残響の栞

残響の栞

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第一章 指先の残響

柏木湊(かしわぎ みなと)の日常は、紙とインクの匂い、そして他人の感情の微かな残響で満たされていた。彼の指先には、生まれつき厄介な「癖」があった。触れたもの、特に長く人に使われたものから、最後の所有者の強い感情を、まるで静電気のように感じ取ってしまうのだ。古書店員という職業は、その能力を持つ彼にとって天職であると同時に、一種の拷問でもあった。

毎朝、店のシャッターを開け、埃っぽい空気を入れ替える。棚に並ぶ無数の古書は、湊にとっては声なき人々の感情の博物館だ。喜びに震えるページ、嫉妬に汚れた表紙、悲しみで湿った栞。彼はその一つ一つに無意識に触れないよう、薄い手袋を嵌めて仕事をするのが常だった。他人の感情はノイズだ。自分の静かな日常をかき乱す、不快な雑音に過ぎない。だから湊は、誰の心にも深く立ち入らず、本の背表紙を眺めるように世界と接していた。

その日も、湊は月に一度の古書市に出かけていた。体育館にひしめく業者たちの熱気と、古紙のむせるような匂い。彼はうんざりしながらも、値打ちのある掘り出し物を探して段ボールの山を漁っていた。その時だった。指先が、一冊の古びた植物図鑑の背に触れた。手袋越しだというのに、まるで電撃に打たれたかのような衝撃が走った。

慌てて手袋を外し、素手でその図鑑に触れてみる。次の瞬間、彼の全身を、経験したことのないほど純粋で強烈な「歓喜」の奔流が貫いた。それは、渇ききった砂漠でオアシスを見つけた旅人のような、あるいは、失われた半身と再会できたかのような、魂が震えるほどの喜びだった。あまりの激しさに眩暈がし、湊はその場に膝をつきそうになった。

周囲の喧騒が遠のき、頭の中はその鮮烈な感情でいっぱいになる。なんだ、これは。これまで感じてきたどんな感情とも違う。嫉妬や憎悪のような濁りはなく、刹那的な興奮でもない。それは、世界のすべてが祝福されているかのような、完璧で満ち足りた喜びだった。

湊は我に返ると、その図鑑を強く抱きしめていた。濃緑色の布張りの表紙は色褪せ、角は擦り切れている。何の変哲もない、どこにでもありそうな古い図鑑だ。しかし、この本に最後に触れた誰かは、人生の絶頂ともいえる瞬間にいたに違いない。

一体、誰が、どんな状況で。

湊の退屈な日常に、初めて解き明かしたいと願う謎が、小さな棘のように突き刺さった。彼はその図鑑を仕入れの束に加えると、足早に市場を後にした。背中に感じる業者たちの視線も、もはや気にならなかった。彼の心は、指先に残る「歓喜」の残響に、完全に囚われていた。

第二章 月下美人の押し花

古書店『葉舟堂』に戻った湊は、シャッターを下ろし、カウンターの薄暗い電灯の下で例の図鑑と向き合った。客はもう来ない。ここは今、彼と謎だけの空間だった。

改めて図鑑に触れる。やはり、あの爆発的な「歓喜」が蘇る。まるで温かい陽光が心の芯まで染み渡るようだ。湊は、この感情の虜になっていた。普段は忌み嫌っているはずの他人の感情に、これほどまでに惹きつけられる自分に戸惑いを覚える。

彼はゆっくりとページをめくり始めた。精緻な植物の絵と、古風な文体で書かれた解説。持ち主は丁寧に読み込んでいたらしく、いくつかのページには鉛筆で繊細な書き込みがあった。そして、あるページで湊の指が止まった。月下美人の項だ。そこに、一枚の押し花が栞のように挟まれていた。白く、大輪の花びらはセピア色に変色していたが、その優美な姿は失われていない。一夜しか咲かないという、幻の花。

図鑑の見返しには、小さな蔵書印が押されていた。『高遠 咲』。インクは掠れていたが、凛とした美しい名前だった。この歓喜の持ち主は、高遠咲という女性なのだろうか。彼女は、この月下美人が咲いた夜に、この図鑑を手にしていたのかもしれない。

