零時の潮騒

零時の潮騒

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第一章 歪んだ静寂

高槻湊(たかつきみなと)の日常は、限りなく無音に近かった。ウェブデザイナーという仕事は、日の光が差し込む六畳一間のアパートで完結する。クライアントとのやり取りはメールかチャット。打ち合わせも画面越しだ。静寂は、彼が自ら選び取った城壁であり、同時に、彼を閉じ込める見えない檻でもあった。

築四十年の木造アパート「月光荘」は、その名の通り、夜になると月明かりが廊下を白く照らし出すような、古風で静かな場所だった。湊は、この時代から取り残されたような静けさを気に入っていた。隣室の住人の咳払いさえ、壁を隔てて生活の気配として伝わってくる。その希薄な繋がりが、彼の孤独をわずかに慰めていた。

その異変が始まったのは、十月も半ばを過ぎ、夜風が肌寒さを帯びてきた頃だった。

深夜零時。仕事を終え、ベッドに潜り込んだ湊の耳に、それは届いた。

──ザアァァ……、ザザ……。

壁の向こう、202号室から聞こえてくる、微かな音。最初は風の音かと思った。あるいは、どこかの家が開けっ放しにしているテレビの音か。しかし、音は一定のリズムを保ち、まるで呼吸をするように続いている。それは、紛れもなく波の音だった。

(波の音?)

湊は体を起こした。月光荘は都心から電車で一時間ほどの住宅街にあり、最も近い海でさえ、ここから数十キロは離れている。こんな内陸のアパートの一室で、波の音がするはずがない。

しかも、202号室は空き家のはずだった。三ヶ月前に老婆が亡くなって以来、次の入居者は決まっていないと、大家の鈴木さんから聞いていた。薄気味悪さが背筋を這い上がってくる。

湊は耳を澄ませた。寄せては返す、規則正しい潮騒。時折、遠くで「クゥ……」と鳴く鳥の声のようなものまで混じっている。その音はあまりに生々しく、目を閉じれば、夜の砂浜に立っているかのような錯覚に陥りそうだった。

十分ほど続いただろうか。音は、ぷつりと、何の前触れもなく途絶えた。後に残されたのは、いつもの、耳が痛くなるほどの静寂。湊は、自分の心臓がやけに大きく脈打っていることに気づいた。

その日から、怪現象は毎晩繰り返された。きっかり深夜零時に始まり、十分ほどで終わる。湊の日常に穿たれた、小さな、しかし無視できない穴。彼の選び取った完璧な静寂は、この謎の潮騒によって、静かに歪み始めていた。

第二章 壁一枚の海

一週間が経っても、零時の潮騒は止まなかった。湊はすっかり寝不足になっていた。もはやそれは、ただの物音ではなかった。空き部屋から聞こえるという事実が、彼の想像力を不気味な方向へと掻き立てる。孤独死した老婆の霊が、故郷の海を恋しがっているのだろうか。そんな非科学的な考えが、頭から離れなかった。

昼間、湊は意を決して202号室のドアの前に立った。ひび割れた塗装のドアは、固く閉ざされている。耳を当ててみたが、もちろん何も聞こえない。ただ、黴と古い木材の匂いがするだけだ。彼は、この壁の向こう側に、夜ごと海が出現するという事実が信じられなかった。

大家の鈴木さんに尋ねてみても、「いやあ、202号室は空っぽのままですよ。高槻さん、お疲れなんじゃないですかい?」と、気の抜けた返事が返ってくるだけだった。

苛立ちと恐怖。しかし、不思議なことに、湊の心には別の感情も芽生え始めていた。それは、奇妙な安らぎだった。毎晩、ベッドの中で息を殺してその音を待つ自分がいる。ザアァァ、と音が始まると、強張っていた肩の力がふっと抜けるのだ。誰にも邪魔されない深夜、自分と、壁の向こうの見えない誰か(あるいは何か)だけが共有する秘密の時間。その音は、彼の孤独な夜に寄り添う、風変わりな子守唄のようにも感じられた。

ある晩、湊はついに耐えきれなくなった。知りたい。この音の正体を、この手で確かめなければならない。零時を五分ほど過ぎた頃、彼はそっと自室のドアを開け、廊下に出た。冷たいリノリウムの床が、裸足の裏にひやりと伝わる。

波音は、廊下にも微かに漏れ出ていた。湊は吸い寄せられるように2022号室のドアの前に立つ。そして、震える手で、古びた真鍮のドアノブに触れた。回すつもりはなかった。ただ、触れてみたかっただけだ。

──カチャリ。

予期せぬ軽い感触とともに、ドアノブが回った。鍵が、かかっていなかったのだ。心臓が大きく跳ねる。波の音が、開いた隙間から、より鮮明に流れ出してくる。

湊は唾を飲み込んだ。恐怖と好奇心が、彼の体の中で激しくせめぎ合っていた。彼は、ゆっくりと、その扉を押し開けた。

第三章 記憶の再生

扉の向こうに広がっていたのは、湊の想像を裏切る、ありふれた光景だった。がらんどうの四畳半。窓には月明かりが差し込み、埃をかぶった床を白く浮かび上がらせている。壁紙は黄ばみ、ところどころ剥がれかけている。人の気配も、海の気配も、どこにもない。

ただ一点を除いては。

部屋の中央、その月光のスポットライトを浴びるようにして、ポツンと一台の機械が置かれていた。古びた、灰色のポータブルカセットプレーヤー。そこから、あの潮騒が流れ出していたのだ。

