壁が記憶する日

壁が記憶する日

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第一章 染み出す横顔

柏木湊(かしわぎ みなと)の日常は、限りなく白に近い灰色で構成されていた。在宅で校正の仕事をする彼の世界は、モニターに映る黒い文字と、それを囲む白い余白、そしてそれらが収まる六畳一間のアパートの白い壁紙で完結していた。彼は秩序を愛していた。文章の捻れを解き、誤字という名のノイズを取り除き、完璧なテクストを世に送り出す仕事は天職だと信じていた。その哲学は私生活にも及び、彼の部屋には寸分の乱れもなかった。本の背は高さ順に並び、文房具は定位置に収まり、床には一本の髪の毛さえ落ちていない。静寂と清潔、それが湊の守るべき聖域だった。

その聖域に、異変が生じたのは火曜日の朝のことだ。目を覚まし、いつものように壁に視線をやった湊は、眉をひそめた。ベッドの頭上、ちょうど視線の先にある真っ白な壁紙に、薄茶色の染みが一つ、浮かんでいたのだ。大きさは掌ほど。まるで、薄めたコーヒーをこぼしたような、曖昧な輪郭をしていた。

「……水漏れか?」

築三十年の古いアパートだ。ありえない話ではない。湊はベッドから起き上がると、指でそっと染みに触れた。乾いている。湿り気は微塵も感じられなかった。彼は舌打ちし、雑巾と中性洗剤を手に取った。完璧な白に混じった一点の汚れ。それは、美しい譜面に書かれた不協和音のように彼の神経を逆撫でした。

しかし、染みは消えなかった。ゴシゴシと擦っても、洗剤の泡が虚しく壁紙の上を滑るだけ。染みはまるで壁の内側から滲み出ているかのように、その存在を主張し続けた。諦めた湊は、大家に連絡することも考えたが、人を部屋に入れる煩わしさを思い、ひとまず様子を見ることにした。たかが染みだ。気にしなければいい。

だが、その染みは、湊の意思を嘲笑うかのように、日を追うごとに変化していった。水曜日には輪郭が少しだけはっきりとし、木曜日には濃淡が生まれた。そして金曜日の朝、湊は息を呑んだ。

それは、もはや単なる染みではなかった。陰影が巧みに描き出した、見知らぬ老人の横顔だった。深く刻まれた皺、固く結ばれた唇、そして遠くを見つめる虚ろな瞳。その表情には、言葉にならないほどの深い悲しみと、諦観が滲んでいた。湊は壁から数歩後ずさった。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。これは幻覚か? 疲れているのか? しかし、何度目を擦っても、壁の横顔は消えなかった。

彼の秩序だった日常に、亀裂が走った瞬間だった。白い壁に染み出したその顔は、湊自身の心の平穏を、静かに、しかし確実に蝕み始めていた。

第二章 壁との対話

染みとの奇妙な同居生活が始まって一週間が過ぎた。湊はあらゆる方法を試した。強力なカビ取り剤を吹き付け、上から修正液のように白いペンキを塗ってみた。しかし、翌朝になると、ペンキの層を突き破るようにして、老人の横顔は必ず蘇った。それどころか、日を追うごとにその表情はより鮮明になり、まるで壁の向こうからこちらを窺っているかのような生々しさを帯びていた。

仕事にも支障が出始めた。文章の校正をしている最中も、ふと視線を感じて壁を見上げてしまう。すると、老人の悲しげな瞳と目が合うのだ。もちろん、染みに瞳などない。それは湊の錯覚に過ぎない。だが、そうと分かっていても、背筋が冷たくなる感覚は消えなかった。彼の聖域は、もはや安息の地ではなかった。見知らぬ誰かの悲しみに、四六時中監視されている監獄と化した。

ある夜、湊は眠れずにベッドの上で身じろぎを繰り返していた。雨音が窓を叩き、部屋の静寂を際立たせる。彼は諦めて起き上がると、電気もつけずに壁の染みを睨みつけた。暗闇の中、染みは周囲の白から不気味に浮かび上がっている。