湊の中で、知りたいという欲求が、静かに燃え上がっていた。これまで他人の感情から逃げ続けてきた彼が、自らその源流を辿ろうとしている。それは、湊自身にとって大きな変化だった。彼は店の奥にある古い資料棚を漁り、数十年分の電話帳や住所録を引っ張り出した。

地道な作業は数日に及んだ。そしてついに、市内の古い住宅街に『高遠』という表札を見つけた。湊は意を決して、その住所を訪ねてみることにした。錆びついた門扉の向こうには、人の住む気配のない古い家屋と、手入れされずに荒れた庭が広がっていた。しかし、その荒れ果てた庭には、様々な種類の植物が、かつての栄華を偲ばせるように自生していた。まるで、主の帰りを待ち続けているかのようだ。

隣家の住人に話を聞くと、家の主である高遠咲は数年前に亡くなっており、今は遠縁の親戚が時折管理に来るだけだという。湊は落胆したが、諦めきれずにその親戚の連絡先を教えてもらい、電話をかけた。古書店の者だと名乗り、咲さんの蔵書だった図鑑を偶然手に入れたこと、その本に非常に感銘を受けたことを、少し脚色しながら伝えた。

電話口の女性は、最初は訝しんでいたが、湊の真摯な口調に心を動かされたようだった。数日後、湊は彼女の許可を得て、再び高遠家を訪れた。家の中には、咲さんの遺品がまだ手付かずで残されていた。埃をかぶった書斎で、湊は管理人から数冊の古い日記を託された。

「もし、あなたが本当に彼女の本を大切に思ってくださるなら。これを読めば、彼女がどんな想いで植物を愛していたか、わかるかもしれません」

湊は、ずしりと重い日記帳を受け取った。それは、高遠咲という一人の女性の、人生そのものの重みのように感じられた。

第三章 歓喜の在り処

日記は、咲の瑞々しい感性と、植物への深い愛情で満ち溢れていた。彼女は植物学者で、特に希少な花の生態を研究していたことが分かった。ページをめくるたび、湊は咲という女性の輪郭が、少しずつ鮮明になっていくのを感じた。

そして、日記が数年進んだ頃、頻繁に登場するようになる『彼』の存在に気づく。同じ大学で建築を学んでいたという、一つ年上の男性。二人の穏やかで幸福な日々が、優しい言葉で綴られていた。庭に新しい花を植えたこと、二人で星を眺めたこと、将来を語り合ったこと。湊は、まるで他人の幸福な記憶を覗き見しているような、くすぐったい気持ちになった。あの「歓喜」は、この幸福な時間の中にあったのだろうか。

だが、物語は突然、暗転する。

『彼が、事故に遭った。命に別状はなかったけれど、記憶を失ってしまった。私のことも、二人で過ごした時間のことも、何もかも』

そこからの日記は、咲の絶望と苦悩で染まっていた。湊の胸が締め付けられる。しかし、彼女は諦めなかった。彼の記憶を取り戻そうと、必死に尽くす日々が続く。

そして、日記の最後の一冊。湊は息を飲んだ。咲は、最後の望みを、庭の月下美人に託していた。それは、彼が彼女にプロポーズしてくれた夜に、奇跡のように咲いていた、二人にとって特別な花だった。

『今夜、月下美人が咲く。彼を庭に招いた。この花を見れば、きっと何かを思い出してくれるはず。神様、お願い』

湊の心臓が早鐘を打つ。クライマックスだ。あの「歓喜」は、この夜に生まれたに違いない。記憶を取り戻した彼と、咲が再び結ばれた瞬間の、奇跡のような喜び。湊はそう確信し、震える指で最後のページをめくった。

しかし、そこに書かれていた言葉は、湊の予想を無残に打ち砕いた。

『彼は来てくれた。でも、花を見ても、困惑したように微笑むだけだった。何も思い出せなかった。彼は、優しい声で「ごめんなさい」と言って、帰っていった。庭には、私と、満開の月下美人だけが残された』

絶望的な結末。湊は混乱した。では、あの図鑑に残された、天にも昇るような「歓喜」は一体何だったのだ? 咲の感情ではなかったのか? それとも、自分の能力が狂ってしまったのか?

