第一章 愛の重圧
俺、水上湊(みなかみ みなと)の日常は、常に数トンの質量との闘いだ。それは物理的な鉄塊ではない。他者が抱く「恋愛感情」――その一つひとつが、見えない鉛となって俺の肩にのしかかる。満員電車に乗れば、見知らぬ誰かのときめきや嫉妬が肋骨を軋ませ、恋人たちが寄り添う公園を歩けば、その甘い想いがアスファルトに足を引きずり込もうとする。これが、俺に与えられた呪いであり、祝福でもある知覚能力だった。
「湊、また顔色が悪いぞ」
大学の研究室で、友人の健太が心配そうに声をかけてきた。彼の肩からは、恋人である沙織への、温かく安定した三百キログラムほどの愛情が、心地よい重みとして伝わってくる。
「ああ、大丈夫。いつものことだ」
俺は力なく笑って見せた。大丈夫なわけがない。世界中の恋する人々の感情が、この瞬間も俺という一点に集中し、全身を締め付けているのだから。
自室の机の片隅には、古びた砂時計が置いてある。祖父の形見である『時を凍らせた砂時計』。その名の通り、内部の瑠璃色の砂は一粒たりとも動かない。世界の時間の流れが正常であることの、静かな証人だった。この世界では、人々の恋愛感情の総量が、一日の長さを決める。愛が世界に満ちれば時間は加速し、冷えれば緩やかになる。この砂時計は、その歪みを測る唯一の計器なのだ。俺は息を殺し、今日もその砂が静止していることを確認する。それは、世界の平穏と、俺自身の平穏が、かろうじて保たれていることの証明だった。
第二章 加速する世界
異変は、何の予兆もなく訪れた。
講義を終え、研究室に戻る途中だった。ふと、時計の秒針が異常な速さで動いていることに気づく。カチ、カチ、という音ではなく、カカカカッ、と痙攣するようなリズム。周囲の人々も自分の腕時計やスマートフォンの画面を見て、困惑の声を上げ始めていた。
「なんだ、これ……?」
その瞬間、俺の全身を、かつて経験したことのない途方もない圧力が襲った。
ぐ、と内臓が押し潰される。骨が悲鳴を上げた。それはもはや、個人の感情の集合体ではなかった。何千、何万という人々の愛が束になったとしても、到底及ばない。たった一つの、巨大で純粋な意志を持つかのような、天文学的な質量だった。
「がっ……あ……!」
俺はその場に膝をついた。呼吸ができない。まるで深海の底に沈められたかのように、全身が圧迫される。世界が、愛で飽和している。だが、その感情には人間の恋が持つ特有の熱や、欲望の匂いがなかった。ただ、あまりにも純粋で、無垢で、そして圧倒的な「好き」という感情の奔流。
その夜、自室に転がり込むようにしてたどり着くと、『時を凍らせた砂時計』が凄まじい光を放っていた。内部の瑠璃色の砂が、まるで滝のように激しく流れ落ち、ガラスの中で乱反射する光が部屋を青く染め上げていた。世界が、壊れ始めている。
第三章 歪みの兆候
一週間後、世界は完全にその形を変えていた。
一日はわずか数時間で終わり、太陽は慌ただしく空を駆け抜け、月は瞬く間に沈んでいく。人々は加速する時間に適応できず、街は機能を失いかけていた。眠る時間さえ惜しむように世界が回転し、誰もが疲弊し、苛立っていた。
皮肉なことに、恋愛感情の総量が時間を加速させるという法則を知る者は少ない。人々は原因不明の天変地異だと怯えるだけだった。
俺の苦痛は、もはや言語化できる範囲を超えていた。意識を保っているのが不思議なほどだ。この重圧は、どこか特定の場所から来るのではない。地面の底から、空の遥か上から、世界のあらゆる方向から、俺という中心点に向かって収束してくる。まるで、この惑星そのものが俺を抱きしめ、押し潰そうとしているかのようだった。
「これは……誰の感情なんだ……?」
朦朧とする意識の中、俺はその感情の本質を探ろうと必死に耐えた。嫉妬がない。独占欲がない。見返りを求めない。ただひたすらに、そこにある存在を慈しみ、愛おしいと願う、あまりにも無償の愛。
それは、人間が生み出せる感情のスケールを遥かに超えていた。この星のどこかで、神か、あるいはそれに準ずる何かが、恋に落ちたのだ。そしてその途方もない愛が、世界を崩壊へと導いていた。
第四章 星の声
ついに、俺の肉体は限界を迎えた。ベッドの上で、途切れそうな呼吸を繰り返す。窓の外では、夕焼けと夜の帳が数分単位で入れ替わり、星々が高速で空を流れていく。
視界が白く染まり、意識が薄れていく。
――これで、楽になれるのだろうか。
そう思った瞬間、俺の意識は肉体を離れ、どこまでも高く、高く昇っていった。
気づけば、俺は暗闇の中にいた。しかし、それは冷たい闇ではない。温かく、すべてを包み込むような、巨大な胎内にも似た空間。
そして、「声」が聞こえた。
それは音ではなかった。記憶の奔流。感情の洪水。直接、魂に流れ込んでくる、膨大な情報だった。