「……誰なんだ、あんたは」

思わず、声が漏れた。自分でも驚くほど掠れた声だった。独り言。そう、ただの独り言だ。だが、その言葉をきっかけに、堰を切ったように感情が溢れ出した。

「何のつもりだ。人の部屋に勝手に現れて……。俺の日常をめちゃくちゃにして、楽しいか?」

返事などあるはずもない。湊は自嘲気味に笑った。壁に向かって話しかけるなんて、正気の沙汰ではない。しかし、その時だった。湊は耳を澄ませた。雨音とは違う、何かが聞こえる。いや、聞こえるのではない。感じるのだ。キーンという高周波のような、それでいて温かいような、不思議な感覚が脳を直接揺さぶる。それは、言葉にならない感情の奔流だった。郷愁、後悔、愛惜、そして深い、深い孤独。

老人は、何かを伝えようとしているのではないか?

その突飛な考えが浮かんだ瞬間、湊の中の何かが変わった。恐怖や苛立ちは薄れ、代わりに奇妙な好奇心と、ほんの少しの共感が芽生えていた。彼はそれから毎晩、壁に向かって話しかけるようになった。今日あったこと、読んだ本の話、仕事の愚痴。それはまるで、長年連れ添った老猫に語りかけるような、穏やかな時間だった。

不思議なことに、湊が話しかけると、老人の表情が微かに和らぐように見えた。固く結ばれていた唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。気のせいかもしれない。だが、湊にはそう思えた。彼の完璧で孤独だった日常に、染みという名の同居人が、静かに居場所を築き始めていた。彼はもはや、染みを消し去りたいとは思わなくなっていた。むしろ、この老人が何者なのか、その悲しみの理由は何なのかを知りたいとさえ思うようになっていた。

第三章 雷鳴の夜の奔流

その夜は、空が裂けるほどの嵐だった。稲光が断続的に部屋を白く照らし、遅れて轟く雷鳴がアパートを揺さぶった。湊はヘッドフォンで音楽を聴きながら仕事に集中しようとしたが、雷が鳴るたびに身体が強張り、全く捗らなかった。

諦めてベッドに横になり、壁の老人を眺める。いつものように、彼はそこにいた。しかし、今夜は少し様子が違った。稲光が走る一瞬、老人の横顔が苦痛に歪んだように見えたのだ。

その時だった。ひときわ大きな雷鳴が轟き、部屋の電気が一瞬、明滅した。湊が息を呑んだ次の瞬間、壁の染みが、淡い光を放ち始めた。それは燐光のようにぼんやりとした光だったが、次第に強さを増していく。

「な……なんだ……?」

湊が身を起こすと同時、壁から映像が溢れ出した。それは光の洪水だった。セピア色の光景が、壁をスクリーンにして部屋中に投影される。古い木造の家、もんぺを履いた女性、戦地へ向かう若い兵士たちの列。それは、老人がまだ若かった頃の記憶の断片だった。映像はめまぐるしく移り変わる。闇市での逞しい暮らし、愛する女性とのささやかな結婚式、生まれたばかりの赤ん坊を抱き上げる喜び。湊は、まるで他人の夢の中に迷い込んだかのように、その奔流にただ圧倒されていた。

やがて、映像に色彩が宿り始める。高度経済成長期の喧騒、白黒テレビに映る力道山、必死に働いて手に入れた小さなマイホーム。娘が成長し、嫁いでいく日。涙を堪える老人の姿。全てが、あまりに個人的で、濃密な人生の記録だった。

しかし、記憶は次第に寂しい色合いを帯びていく。妻に先立たれ、一人きりになった家。訪ねてくる者もいない、静かすぎる時間。そして、最後の光景。老人は古びたアパートの一室で、荒い息をつきながら、何もない壁の一点をじっと見つめていた。その壁の模様、天井の染み、窓の形。それは、湊が今いるこの部屋ではなかった。全く別の場所だ。老人はそこで、誰にも看取られることなく、静かに息を引き取った。

映像が途絶え、壁は元のただの染みに戻った。部屋には嵐の音だけが響いている。湊は呆然としていた。あの老人は、この部屋の前の住人ではなかった。では、一体誰なんだ? なぜ、彼の記憶がこの壁に?

