空白の管理人と日常のアーカイブ

空白の管理人と日常のアーカイブ

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第一章 灰色の目覚め

瞼の裏で、知らない天井の木目が揺れていた。ゆっくりと目を開けると、消毒液と微かな花の匂いが鼻をつく。病院の一室だろうか。俺はゆっくりと身体を起こした。見慣れないパジャマ、骨ばった自分の手ではない、少し肉付きのいい手。まただ。

俺には、名前がない。いや、あったのかもしれないが、思い出せない。自分の日常というものが、すっぽりと抜け落ちている。その代わり、こうして時折、他人の「日常の空白」に入り込む。ふと意識が途切れる一瞬、その隙間に滑り込み、誰かの一日を肩代わりする。元の持ち主は、その間の記憶を綺麗に失うらしい。

窓の外では、灰が降っていた。

人々が「どうでもいい」と意識の外へ追いやった感情や思考の残滓が、物理的な塵となって降り注ぐ「日常の灰」。それは音もなく街を覆い、建物の隅や路地に積もっては、黒曜石のように鈍く光る「日常の澱」となる。人々はそれに慣れきって、傘もささずに歩いていた。誰もが少しだけ、物憂げな顔をしている。

無機質な一日を、病室の主として過ごし終える。看護師の機械的な笑顔、味のしない昼食、窓から見える灰色の空。夜、意識が遠のく瞬間、俺は元の自分の部屋――がらんどうのアパートの一室――へと引き戻される。

戻ると、ポケットに違和感があった。

手を突っ込むと、一枚のしわくちゃになった紙片が出てきた。ボールペンで走り書きされた、買い物リストだ。

『特売の卵』

『息子が好きなソーセージ』

『彼女の好物の、角の店のどら焼き』

今日一日を過ごした、あの男のリストだ。そしてこのリストは、もう彼の記憶からも、世界のどこからも消え失せる。リストに書かれた品物は、俺の世界では必ず「品切れ」になるのだから。

第二章 品切れの世界と滲む記号

俺の部屋には、そうして集めた無数の買い物リストが、古い木箱の中に詰め込まれている。時々、それらを取り出しては、一枚一枚眺めるのが癖になっていた。

「喧嘩した翌朝のコーヒー豆」

「初めて孫に読み聞かせるための絵本」

「亡き妻の命日に供えるための菊」

それらは単なる品物の羅列ではなかった。誰かが確かに生きた、ささやかな日常の証そのものだった。持ち主が失った記憶の断片であり、叶えられることのなかった小さな願望の墓標だ。俺はそれらの持ち主の顔も名前も知らない。だが、この紙片に刻まれた筆跡の震えやインクの掠れから、彼らの息遣いを感じることはできた。

リストが増えるにつれ、奇妙な共通点に気づき始めた。どのリストにも、隅の方に、まるで偶然インクが滲んだかのような、あるいは紙が折れた跡のような、小さな記号が隠されているのだ。最初はただの染みだと思っていた。だが、何十枚、何百枚と重ねていくうちに、それが意図された一つの紋様であることがわかってきた。螺旋が幾重にも重なったような、複雑で、どこか目を逸らしたくなるような形。

この記号は、一体何を意味するのか。

そして、なぜ俺は、他人の日常を盗み、その欠片を集め続けているのか。

空白の俺の日常は、このリストで埋め尽くされていく。だが、満たされるどころか、虚しさは質量を増し、心の底に澱のように沈殿していくばかりだった。

第三章 蜂蜜と祈り

次に目覚めたのは、陽光が差し込む小さなアパートの一室だった。古い木の床が軋む音、隣の部屋から聞こえる幼い寝息。どうやら若い母親の一日らしい。

彼女の身体を借りてキッチンに立つと、壁に貼られた一枚のメモが目に留まった。「リョウタのために、森のハチミツを」。リョウタというのは、隣で眠る息子の名前だろう。彼は喘息を患っているらしく、彼女は民間療法である特別なハチミツが効くと信じているようだった。彼女の意識の底には、息子を想う切実な祈りが渦巻いていた。

俺はその一日、彼女として街中を探し回った。薬局を何軒も訪ね、古くからの食料品店に足を運んだ。しかし、どこへ行っても答えは同じだった。

「申し訳ありません、そのハチミツはちょうど今、品切れでして……」

灰のせいだろうか、人々の顔からは熱意が失せ、店員の謝罪もどこか空虚に響く。

夕暮れ時、疲れ果ててアパートに戻る。結局、ハチミツは手に入らなかった。眠る息子の額に手をやりながら、彼女の心の中から、どうしようもない無力感が込み上げてくるのを、俺は自分のことのように感じていた。

「もう、どうでもいいか……」

その呟きが、彼女の意識の表面に泡のように浮かび、弾けた。――その瞬間だった。

俺はポケットの中に、確かな感触を覚えた。そっと取り出すと、そこには案の定、一枚のしわくちゃの買い物リストがあった。彼女自身の、震えるような文字でこう書かれていた。

