古書店の隅、午後の光が埃を金色にきらめかせる場所が、水野楓の定位置だった。カウンターの向こうで、彼女は本の背表紙を指でなぞりながら、毎週土曜日にだけ現れる彼を待っていた。彼の名は橘湊。少し癖のある黒髪に、少年のような屈託のない笑顔を浮かべる建築家の卵。彼はいつも、古い建築様式の本を探しにこの店へやってくる。
楓は、湊に淡い想いを寄せていた。だが、過去の失恋が心に落とした影は思ったよりも濃く、彼女から言葉を奪い、笑顔をぎこちなくさせた。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」。彼との会話は、いつもその二言だけで終わってしまう。本当は、彼が探している本が店の奥の書庫に眠っていることを知っていた。先代の店主が大切にしていた稀覯本だ。いつか渡そう。そう思いながら、楓はただ、彼の広い背中を見送るだけの日々を繰り返していた。胸ポケットに挿した、褪せた押し花の栞に触れるたび、言い出せない言葉が喉の奥でつかえた。
ある土曜日のこと、湊はいつもの建築書の棚には向かわず、珍しく恋愛小説のコーナーで足を止めた。「何かお探しですか」。楓は、自分でも驚くほど自然に声をかけていた。湊は少し照れたように笑い、「友人に、たまにはこういうのも読めって言われて」と頭を掻いた。その日を境に、二人の間には細く、けれど確かな糸が紡がれ始めた。好きな作家の話、休日の過ごし方、コーヒーの好み。言葉を交わすたびに、楓の心にあった分厚い氷が、春の陽射しを浴びるように少しずつ溶けていくのを感じた。それでも、あの栞が象徴する過去の傷だけは、まだ癒えずに疼いていた。
季節が巡り、木々の葉が色づき始めた頃、湊の足がぱたりと途絶えた。一週間、二週間。土曜日の店内はがらんとして、時間の流れさえも遅くなったように感じられた。楓の胸を占めるのは、言いようのない不安と焦燥感だった。三週間目の土曜日、ようやく現れた彼は、いつもの笑顔の裏に深い疲労を滲ませていた。
「楓さん、ちょっとこれ、見てもらえませんか」
彼がカウンターに広げたのは、一枚の巨大な設計図だった。それは、古い様式とモダンなデザインが融合した、美しい図書館の設計図だった。「大きなコンペなんだ。これに落ちたら、俺、実家の設計事務所を継ぐために地元に帰ることにした」。湊の真剣な眼差しが、楓の心を射抜く。「もし……もし勝てたら、楓さんに伝えたいことがあるんだ」。その言葉は、希望であると同時に、残酷な最後通告のように響いた。彼を失うかもしれない。その恐怖が、楓の臆病な心を激しく揺さぶった。彼が去った後、楓は店の奥の書庫へと走り、埃をかぶった一冊の本を、震える手で取り出した。
コンペの結果発表の日。空は燃えるような茜色に染まっていた。楓は、あの稀覯本を抱きしめ、会場へと向かった。自分の殻を破るには、もうこの瞬間しかない。ロビーの喧騒を抜け、外で待っていると、肩を落とした湊が一人、力なく歩いてくるのが見えた。
「湊さん」
彼はこちらに気づくと、寂しそうに微笑んだ。「ダメだった。やっぱり、俺にはまだ早かったみたいだ」。その言葉に、楓は何も答えず、ただ黙って持ってきた本を差し出した。湊は驚いたように本を受け取り、ゆっくりとページをめくる。そこには、彼がずっと追い求めていたであろう、独創的な構造のスケッチが詳細に描かれていた。
ふと、彼の指が止まる。楓が挟んでおいた栞に気づいたのだ。それは、今まで彼女が持っていた古い押し花の栞ではなかった。店の窓辺で育てていた、小さなクローバーを押し葉にして作った、新しい栞だった。
「もう、間に合わなかった、かもしれないけど……」楓の声が震える。
湊は、ゆっくりと首を振った。そして、設計図ではなく、楓の冷たくなった手をそっと握りしめた。「ううん」と、彼の温かい声が夕暮れの空気に溶けていく。「間に合うよ。楓さんがいてくれるなら、俺はどこでだって、もう一度始められる」。
彼の瞳には、コンペに敗れた建築家の絶望ではなく、愛しい人を見つけた男の確かな光が宿っていた。古い栞と共に過去が終わりを告げ、新しい栞が、二人の物語の最初のページをそっとめくった。夕日が、その始まりを祝福するように、二人をいつまでも照らしていた。
夕暮れの栞
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