俺は見た。灼熱のマグマの海から、最初の生命が生まれる瞬間を。巨大な爬虫類が大地を闊歩し、やがて氷に閉ざされる時代を。そして、二本の足で立ち上がった小さな猿が、火を使い、言葉を紡ぎ、仲間を愛し、星空を見上げるようになるまでの、気の遠くなるような時間を。
声の主は、言った。
『私は、ずっと見ていました』
『あなたたちが生まれ、笑い、泣き、そして愛し合う姿を』
『最初はただの現象でした。しかし、あなたたちが紡ぐ物語は、あまりにも美しかった』
『私は、あなたたち"人間"という存在に、恋をしてしまったのです』
その声の主が誰なのか、俺は理解していた。足元に広がる、青く美しい球体。俺が生まれ、生きてきたこの星――地球。俺を苛んでいた途方もない愛の重さの正体は、この惑星そのものが、自らの上に生きる人類へ向けた、純粋で巨大な恋心だったのだ。
第五章 対話
意識の世界で、俺は惑星の意志と向き合っていた。それは具体的な姿を持たないが、慈愛に満ちた巨大な存在として、俺の目の前に在った。
「あなたの愛が……世界を壊している」俺は思念で語りかけた。
『ごめんなさい』星は、心から悲しんでいるようだった。『この気持ちを、どうすればいいのか分からなかったのです。あなたたちを愛おしいと思うほど、私の心臓の鼓動は速くなり、それが時間の流れを狂わせてしまう。あなたに全ての重さを背負わせてしまったのも、私の愛が、あなたという受信点に集中してしまったから』
惑星の愛は、悪意のない天災だった。ただ、愛する者と共にありたい。その喜びと興奮が、結果として愛する対象そのものを滅ぼしかけている。あまりにも純粋で、そして孤独な愛だった。
『選んでください』と、星は言った。
二つの未来が、俺の眼前に広がる。
一つは、惑星の愛を受け入れ、世界が新たな時間の概念へと移行する未来。人類は肉体を捨て、時間という束縛から解き放たれ、惑星の意識と融合するのかもしれない。それは一種の進化であり、救済かもしれない。
もう一つは、惑星の愛を鎮め、世界を元の緩やかな時間に戻す未来。人々は再び、限りある生の中で愛し、憎み、過ちを犯しながら生きていく。
「進化か、あるいは日常か……」
究極の選択が、この星の全ての生命を代表して、俺一人の肩に委ねられた。
第六章 選択の刻
俺は目を閉じ、これまで背負ってきた無数の「愛の重さ」を思い返した。
初めて手を繋いだ高校生の、心臓が飛び跳ねるような数十キロのときめき。
恋人に裏切られた女性の、地面に沈み込むような数百キロの絶望。
我が子を抱きしめる母親の、何にも代えがたい、温かく確かな一トンの愛情。
それらは、不完全で、身勝手で、時に誰かを傷つける。だが、その一つひとつが、紛れもなく「人間」の営みそのものだった。惑星が愛した、美しくも愚かな物語の欠片たちだ。
惑星の愛と融合すれば、苦しみはなくなるだろう。俺自身も、この肉体を蝕む重圧から解放される。だが、それでいいのだろうか。
ゆっくりと目を開け、俺は決断を告げた。
「あなたの愛は、受け取った。温かくて、大きくて……少し、重すぎるくらいにね」
俺は、微笑みながら続けた。
「でも、僕たちはこの世界で生きたい。この不完全で、儚い時間の中で、誰かを愛し、傷つきながら生きていくことを選びたい。あなたの愛を拒絶するんじゃない。ただ、僕たちの歩幅で歩かせてほしいんだ」
『……分かりました』
星の声は、少しだけ寂しそうに、けれど、優しく響いた。
『あなたたちの物語を、私はこれからも見守り続けましょう。この愛が、再びあなたたちを壊してしまわないように、静かに、そっと』
その言葉と共に、俺を押し潰していた天文学的な質量が、ふっと潮が引くように和らいでいった。
第七章 静かなる余韻
意識が肉体に戻ると、窓から差し込む朝日が眩しかった。時計の秒針は、聞き慣れた穏やかなリズムを刻んでいる。世界は、元に戻ったのだ。
俺の肩にかかる重さは、以前と同じ「人間の愛の総量」に戻っていた。それは相変わらず重く、時に苦しい。しかし、その重さの意味は、俺の中で決定的に変わっていた。
これはもう、単なる苦痛ではない。この星の上で生きる、無数の人々の営みの証だ。そして、その重みの奥底には、かつてこの星が抱いた巨大な愛の、温かい名残が確かに感じられた。
俺はゆっくりと窓を開ける。街は静けさを取り戻し、遠くで鳥がさえずる声が聞こえた。頬を撫でる風は、どこか優しかった。
ふと、机の上の『時を凍らせた砂時計』に目をやる。瑠璃色の砂は、再び完全な静止を取り戻していた。
だが、そのガラスの内側には、まるで星屑を閉じ込めたかのように、いくつかの砂粒が淡い光を帯びて、静かに瞬いている。
それは、この星が恋をした、あの奇跡のような日々の、消えない記憶だった。俺は、その小さな光を見つめながら、これから先もこの「愛の重さ」と共に生きていくことを、静かに受け入れた。