第一章 灰色の雨と触れた指先
この街では、いつも雨が降っている。人々が過去を悔やむたび、その念が鉛色の雲となり、冷たい雫となって地に落ちるのだ。いつしか、この一帯は『後悔の地』と呼ばれるようになった。湿った土は粘り気を帯び、生命の息吹を拒絶するかのように、そこからは一輪の花さえも咲くことはない。
リクは、その灰色の街の片隅で息を潜めるように生きていた。彼には呪いとも呼べる秘密があった。他者の肌に触れ、その心の奥底にある「後悔」の感情を感知してしまうと、否応なくその人物の人生で最も悔やまれる瞬間を、自身の五感で追体験してしまうのだ。
ある日の午後、リクは市場の雑踏を足早に抜けていた。雨宿りをする人々の群れ。その中の一人、背の曲がった老婆と肩が触れ合った、その瞬間。
世界が軋むような音を立てて歪んだ。
リクの視界は、煤けた天井と薄暗い電球に切り替わる。古びた薬の匂い。しわくちゃの手が、冷たくなっていく夫の手を握りしめている。
「ごめんよ、あんた。あの時、もっと素直に『行かないで』って言えてたら……」
老婆の嗄れた声が、リク自身の喉から漏れ出た。胸を締め付ける、取り返しのつかない喪失感。リクの身体は透き通り、現実世界からその存在が掻き消えていく。周囲の人々は、彼がいた場所に生まれた僅かな空間に気づくこともなく、ただ流れていくだけだ。
追体験が終わると、リクはびしょ濡れになった路地に一人、膝から崩れ落ちていた。激しい嘔吐感がこみ上げる。他人の人生の重みが、鉛のように胃の腑に溜まっていた。
最近、後悔の雨は勢いを増し、これまで安全だった地域にまで『後悔の地』を広げているという。そして、奇妙な噂が流れていた。雨の中心地には、天を衝くほどの巨大な人影が、まるで陽炎のように常に立ち上っている、と。その正体は誰も知らなかった。
第二章 止まった時間を持つ少女
好奇心ではなかった。むしろ、破滅への予感に近かった。リクは、まるで何かに引き寄せられるように、雨が最も強く降り注ぐ地区の中心へと足を運んでいた。そこは、かつて時計塔があった広場だった。今は瓦礫とぬかるみだけが広がり、その中心に、噂の『幻影』が立っていた。
それは、特定の個人の輪郭を持たない、ただ巨大な人間の形をした後悔の集合体のように見えた。ゆらゆらと揺らめき、絶え間ない慟哭が風の音に混じって聞こえてくるようだった。誰もがその不気味な存在を遠巻きに眺めるだけ。だが、リクだけは違った。彼は、その幻影に触れられることを、本能で理解していた。
「あなた、それに近づくつもり?」
凛とした声に振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。歳の頃はリクと同じくらいだろうか。大きな瞳でじっと幻影を見据えている。彼女の名はユナ。この異常気象の原因を独自に調査しているのだという。
「あれに触れると、何か分かるかもしれない」
リクはぽつりと呟いた。ユナは訝しげに眉をひそめたが、彼の瞳の奥に宿る、常人とは違う何かを感じ取ったようだった。
「危険よ。あれは純粋な後悔のエネルギー体だわ。普通の人間が触れたら、精神が崩壊してしまう」
「普通じゃないから」
リクは自嘲気味に笑い、一歩、また一歩と幻影に近づいていった。ユナが息を呑むのが分かった。
第三章 幻影の慟哭
リクの指先が、揺らめく幻影に触れた。
瞬間、世界から音が消え、万感の後悔が津波のように彼の意識を飲み込んだ。それは個人の後悔ではなかった。星の数ほどの後悔が渦巻き、一つの巨大な絶望を形成していた。
『なぜ、あの手を選んでしまった』
『どうして、背を向けてしまった』
『守れたはずのものを、この手で壊してしまった』
声なき声が、リクの脳内で木霊する。大切な何かを失った、決定的な喪失感。誰かを犠牲にしてしまったという、魂を焼くような罪悪感。しかし、その対象となる人物の顔も、具体的な状況も、厚い霧に覆われたように見えなかった。ただ、骨身に染みるほどの悲しみが、そこにはあった。
「……う、ぁっ!」
リクは幻影から弾き飛ばされ、泥水の中へと倒れ込んだ。全身が氷水に浸されたように震え、呼吸すらままならない。
「しっかりして!」
駆け寄ってきたユナが、彼の肩を強く揺さぶる。彼女の温かい手が、リクの凍えた意識を現実へと引き戻した。
「……見たんだ。とてつもない後悔を」
息も絶え絶えに言うリクを、ユナは複雑な表情で見つめていた。彼女はリクを自分の隠れ家へと運び、衰弱しきった彼を介抱した。熱いスープを口にしながら、リクは初めて自分の能力について打ち明けた。ユナは黙って最後まで聞くと、静かに頷いた。
「あなたのその力なら、この謎を解けるかもしれない」
二人の間には、奇妙な信頼関係が芽生え始めていた。
第四章 懐中時計の警告
後悔の雨は、さらに激しさを増していた。街の境界線は日に日に後退し、世界そのものが後悔に飲み込まれていくようだった。
