色なき音のレクイエム

色なき音のレクイエム

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***第一章 色を失くした世界***

僕、リヒトの耳には、世界が色彩を帯びて聴こえていた。
小川のせせらぎは、きらきらと輝く青銀の細い糸。母さんの編み物の音は、陽だまりのような柔らかな黄金色。怒鳴り声は、ぎらついた汚泥のような暗褐色。この「色聴」と呼ばれる特異な感覚は、物心ついた頃から僕の世界を彩るすべてだった。けれど、故郷の村では、それは祝福ではなく、不気味な呪いの徴とされた。誰もが見えない色を見る僕を、人々は遠巻きにし、囁き合った。その声は、僕の目にはいつも、冷たい灰色の霧のように見えた。僕はいつしか、この呪われた感覚を憎むようになっていた。

その異変は、秋の収穫祭を間近に控えたある朝、静かに始まった。
最初に気づいたのは、教会の鐘が鳴らなかったことだ。続いて、村一番のおしゃべりなパン屋の女将が、口をぱくぱくさせるだけで一言も発せないことに村中が騒然となった。それは病のように伝染した。鍛冶屋の槌音がかき消え、家畜の鳴き声が途絶え、子供たちの笑い声が村から消えた。人々は次々と「音」を失っていったのだ。

それは「沈黙病」と呼ばれた。医師もお手上げの、原因不明の奇病。だが、僕にとっての恐怖はそれだけではなかった。音が消える瞬間、僕の目には、その音が持っていた「色」が、ガラス細工のように砕け散るのが見えたのだ。教会の鐘の荘厳な紫紺が、パン屋の女将の快活な橙色が、粉々になって虚空に消える。世界から、色が、生命が、剥がれ落ちていく。その光景は、僕の心の奥底に眠る、忘れていたはずの何かを揺さぶるようで、言いようのない恐怖に襲われた。

やがて、病は人間以外のものにも及んだ。風の音、木の葉のざわめき、雨だれの音さえもが消え、世界は完全な沈黙に包まれた。僕が憎んでいたはずの音が失われた世界は、平和などではなく、死んだように不気味な虚無が広がっているだけだった。

そんな中、村で唯一声を発することができた村長が、息も絶え絶えに僕を呼んだ。彼は古い文献を指差し、掠れた声で告げた。「伝承によれば、この災厄は、世界の音を生み出すという『始原の歌』が途絶えた時に起こるという。森の奥深くに棲む『歌い鳥』だけが、その歌を再び奏でることができる……リヒト、お前さんのその奇妙な目なら、あるいは……失われた音の残響を追えるやもしれん」

村長の目には、侮蔑ではなく、藁にもすがるような懇願が滲んでいた。孤独だった僕に、初めて誰かが助けを求めている。呪いだと思っていたこの目が、もし誰かの役に立つというのなら。砕け散る色の光景に感じた奇妙な疼きが、僕の背中を押した。僕は、ほとんど色の見えなくなった世界で、わずかに残る音の残像――色の残響――を頼りに、独り、囁きの森へと旅立った。

***第二章 囁きの森の案内人***

音のない旅は、想像を絶する孤独との戦いだった。道標となるのは、かつてそこに在ったはずの音が見せる、淡い色の残像だけ。消えかけた川のせせらぎが遺した銀色の軌跡を辿り、風が通り抜けた名残である薄緑の靄を追い、僕は森の奥へ奥へと進んだ。

世界は、墓場のように静まり返っていた。鳥は枝に止まったまま動かず、獣は息を潜め、虫の羽音一つ聞こえない。これまで当たり前に存在し、時には煩わしいとさえ感じていた音が、どれほど世界に生命の息吹を与えていたかを、僕は骨身に染みて感じていた。そして皮肉なことに、この死んだ世界で、僕の「色聴」だけが、かろうじて世界と僕を繋ぎとめる唯一の絆となっていた。呪われた能力は、いつしか僕にとって、かけがえのない道標に変わっていた。

何日歩き続いただろうか。疲労困憊し、幻覚のように揺らめく色の残響の中で倒れ込んだ僕の前に、一人の少女が現れた。透き通るような白い肌に、森の湖面を思わせる深い瞳。彼女は言葉を発さなかった。そもそも、この世界に言葉などもう存在しないのだ。だが、彼女が僕を見つめると、不思議なことに、温かな声が直接、心の中に響いてくるような感覚がした。

『探しているのね、歌を』

少女は僕に手を差し伸べた。その小さな手に触れた瞬間、僕の目には、彼女の周りに柔らかな虹色の光が揺らめいているのが見えた。それは、僕が今まで見たどんな色とも違う、生命そのもののような、温かく力強い色だった。彼女は僕の案内人となった。言葉を交わすことなく、ただ僕の手を引き、森のさらに深い場所へと誘っていく。彼女といると、不思議と孤独は感じなかった。僕たちは、沈黙の中で、誰よりも深く心を通わせているようだった。

***第三章 歌い鳥の真実***

少女に導かれるまま、僕たちは森の最深部にある、巨大な水晶でできた大樹の下にたどり着いた。月光を浴びて、その樹は何万ものプリズムのように輝き、辺りには幻想的な光が満ちていた。そして、その一番高い枝に、それはあった。村長が語っていた「歌い鳥」。しかし、それは生きた鳥ではなかった。水晶と宝石で精巧に作られた、美しい一羽の鳥の形をしたオルゴールだった。翼は半ば折れ、その体は埃をかぶり、永い眠りについているように見えた。