湊はパニックになりながら、もう一度、図鑑にそっと触れた。すると、今度は違った。激しい「歓喜」の奔流の奥底に、まるで深い海の底のような、静かで、穏やかで、そして温かい「安堵」と「受容」の感情があることに気づいた。それは、嵐が過ぎ去った後の、凪いだ海のような感情だった。

湊は、はっと息を呑んで、日記の最後のページをもう一度見つめた。そこには、涙の染みで滲んだ、小さな追記があった。

『でも、それでいいのかもしれない。彼は何も思い出さなかった。でも、彼の顔に苦悩の色はなかった。彼は今、新しい人生で、穏やかに笑っている。私の記憶が、彼の未来の重荷にならなくて、本当によかった。私が愛した人が、この世界のどこかで、ただ息をして、生きて、笑っていてくれる。それが私の、最高の喜びなのだと、今、気づいた』

湊は、その場で動けなくなった。

あの「歓喜」は、失われた愛を取り戻した喜びではなかった。それは、愛する人の幸せを、自分のすべてを懸けて願うという、自己犠牲の果てにたどり着いた、崇高な愛の形。喪失を受け入れ、それでもなお相手の幸福を祈るという、究極の「歓喜」だったのだ。

湊の頬を、一筋の涙が伝った。他人の感情をノイズだと切り捨ててきた自分が、初めて触れた、人間の感情の最も深く、美しい領域。彼の価値観が、根底から覆された瞬間だった。

第四章 色褪せない庭

数日後、湊は再び高遠家を訪れていた。管理人である遠縁の女性に日記を返し、自分が感じたすべてを正直に話した。彼女は静かに耳を傾け、そして微笑んだ。

「咲叔母さんらしいわ。最後まで、自分のことより、誰かのことを想う人だった」

湊は、許可を得て、咲の庭を歩いた。荒れてはいるが、生命力に満ちた庭。様々な植物が、それぞれの場所で懸命に生きていた。そして、湊は隅の方でそれを見つけた。古い月下美人の株の根元から、力強く伸びる、新しい緑の芽。命は、こうして受け継がれていく。咲の想いもまた、この庭で生き続けている。

店に戻った湊は、咲の植物図鑑をカウンターの一番良い場所に置いた。そして、小さなカードに『非売品』と書き添えた。これはもう、ただの古書ではない。一人の女性が生きた証であり、湊の世界を変えた、かけがえのない宝物だ。

湊の日常は、基本的には何も変わらない。朝、シャッターを開け、古書に囲まれて一日を過ごす。しかし、彼にとっての世界は、以前とは全く違う色合いを帯びていた。手袋を外す時間が増えた。恐る恐る古書に触れると、そこにはやはり、様々な感情の残響があった。恋に破れた学生の切なさ、試験に合格した若者の高揚、亡き夫を偲ぶ老婦人の追憶。

かつては不快なノイズでしかなかったそれらが、今は一つ一つ、愛おしい物語の断片に感じられた。彼は、言葉にならない人々の想いや、時間の中に埋もれて消えていくはずだった物語を拾い上げる、自分の指先の「癖」を、呪いではなく、特別な贈り物なのかもしれないと思えるようになっていた。

ある日の午後、一人の若い女性が店に入ってきた。何かを探しているように、不安げに棚を眺めている。湊は、彼女の雰囲気に合うかもしれないと、一冊の古びた恋愛小説を手に取った。そっと、その表紙に指で触れる。彼の指先に、ほんのりとした、甘酸っぱい「期待」の感情が伝わってきた。きっと、前の持ち主は、この物語の先に、素敵な未来を夢見ていたのだろう。

湊は小さく微笑むと、その本を女性に手渡した。

「もしよろしければ。きっと、気に入ると思います」

女性は驚いたように本を受け取り、そして、花が咲くように微笑んだ。

湊は、彼女の後ろ姿を見送りながら、カウンターの図鑑に目をやった。それに触れなくても、あの静かで温かい「歓喜」が、心の中にじんわりと広がっていくのが分かった。彼の日常は、これからも無数の物語と感情が交差する、豊かで、少しだけ切ない、感動的な場所であり続けるだろう。誰かの想いが、また別の誰かに。その小さな奇跡が生まれるこの場所を、彼は心から愛していた。

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