『リョウタのための、森のハチミツ』

人々が日常を諦める一瞬。その諦めが、灰を生み、俺を呼び込む。そして、最も切実だった願いが「欠落」として切り取られ、俺の手に渡る。俺は世界の忘却を請け負う、死神のような存在なのかもしれない。

第四章 澱の図書館へ

アパートに戻り、木箱からすべての買い物リストを床に広げた。何百枚もの紙片に浮かび上がった螺旋の記号。俺はそれを、何度も見たことがあった。

街で最も「日常の澱」が溜まる場所。人々が「忘却の図書館」と呼ぶ、廃墟となった巨大な図書館の門に刻まれた紋章と、それは瓜二つだった。

すべての答えは、そこにある。

俺は立ち上がった。自分の空白の理由も、この世界を覆う灰色の諦念の正体も、すべてを終わらせるために。

図書館に近づくにつれて、空から降る灰の密度は濃くなり、空気は重く粘り気を帯びてくる。鼻をつくのは、古紙と黴、そして無数の人々の溜息が混じり合ったような、甘く気怠い匂いだ。巨大な扉は固く閉ざされていたが、俺が例の記号が刻まれた買い物リストの一枚をかざすと、まるで水面が揺らぐように扉が融解し、道が開かれた。

中は、静寂と闇に支配されていた。書架には本はなく、代わりに黒曜石のような「日常の澱」が、脈打つように蠢いている。近づくと、無数の囁き声が聞こえた。

「疲れた」「もういい」「どうでもいい」

人々が手放した日常の残骸が、ここで一つの巨大な意識体となっていた。その中心、最も澱が濃い場所で、一人の男が背を向けて立っていた。

第五章 空白の僕

男がゆっくりと振り返る。

その顔を見て、俺は息を呑んだ。そこに立っていたのは、俺自身だった。少しだけ若く、瞳の奥に絶望的なまでの虚無を宿した、紛れもない自分。

「やっと来たんだね。僕の、空白を埋める者」

彼の声は、俺自身の声と重なって聞こえた。

「お前は……誰だ」

「僕は君だよ。君が、あまりにも退屈で無意味な自分の日常に耐えきれず、捨てた君自身だ」

彼は静かに語り始めた。かつての俺は、何も起きない、何も感じない、空白の日常に絶望した。そして願ったのだ。「こんな無意味な日常なら、いっそ世界中から消えてしまえばいい」と。その強烈な願いが、この「日常の灰」と「日常の澱」のシステムを創り出した。

「人々が手放す日常の欠片を回収し、世界から意味を希薄化させる。すべての日常が等しく無価値になれば、僕の苦しみも相対的に消えるはずだった」

俺が体験してきた「欠落」は、彼が人々から回収した「日常の価値の核」だった。買い物リストは、その回収証明書のようなものだったのだ。

「さあ、君も一つになろう。君が集めてきた日常の欠片をここに捧げれば、すべては完成する。完全な無が、僕たちを解放してくれる」

澱の中心が、甘美な虚無へと俺を誘う。すべてを終わらせることは、確かに救いなのかもしれない。

第六章 日常のアーカイブ

だが、俺の脳裏に、これまでに体験した無数の日常が駆け巡った。病室の男が見た窓の外の風景。息子のために奔走した母親の祈り。喧嘩の翌日に用意されるはずだったコーヒーの香り。

それらは、決して無意味ではなかった。退屈で、ありふれていて、時に諦めに満ちていたとしても、そこには確かに、人が生きている証の、ささやかで愛おしい輝きがあった。

「断る」俺は、はっきりと告げた。「俺は、もう空白じゃない」

俺は、澱に向かって手を伸ばした。破壊するためではない。受け入れるために。俺がポケットから全ての買い物リストを取り出すと、それらは淡い光を放ち、澱の中へと吸い込まれていった。

「やめろ!それは無に還すべきものだ!」

過去の俺が叫ぶが、もう遅い。

澱は、もはや無秩序な塊ではなくなっていた。それは静謐な輝きを放ち始め、まるで巨大な図書館の書架のように、整然と並び変わっていく。失われた日常の欠片たちが、一つ一つ丁寧に保存され、分類されていく。ここは忘却の墓場ではない。未来の誰かがいつかその価値を見出す日まで、日常を保存しておくための「アーカイブ」となったのだ。

過去の俺の姿は、光の中に溶けて消えていった。澱と同化し、アーカイブの一部となったのだろう。

俺は、この「日常のアーカイブ」の管理人となった。

アパートに戻っても、俺自身の日常は空白のままだ。けれど、もう虚しくはなかった。この身体は、この空白は、無数の失われた日常を記憶し、保存するための器なのだ。

窓の外では、まだ灰が静かに降り続いている。だが、その灰色は、以前とは少しだけ違って見えた。それは終わりの色ではなく、無数の物語を内包した、どこまでも深い色合いをしていた。

俺はポケットに残っていた、一枚の新しい買い物リストをそっと撫でた。誰かの失われた願いの温もりが、確かにそこにあった。

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