返信は本の余白に

返信は本の余白に

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市立図書館の三階、人文科学の棚が並ぶ一番奥のスペースは、私の聖域だった。古い紙の匂いと、窓から差し込む午後の光が埃を金色に照らす、静かな場所。そこで私は、運命を変える一冊の本と出会った。
夏目漱石の『こころ』。何度も読んだはずのその文庫本の見返しに、万年筆で書かれたであろう繊細な文字を見つけたのだ。

『もしこの本を手に取った次の方がいらっしゃれば。この物語の解釈を、そっと教えてはくれませんか。返信は、この余白へどうぞ。――迷える旅人より』

悪戯心、と呼ぶにはあまりにもその文字は真摯だった。私は胸の高鳴りを覚えながら、鞄から愛用のボールペンを取り出した。数日後、同じ本を手に取ると、私の書き込みの下に、見覚えのあるインクの文字が並んでいた。
そこから、顔も名前も知らない「旅人さん」との、奇妙な交換日記が始まった。私たちは本の感想を語り、好きな映画について議論し、雨の日の憂鬱を分かち合った。彼の文章は、まるで上質な珈琲のように深く、知的で、そしてほんのりと温かいユーモアがあった。私はいつしか、彼を「蒼(あお)さん」と呼ぶようになっていた。彼の使うインクの色が、深く澄んだ蒼色だったからだ。彼は私のことを、本の間に挟んだまま忘れてしまったというエピソードにちなんで、「栞(しおり)さん」と呼んだ。

ページをめくるたびに、蒼さんへの想いは募っていく。会ってみたい。でも、この心地よい関係を壊したくない。現実の私は、人付き合いが苦手で、週末はほとんどこの図書館で過ごすような、冴えない事務員だ。手紙の中の饒舌な「栞さん」とは、少し違う。

そんな私の日常に、もう一人、気になる人物がいた。この図書館の司書、高遠(たかとお)さんだ。彼はいつもカウンターの奥で難しい顔をして本を読んでいて、たまに目が合っても、すぐに逸らされてしまう。声は低く、口数も少ない。正直、苦手なタイプだった。
ある日、貸し出し期限のことで彼と少し気まずいやり取りをしてしまい、私はすっかり落ち込んでしまった。その日の夜、私は本の余白に、高遠さんの愚痴を書き連ねた。

『とても無愛想で、理屈っぽい人がいるんです。人の気持ちなんて、きっと考えたこともないんだわ』

翌日、蒼さんからの返信を読んで、私は少し驚いた。
『その人も、不器用なだけかもしれませんよ。言葉でうまく伝えられない想いを、誰だって持っているものです』
まるで高遠さんを庇うような言葉。私は少しだけ、むっとしてしまった。

それでも、蒼さんに会いたい気持ちは消えなかった。私は意を決して、新しいインクで文字を綴った。
『蒼さん、一度だけ、会ってお話しできませんか。次の土曜の午後二時、図書館の入り口で、この『こころ』を持って待っています』
書いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。もう、後戻りはできない。

約束の土曜日。私はお気に入りのワンピースを着て、少しだけ化粧をした。鏡の中の自分は、いつもよりずっと落ち着かない顔をしている。午後二時、固唾をのんで図書館の入り口に立つ。待ち合わせの目印である『こころ』を、胸に抱きしめるようにして。
五分が過ぎ、十分が過ぎた。蒼さんらしき人は、誰も現れない。やっぱり、ただの悪戯だったのかもしれない。想像上の素敵な彼に、私が勝手に恋をしていただけなんだ。
失望が胸に広がり、涙が滲みそうになったその時、がちゃり、と図書館の扉が開いた。出てきたのは、あの高遠さんだった。
「……水野さん」
彼は私に気づくと、気まずそうに視線を彷徨わせた。その手に、一冊の文庫本が握られているのが見えるまでは、私も彼を無視して帰るつもりだった。
――私と同じ、夏目漱石の『こころ』。
時が、止まった気がした。まさか。そんなはずはない。だって彼は、あんなに無愛想で……。
高遠さんは観念したようにため息をつくと、おずおずと私に向き直った。そして、信じられない言葉を口にした。
「あの……もしかして、栞さん、ですか?」
彼の声は、緊張で少しだけ震えていた。

差し出された彼の本を覗き込むと、そこには確かに、見慣れた蒼いインクの文字と、私のボールペンの文字が並んでいた。
「人と話すのが、昔から苦手で……。でも、文章でなら、本当の自分を話せる気がしたんです」
高遠さん――ううん、蒼さんは、顔を真っ赤にしながら俯いた。いつも難しい顔をしていたのは、緊張と人見知りを隠すための鎧だったのだ。
私は、目の前にいる不器用な男性と、本の余白にいた知的で優しい「蒼さん」の姿を、ゆっくりと重ね合わせた。私が恋をしたのは、彼の外見や雰囲気なんかじゃなかった。彼の紡ぐ言葉、その奥にある彼の心そのものだったんだ。
込み上げてきたのは、愛おしさだった。
「初めまして、蒼さん」
私は、精一杯の笑顔で言った。
「水野美咲です」
驚いて顔を上げた彼の瞳が、インクのように深く澄んだ蒼色に見えたのは、きっと気のせいではない。私たちの物語は、今、本当の第一ページを開いたのだ。

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