人々が雲海の上、点在する浮島で暮らす世界。風を読み、風を捉える「風読み師」は、島々を繋ぐ飛行船の舵を取る、最も尊敬されるべき存在だった。
カイもその風読み師の一人だったが、港町では「夢見のカイ」と呼ばれていた。誰も信じない古文書の伝説や、地図にない島の話に夢中な変わり者。彼の相棒は、古びた小型飛行船「シルフ号」。鳥の翼のようにしなやかな帆を持つ、美しい船だった。
ある日、カイは埃っぽい古物商の隅で、羊皮紙に描かれた一枚の海図を見つける。そこには、見慣れた島々の配置と共に、およそあり得ない航路と、巨大なクジラのような生き物の姿が描かれていた。
「これは……伝説の“空のクジラ”の海図だ」
店の主人は笑った。「ただの絵描きの与太話さ。そんなものに銀貨を出すなんて、あんたぐらいのもんだよ、夢見のカイ」
だが、カイの胸は高鳴っていた。このところ、世界中の風が荒れていた。穏やかな貿易風は途切れ、突如として嵐が島を襲う。ベテランの風読み師たちもお手上げの異常気象。カイは直感していた。この全ての原因は、眠りから覚めかけているという伝説の空のクジラにある、と。
「行くんだ、シルフ号」
周囲の冷笑を背に、カイはたった一人、雲海へと飛び立った。
眼下に広がるのは、純白の雲の絨毯。時に穏やかに、時に牙を剥く大自然。カイは海図を頼りに、誰も知らない空域へとシルフ号を進める。数日が過ぎた頃、前方に巨大な積乱雲の塔がそそり立っていた。雷鳴が轟き、紫電が雲を裂く。
「まずい、雷獣の巣だ!」
回避しようとした瞬間、稲妻をまとった獣のような雲がシルフ号に襲いかかった。帆が裂け、船体がきしむ。もはやこれまでか、とカイが歯を食いしばったその時。一筋の閃光が雷獣を貫いた。
見ると、最新鋭の銀翼船が、音もなく隣に並んでいた。
「こんな空域で道草とは、いい度胸ね。それとも、ただの無謀かしら」
操舵輪を握るのは、凛とした横顔の女性、リナ。アカデミーを首席で卒業した、エリート中のエリート風読み師だった。彼女もまた、異常気象の原因を調査する任を帯び、カイの奇妙な航路を追ってきたのだ。
「伝説を追っている、と言ったら笑うかい?」
カイの問いに、リナは眉をひそめた。
「笑うわ。けれど、あなたの風の読み方は無視できない。まるで風と会話しているみたいだもの」
利害が一致した二人は、行動を共にすることになった。
やがて彼らは、風が完全に凪いだ「静寂の海域」に辿り着く。全ての風が、まるで巨大な何かに吸い込まれるように、一点へと向かって消えていた。羅針盤は狂い、シルフ号は木の葉のように漂う。
絶望がよぎったその時、カイは海図に描かれた奇妙な記号が、ただの航路ではないことに気づいた。
「これは……楽譜だ!風の楽譜なんだ!」
不規則に吸い込まれる風の流れ。その強弱、リズム、間隔。それは、巨大な生き物の呼吸そのものだった。海図は、その呼吸に合わせて舵を取るための、壮大な音楽のスコアだったのだ。
「信じるわ、あなたの夢見を」リナが言った。
カイが風の旋律を歌うように読み解き、リナが的確な操船技術で応える。二人の才能が一つになった時、シルフ号は風の渦の中心へと、吸い込まれるように導かれていった。
そして、雲が晴れた瞬間、二人は息を呑んだ。
眼前にあったのは、島ではなかった。地平線の果てまで続く、巨大な生命体。山脈のような背びれ、森のように苔むした皮膚。彼らが目指していた伝説の島とは、この空のクジラの背中そのものだったのだ。
クジラは苦しげに喘いでいた。悪夢にうなされているかのように、その巨体を不規則に震わせ、世界の天候を狂わせていた。
「僕が歌う」
カイはシルフ号をクジラの巨大な額にそっと着陸させると、船首に立った。そして、風読み師に古くから伝わる「鎮めの歌」を歌い始めた。それは、戦うための歌でも、支配するための歌でもない。ただ、風の恵みに感謝し、魂を慰めるための、素朴で優しい旋律だった。
カイの澄んだ声が、静寂の海域に響き渡る。
すると、奇跡が起きた。荒れ狂っていたクジラの呼吸が、次第に穏やかになっていく。固く閉じられていた巨大なまぶたが、ゆっくりと、ほんの少しだけ開かれた。瑠璃色に輝くその瞳は、確かにカイを捉え、静かに感謝を告げているようだった。
やがて、クジラは穏やかで壮大な寝息を立て始めた。その吐息は、世界へと流れる新たな風の源流となった。安定した優しい風が、シルフ号の帆をふわりと満たす。
世界に、秩序ある風が戻ったのだ。
港に戻ったカイを、もはや「夢見」と呼ぶ者はいなかった。彼は伝説を現実にした英雄として、リナと共に迎えられた。
「ねえ、カイ」とリナが隣で笑う。
「あなたの次の夢見、私も付き合ってあげてもいいわよ」
カイは雲一つない青空を見上げた。空のクジラが教えてくれた、まだ誰も知らない風の楽譜が、彼の胸には確かに聞こえていた。冒険は、まだ始まったばかりだった。
空のクジラと風の楽譜
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