湊は呆然と立ち尽くした。幽霊でも、超常現象でもなかった。正体は、拍子抜けするほど無機質な機械だった。彼はゆっくりとそれに近づき、膝をついた。再生ボタンが押されたままになっている。しばらくして、テープが終わりに達したのか、ガチャン、と素っ気ない音を立ててプレーヤーは沈黙した。部屋は再び、絶対的な静寂に包まれた。

テープを取り出してみる。手書きのラベルには、インクが滲んだような、丸みを帯びた文字でこう書かれていた。

『A面:夏の終わり、B面:冬の始まり』

翌日、湊はカセットプレーヤーを手に、再び大家の鈴木さんを訪ねた。事情を話すと、鈴木さんは少し驚いた顔をしたが、やがて諦めたように深くため息をついた。

「ああ、やっぱりまだ動いてたのか、あれ……」

鈴木さんは、重い口を開いた。

「2022号室に住んでた、佐藤トメさん。あんたが越してくる少し前に、八十八で亡くなったんだ。旦那さんを若い頃に亡くしてね、それからずっと一人で。身寄りもいなかった」

彼女は、晩年、足を悪くしてほとんど外出できなかったらしい。そんな彼女の唯一の慰めが、そのカセットテープだった。

「あれは、トメさんが旦那さんと初めて出会った、千葉の小さな漁港の音なんだそうだ。若い頃、旦那さんが録音してくれた宝物だって、嬉しそうに話してくれたよ」

夏の終わりの、少し寂しさを帯びた波の音。そして、全てが凍てつくような、冬の始まりの荒々しい波の音。彼女は、来る日も来る日も、この部屋でその音を聴き、過ぎ去った日々に思いを馳せていたのだという。

「タイマー付きのプレーヤーでね。毎晩零時に、自動で再生されるようにセットしてたんだ。旦那さんと夜の散歩をした時間なんだとさ。わしが部屋を片付けた時、止めたつもりだったんだが……すまんかったね、驚かせちまって」

湊は言葉を失った。自分が怪奇現象だと怯えていた音は、一人の女性が、その生涯をかけて慈しんだ、愛の記憶そのものだったのだ。壁一枚を隔てて聞こえていたのは、幽霊の声ではなく、孤独な部屋でひっそりと続けられていた、愛する人との対話だった。

自分のちっぽけな孤独が、恥ずかしく思えた。湊は、自分が今まで聞いていた潮騒の音色が、全く違うものに聞こえ始めているのを感じていた。それはもう、不気味な物音ではなかった。切なくて、温かい、誰かの人生の響きだった。

第四章 二つの波音

「よかったら、あんたが持っていてくれないか」

鈴木さんは、そう言ってカセットプレーヤーを湊に託した。処分するにも、なんだか忍びなくてね、と寂しそうに笑った。

その夜から、潮騒は湊の部屋で鳴り響くようになった。彼は毎晩零時になると、自らの手で再生ボタンを押した。壁の向こうから聞こえていた時とは違う。音はすぐ側で、まるで湊自身のために鳴っているかのようだった。

ザアァァ……。

その音を聴きながら、湊は見知らぬ老女、佐藤トメさんの人生を思った。この音を聴きながら、彼女はどんな顔をしていたのだろう。どんな記憶を呼び覚ましていたのだろう。夫の顔、交わした言葉、繋いだ手の温もり。

湊は、もう孤独ではなかった。この音を通じて、彼はトメさんの時間に触れていた。彼女の孤独と、自分の孤独が、時間を超えて静かに共鳴しているような気がした。見知らぬ誰かの記憶を受け継ぐことで、彼の無音だった日常は、豊かな物語で満たされ始めていた。

一ヶ月が過ぎた週末、湊は電車に乗っていた。行き先は、テープに書かれた地名の記憶を頼りに、鈴木さんから聞き出した千葉の小さな漁港。

駅を降りると、潮の香りがふわりと鼻をかすめた。古びた商店街を抜け、防波堤の向こうに、きらきらと光る海が見えた。トメさんが愛した海だ。

湊は砂浜に降り立ち、持ってきたカセットプレーヤーのイヤホンを耳につけた。そして、再生ボタンを押す。

耳の中に、録音された波の音が広がる。ザアァァ……。それは、今、目の前で打ち寄せる本物の波の音と、寸分違わず重なり合った。過去の音と、現在の音。録音されたカモメの声と、今、空を舞う本物のカモメの声。

数十年の時を隔てた二つの音が、湊の中で一つになる。彼はイヤホンを外し、目を閉じた。ただ、目の前の潮騒に耳を澄ませる。それは、トメさんが聴いた音であり、彼女の夫が聴いた音であり、そして今、自分が聴いている音だった。

風が湊の頬を撫でていく。その風の中に、見知らぬ夫婦の優しい笑い声が聞こえたような気がした。

壁一枚の向こうにあったのは、海ではなかった。それは、誰かが大切にした時間の欠片だった。湊は、その欠片を拾い上げたことで、自分の空っぽだった世界が、誰かの記憶や愛情と繋がっていることを知った。

彼はゆっくりと目を開けた。目の前の海は、ただただ広く、優しく、彼のちっぽけな存在を包み込んでくれるようだった。湊は、小さく、しかし確かな微笑みを浮かべた。明日からの日常は、きっともう、無音ではない。

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