沈黙の旋律と響きの塔

沈黙の旋律と響きの塔

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世界は不協和音(ディスコード)に蝕まれていた。空は濁り、大地はひび割れ、人々の心からはかつてあったはずの穏やかな律動が失われて久しい。この歪みは「奏者(アルモニスト)」と呼ばれる者たちだけが感知できる、世界の悲鳴だった。

カイは、師匠の形見である黒檀の調律笛を握りしめ、荒野を歩いていた。目指すは、地平線の彼方に霞む「響きの塔」。古代の奏者たちが世界の調律を司るために建てたという伝説の建造物だ。そこに、万物の響きを原初の調和へと導く究極の楽譜、「沈黙の旋律」が眠っていると信じられていた。

「師匠、俺にできるでしょうか……」

呟きは、不規則に吹き荒れる風の唸りに掻き消される。師匠は言った。「沈黙とは、音がないことではない。全ての音が調和した、最も美しい状態のことだ」と。

数日後、カイはついに塔の麓にたどり着いた。天を突く巨塔は、それ自体が巨大な楽器のようにも見える。だが、その周囲は耳障りな音の壁が渦巻き、物理的な障壁となって行く手を阻んでいた。カイは覚悟を決め、調律笛を唇に当てる。奏でたのは、師匠から教わった「開門のハルモニア」。澄んだ音色が音の壁に触れると、不協和音が和音へと変わり、まるでカーテンが開くように道が開けた。

塔の内部は、音で満たされた迷宮だった。特定の音階を奏でなければ開かない扉、反響を利用して渡る奈落、音を喰らう影。カイは師匠の教えと自らの聴力を頼りに、一つずつ試練を乗り越えていく。

その途中、彼は一人の少女に出会った。名をリラという。透き通るような銀髪を持ち、まるで仔鹿のように警戒心の強い瞳でカイを見ていた。彼女はこの塔の守り手なのだという。

「よそ者は帰りなさい。この塔は、もう誰にも世界を調律させはしない」
「なぜだ!このままでは世界が壊れてしまう!」

カイが奏でる旋律は、リラの張る音の結界にことごとく弾かれる。だが、カイは攻撃ではなく、対話の旋律を奏で続けた。自身の旅の目的、師匠の想い、世界の悲鳴。その純粋な響きに、リラの瞳が揺らぐ。彼女はずっと一人で、塔に満ちる不協和音に耐え続けてきたのだ。

「……信じても、いいの?」

リラが心を開いたとき、塔の最上階への道が開かれた。

二人でたどり着いた頂には、巨大な水晶の音叉が鎮座していた。世界の調律を司る「アニマ・ムンディ」だ。しかし、その水晶は濁り、禍々しい震動を放っている。音叉には、影が凝縮したような巨大な魔物が取り憑いていた。リラが絶望の声を上げる。

「あれが不協和音の源、『音喰らい(サウンドイーター)』……!」

音喰らいは、あらゆる音を喰らい尽くす虚無の存在だった。カイが放つ渾身の「破邪のプレリュード」も、魔物に届く前に吸い込まれ、無に帰す。音を武器とする奏者にとって、それは絶対的な絶望を意味した。

もはや万策尽きたかと思われたその時、リラが叫んだ。
「違う!戦っちゃだめ!あれ自体が歪んだ『沈黙』なら、あなたが奏でるべきは『始まりの音』よ!」

始まりの音――その言葉に、カイの脳裏で師匠の最後の言葉が蘇る。『カイ、世界を聴け。風の囁き、石の呼吸、お前の心臓の鼓動。その全てが、始まりの音なのだ』

カイは目を閉じた。武器としての音ではない。ただ、聴く。風の音、リラの息遣い、自身の高鳴る鼓動、そして、音喰らいの奥で苦しむように震える水晶の音叉の、か細い響き。その全てを拾い上げ、一つの調和へと導くように、そっと調律笛を吹いた。

それは、旋律と呼ぶにはあまりに静かで、素朴な音色だった。攻撃的な響きはない。ただ、そこにある全ての音を肯定し、あるべき場所へと還すような、慈愛に満ちた和音。

音喰らいは、初めて喰らうことのできない音に戸惑い、苦しみ始めた。カイの奏でる「原初の和音」は、魔物を攻撃するのではなく、その存在そのものを調律していく。やがて、絶叫とも歓喜ともつかない叫びを上げ、音喰らいは光の粒子となって霧散した。

後に残されたのは、本来の輝きを取り戻した巨大な水晶の音叉。それは、静かで清らかな響きを世界へと放ち始めた。濁っていた空に光が差し、乾いた大地に命の律動が戻っていくのが分かった。

「これが……本当の『沈黙の旋律』……」カイは呟いた。

それは楽譜ではなく、世界そのものと対話し、調和を奏でることだったのだ。

隣で、リラが微笑んでいた。その笑顔は、カイが奏でたどの和音よりも美しかった。

「一人じゃ、世界は調律できないわ。手伝ってあげる」
「ああ、頼むよ」

二人の奏者の旅は、まだ始まったばかり。だが、その手には確かな希望の旋律が握られていた。

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