「これが……歌い鳥……?」
僕が呆然と呟くと、少女は僕の手を握りしめ、その心が再び僕の中に流れ込んできた。それは、今までのような穏やかなものではなく、悲しみと、そして世界の根幹を揺るがすような、厳粛な真実の奔流だった。

『歌い鳥は、歌わない。歌を響かせるための、器』
『歌を奏でるのは、あなたの一族。始原の歌い手』

脳内に響く声に、僕は混乱した。「沈黙病」は病などではなかった。それは、この世界の音を紡ぎ出す「始原の歌」が、その力を失い、世界そのものが崩壊を始めている現象だったのだ。そして、その歌を奏でてきたのは、代々僕の一族だった。彼らは自らの生命力を旋律に変え、胸の中心にある「音の核」と呼ばれるゼンマイを回し、このオルゴールを通して世界に音を与え続けてきた。僕が呪ってきた「色聴」の能力は、その役目を担う者の証だったのだ。

『あなたの祖先は、その宿命から逃れた。永遠に命を削り続けることから。そして、歌は途絶えた』

衝撃的な事実に、僕は立っていることさえできなかった。僕を孤独にした呪いは、実は世界と僕を繋ぐ最も尊い絆だった。僕が忌み嫌っていたこの力は、世界を生かすための聖なる力だったのだ。少女は僕の胸にそっと手を触れた。

『ゼンマイは、あなたの心臓にある』

その言葉と共に、僕は自らの胸の奥に、確かな存在を感じた。冷たく、硬い、小さなゼンマイの感触。これが「音の核」。これを回せば、世界に音は戻る。だが、それは自らの命の灯火を、オルゴールの動力として捧げることに他ならない。
世界を救うか、自分の命か。
脳裏に、色が砕け散る光景が蘇る。母さんの黄金色の音。村人たちの冷たい灰色の声さえも。音が在った、あの彩り豊かな世界。その美しさを、その尊さを、誰よりも知っているのは、音に色を見てきた僕自身ではないか。孤独だった僕を、唯一世界と繋いでくれた「音」。それを永遠に失うことの恐怖が、死の恐怖を上回った。僕を気味悪がった村人たち。だが彼らもまた、音の無い世界で苦しんでいる。僕は、もう独りではなかった。

***第四章 始原の歌***

僕は静かに頷き、震える手で水晶のオルゴールを枝から降ろした。埃を払い、壊れた翼をそっと撫でる。そして、意を決して、自らの胸に深く手を入れた。比喩ではない。僕の手は、まるで水面に吸い込まれるように、抵抗なく僕自身の身体へと沈んでいった。指先が、心臓のすぐ隣で鼓動する、冷たい「音の核」に触れた。

ゆっくりと、僕はゼンマイを巻いた。
ギ、ギィ、と錆び付いた音が、僕の身体の内で響く。それは僕の命が削れる音だった。僕の身体が、足元から徐々に透き通っていくのが分かった。だが、不思議と痛みも恐怖もなかった。むしろ、言いようのない充足感が全身を駆け巡っていた。

カチリ、とゼンマイが巻き終わり、僕が手を離すと、オルゴールは永い沈黙を破った。

――ポロロン……

か細く、しかし、どこまでも透き通った音が、水晶の大樹に響き渡った。それは、僕が今まで聴いたどんな音とも違う、すべての音の源。まさしく「始原の歌」だった。僕の目には、その一音が、純白の光の粒となって空に舞い上がるのが見えた。
メロディは次第に力を増し、光は壮大な色の奔流となって世界へと広がっていく。失われた青銀のせせらぎが、陽だまりの黄金色が、荘厳な紫紺が、次々と再生されていく。僕の身体はますます透明になり、視界は白んでいく。だが僕の心は、生まれて初めて感じる歓びに満たされていた。孤独だった僕が、今、世界と一つになろうとしている。僕という個は消え、僕という音色が、世界そのものになる。

遠く故郷の村で、人々が空を見上げていた。最初に風の音が戻り、鳥たちが一斉にさえずり始めた。人々は恐る恐る口を開き、そして、自分の声が戻ったことに気づいて歓喜の声を上げた。鍛冶屋が槌を打ち、子供たちが駆け回り、世界は再び祝福すべき音と色で満たされた。誰も、辺境の村の少年が、その身を捧げて世界を救ったことなど知る由もない。

やがて、囁きの森の水晶の樹の下で、僕の姿は完全に消え、そこにはただ、美しい旋律を奏で続ける小さなオルゴールと、涙を浮かべたように虹色に輝く少女だけが残されていた。

リヒトという少年は、世界から消えた。しかし、彼の魂は死んではいない。彼が紡いだ始原の歌は、世界のあらゆる音の中に溶け込み、今も生き続けている。
あなたがふと耳にする風のささやきに、雨だれの響きに、誰かの笑い声に、もし美しい色が見えたなら、それはきっと、遠い昔に世界を愛した少年の魂が、すぐそばで微笑んでいる証なのかもしれない。

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