混乱する頭で、湊は必死に記憶を手繰り寄せた。セピア色の記憶の中で見た、若い頃の老人の顔。どこかで……。そうだ、幼い頃に一度だけ会ったきりの、母方の祖父の顔に似ている。母が時折語ってくれた、頑固で不器用だったという祖父の人生。戦争へ行き、苦労して家族を養い、妻に先立たれてからは誰とも交流を絶ってしまったという話。断片的な情報が、先ほど見た記憶の奔流と、パズルのピースのようにカチリと嵌っていく。

しかし、なぜ? 祖父はこの街に住んだことすらない。自分はこのアパートを、家賃の安さだけで偶然選んだはずだ。

その時、湊は雷に打たれたような衝撃と共に、真実に思い至った。

壁が記憶を映したのではない。自分が、壁に記憶を映していたのだ。

校正者として、文章の「間違い」を許せず、完璧な秩序を求めるあまり、現実の不完全さから目を背けてきた自分。その歪んだ完璧主義が、血の繋がりを介して、会ったこともない祖父の「やり直せない人生の後悔」という、最大の「間違い」を呼び寄せてしまったのではないか。この壁の染みは、祖父の霊や残留思念などではない。孤独な自分の心が、同じく孤独だった祖父の記憶に共鳴し、この真っ白な壁に投影した、巨大な幻影なのだ。

聖域だと思っていたこの部屋は、湊自身の内面を映し出す鏡だった。そしてその鏡には、彼が最も目を背けたかった、不完全で、悲しみに満ちた人生の姿が、くっきりと映し出されていた。

第四章 真っ白な余白

嵐が過ぎ去った朝は、嘘のように静かだった。窓から差し込む朝日は、空気中の微細な埃をきらきらと輝かせている。湊は一睡もせずに、その光景を眺めていた。

壁の染みは、まだそこにあった。しかし、湊にとって、それはもはや不気味な侵入者ではなかった。それは、彼が知らなかった祖父の人生の証であり、同時に、彼自身の孤独が作り出した影でもあった。彼はベッドから降りると、壁の前に立った。

「おじいさん」

静かに語りかける。

「あなたの人生、ちゃんと見届けたよ。辛いことも、悲しいこともたくさんあったんだろうね。でも、嬉しいことも、幸せな瞬間も、確かにあったじゃないか。それでいいんだよ。完璧な人生なんて、どこにもないんだから」

それは祖父への言葉であると同時に、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。間違いを恐れ、乱れを嫌い、人との関わりを避け、狭い世界に閉じこもっていた自分。不完全さを受け入れることが、こんなにも息のしやすいことだとは知らなかった。

「もう、大丈夫だよ。ゆっくりおやすみ」

湊がそう言うと、まるで彼の言葉に応えるかのように、壁の染みが陽光の中に溶けていくように見えた。輪郭が薄れ、色が淡くなり、そして、すぅっと消えていった。

跡形もなくなった壁は、元の、完璧な白さに戻っていた。しかし、その白は、以前湊が求めていた無機質で冷たい白ではなかった。全てを受け入れ、許した後の、どこまでも優しく、温かい白に見えた。それは、これから何でも描くことのできる、可能性に満ちた余白だった。

その日、湊は仕事を休み、部屋の模様替えをした。高さ順に並んでいた本を、あえてランダムに並べ替える。定位置にあったペン立てを、少しだけ斜めに置いてみる。その小さな「乱れ」が、彼には不思議と心地よく、愛おしく感じられた。彼の世界は、もう白と黒だけで構成されてはいなかった。

夕方、彼は机に向かい、新しいノートを開いた。モニターの向こうの他人の文章ではなく、自分自身の言葉を紡ぐために。彼はペンを取り、最初のページに一行、書き記した。

『壁が記憶していた日のこと。』

それは、名も知らぬ祖父の物語であり、秩序という名の殻を破った、彼自身の新しい物語の始まりだった。部屋に差し込む西日が、真っ白なノートの余白を、優しい金色に染めていた。日常は続いていく。だが、その日常にはもう、見えない誰かの記憶の温もりが、確かに息づいていた。

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