焦燥に駆られたリクは、ポケットの中で冷たい感触を確かめた。祖父の形見だという、壊れた懐中時計。銀色の蓋には細かな傷が刻まれ、針はとうの昔に止まっている。文字盤には蜘蛛の巣のようなヒビ。ただのガラクタだ。だが、なぜか手放せずにいた。
その時だった。降り注ぐ雨の一滴が、懐中時計の蓋の隙間から染み込んだ。
カチリ。
ありえない音がした。
リクが慌てて蓋を開くと、ヒビの入った文字盤が一瞬だけ淡い光を放ち、映像を映し出した。
――燃え盛る研究施設。散乱する書類と機材。
そして、絶望の表情でこちらに手を伸ばすユナの姿。
『行かないで、リク!』
彼女の悲痛な叫びが聞こえた気がした。だが、映像の中の「誰か」は、その彼女に背を向けて走り去っていく。その背中は、見紛うはずもなく、自分自身のものだった。
映像は一瞬で消え、文字盤は元の静寂を取り戻した。
リクは愕然とした。心臓が氷の塊になったように冷たく、重くなる。これは、これから起こる未来なのか。それとも、自分が忘れてしまった過去の記憶なのだろうか。どちらにせよ、計り知れない恐怖が彼を襲った。
第五章 未来の僕が泣いている
真実を確かめなければならない。
リクは、懐中時計を強く握りしめ、再びあの巨大な幻影の前に立った。ユナが心配そうに見守っている。
「今度こそ、正体を見極める」
決意を固め、彼は再び幻影へと手を伸ばした。
懐中時計が共鳴するように、熱を帯びる。指先が触れた瞬間、前回とは比較にならないほど鮮明なビジョンが、彼の全存在を乗っ取った。
そこは、荒廃しきった未来の世界だった。後悔の雨が全てを洗い流し、生命の気配もない灰色の風景が広がっている。そして、その中心に、一人の男が膝を抱えて泣いていた。
顔を上げた男を見て、リクは息を呑んだ。それは、歳を重ね、深い絶望をその目に刻みつけた、未来の自分自身の姿だった。
未来のリクは、泣き叫んでいた。
『ユナの研究が世界を救うと信じていた。だが、それは暴走し、世界を壊す兵器にもなり得た。俺は、彼女を……ユナを犠牲にして、その研究データを守った。世界のために。でも、ユナのいない世界に、何の意味があったんだ!』
幻影の正体は、未来のリク。
世界を覆う雨は、彼が抱えきれなくなった後悔の念が、時空を超えて過去――つまり現在へと逆流してきたものだったのだ。懐中時計が映した光景は、彼がユナを見捨てた、あの「決定的な瞬間」だった。
「あの時に戻れるなら……。もう一度、やり直せるなら……!」
未来の自分の慟哭が、現在のリクの魂を震わせた。
第六章 選択の刻
幻影から解放されたリクは、血の気の引いた顔でユナにすべてを語った。未来に起こりうること、自分の選択が招く絶望的な結末。ユナは黙って聞いていたが、その瞳は恐怖に揺れていた。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、けたたましい警報が鳴り響いた。
「襲撃だ!ユナの研究データを狙って、あの組織が!」
ユナの協力者が叫ぶ。窓の外では、黒服の男たちが施設を取り囲んでいた。
炎が上がり、悲鳴が響く。懐中時計が示した、あの未来が、今、現実のものとなろうとしていた。
「リク、データを持って逃げて!これさえあれば、いつかきっと……!」
ユナはUSBメモリをリクに押し付け、彼の背中を押した。未来の自分と、全く同じ状況。同じ選択。
世界を救うためのデータか、目の前にいる一人の女性か。
リクの脳裏に、未来の自分の後悔が蘇る。ユナのいない世界で、永遠に涙を流し続ける、あの孤独な姿。
「……嫌だ」
リクは首を横に振った。
「後悔だけの未来なんて、俺は選ばない」
彼はUSBメモリを床に叩きつけるのではなく、ユナの手を固く、固く握りしめた。
「一緒に行くんだ、ユナ。未来は、俺たちが今から作るんだから」
第七章 再生の雨
リクが未来の自分を否定し、後悔の運命に抗うことを決意した瞬間。
空を覆っていた巨大な幻影が、ふっと動きを止めた。そして、まるで長年の苦しみから解放されたかのように安らかな表情を浮かべ、静かに光の粒子となって霧散していった。
すると、空から降り注ぐ雨の色が変わった。絶望を運ぶ灰色ではなく、温かい光を帯びた、黄金色の雨。それは、人々の心を洗い流す「再生の雨」だった。
雨粒が地に落ちると、奇跡が起こった。何十年も不毛だった『後悔の地』から、小さな、しかし力強い緑色の芽が、一斉に顔を出し始めたのだ。後悔は消え去ったわけではない。それは大地へと還り、新たな生命を育むための糧となったのだ。
リクは、ユナの手を握ったまま、その光景を呆然と見つめていた。ポケットの中で、懐中時計が微かに震える。
カチリ。
止まっていたはずの秒針が、たった一度だけ、確かな時を刻んだ。
それは未来が固定された合図ではない。過去の後悔を受け入れ、今この瞬間から、新しい未来が始まった証だった。
リクとユナは、芽吹き始めた大地を踏みしめ、ゆっくりと歩き出す。雨上がりの空には、淡い虹がかかっていた。後悔と共に生きること。それを選んだ彼らの未来は、まだ始まったばかりだった。