんな風に穏やかな場所で、静かに本を読んでいたかもしれないって、そう思ってしまったんです」
彼女の恋人は、二年前に事故で亡くなったのだという。写真家だった彼は、透と同じように、静かで、本が好きで、少し不器用な優しさを持った人だった。
「私があなたに送っていたのは、私の思い出じゃない。彼と過ごしたかった、ありもしない未来の日常なんです。夕暮れの理科室も、雨の日のココアも、駅のホームでの別れも……全部、私が創り出した、偽物の記憶。あなたの日常を、私の叶わなかった夢で汚してしまって、本当にごめんなさい」
透は、立っているのがやっとだった。頭を鈍器で殴られたような衝撃。彼が感じていた琹との繋がりも、彼女に抱いた特別な感情も、すべては亡霊の影を追っていただけだったのか。自分の人生だと思っていたものは、誰かの願いが作り出した幻だったのか。静かで穏やかだったはずの日常が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。彼は、ただ茫然と、涙を流す琹を見つめることしかできなかった。
第四章 名前のない朝
絶望が透の心を支配した。自分が拠り所にしてきた「迷子の記憶」は、他人の悲しい願いが具現化した幻影だった。琹が自分に向けていた優しい眼差しも、自分自身ではなく、自分を通して見ている誰か別の人間に向けられたものだった。彼の内向的な心は、固く閉ざされようとしていた。やはり、自分は変わらない日常の中で、一人で静かに生きていくべきだったのだ、と。
「もう、ここへは来ません」
嗚咽を漏らしながら、琹が言った。「あなたの時間を、これ以上奪うわけにはいかないから」
彼女が踵を返し、店のドアに向かう。カタリ、と乾いた音がした。その音が、透の心に突き刺さった。このまま彼女を行かせてしまったら、自分の日常は元に戻るだろう。静かで、変化のない、安全な日々が。だが、それは本当に望むものだろうか。
透は気づいた。たとえ始まりが幻だったとしても、琹と過ごした時間の中で感じた胸の高鳴りや、彼女をもっと知りたいと思った好奇心は、紛れもなく自分自身のものだった。他人の記憶に揺さぶられ、戸惑い、それでも彼女に惹かれた感情は、本物だった。彼は、亡霊の代用品なのではない。水野琹という一人の女性に出会い、心を動かされた、柏木透という人間なのだ。
変化を恐れ、他者との関わりを避けてきた自分を、乗り越えるべきは今だ。
「待って」
透の声は、自分でも驚くほど強く、はっきりと響いた。琹が、びくりと肩を震わせて振り返る。
「あなたの恋人の代わりには、なれないと思う。僕がこれまで見てきた記憶も、僕自身のものじゃなかった。それは、もう分かった」
透は一歩、彼女に近づいた。
「でも、僕があなたに惹かれたのは、本当です。これから作る時間は、記憶は……僕とあなたのものに、できるかもしれない」
それは告白だった。そして、彼の人生で最も勇気のいる賭けだった。
琹の目から、大粒の涙が溢れた。それは、悲しみだけの色ではなかった。驚きと、戸惑いと、そして、ほんの少しの希望が混じり合った、複雑な光をしていた。
二人の未来がどうなるのかは、誰にも分からない。失われた愛の幻影が、これからも二人を苦しめるかもしれない。幸せになれる保証など、どこにもない。
それでも、彼らは選んだのだ。誰かのものではない、名前のない明日へと、二人で一歩を踏み出すことを。
翌朝。透は目を覚ました。
いつものように頭の中に広がるはずの、鮮明な光景はなかった。そこにあるのは、完全な静寂。もう「迷子の記憶」は、彼のもとへはやってこないだろう。
しかし、その静けさは、以前感じていたような空虚なものではなかった。それは、これから描かれるべき、真っ白なキャンバスのような、可能性に満ちた静けさだった。
窓の外から差し込む朝日が、部屋の中を漂う埃をきらきらと照らし出し、新しい一日の始まりを告げていた。それは、誰のものでもない、柏木透自身の、本当の日常の始まりだった。