沈黙の星と始まりの詩

沈黙の星と始まりの詩

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カイの耳にはもう、星の歌が聞こえなかった。

かつて、夜空に瞬く星々はそれぞれが固有の音階を奏で、その旋律を聴き解くことで未来を読む「星詠み」がいた。カイはその見習いであり、師匠であるエリオットをして「百年の一人」と言わしめるほどの才能を持っていた。だが、半年前から、彼の世界は音を失った。完全な沈黙が、カイの心を深く蝕んでいた。

追い打ちをかけるように、世界そのものも病んでいた。「沈黙の病」――空から星が一つ、また一つと輝きを失っていく現象。収穫を司る〈麦穂の星〉が消えれば大地は枯れ、船乗りの道標であった〈羅針の星〉が消えれば海は荒れた。そして今、その病はカイの師匠エリオットの命をも蝕んでいる。老いた星詠みの体は、消えゆく星々の悲鳴をその身に受け、日に日に衰弱していた。

「カイ……『忘却の図書館』へ……」

薬草の匂いが満ちる薄暗い部屋で、師匠は掠れた声でそう呟いた。それが、カイが旅立ちを決意するのに十分な理由だった。失われた自分の力と、師匠の命を取り戻すために。手がかりは、その謎めいた言葉だけだった。

古地図の染みを頼りに旅を続けたカイは、世界の変貌を目の当たりにした。活気を失い、人々の瞳から光が消えた街。かつて豊かな森だった場所は、灰色の枯れ木が墓標のように立ち並ぶ荒野と化していた。星の沈黙は、人々の心から希望を奪い、世界から彩りを消し去っていた。誰もが空を見上げることをやめ、うつむいて歩いている。その光景が、カイの胸に冷たい棘のように突き刺さった。

幾多の困難の果て、世界の果てと呼ばれる霧深き谷間に、カイは目的の場所を見つけた。天を突くようにそびえ立つ、黒曜石の巨大な塔。それが「忘却の図書館」だった。重い扉を押し開けると、舞い上がった埃が月光に照らされてきらめく。そこは、人々から忘れ去られた物語、神話、そして知識が、無数の書物となって眠る静寂の聖域だった。

図書館の最奥、ステンドグラスから差し込む月光が円形の床を照らすホールで、カイは一人の少女と出会った。影の中から滲み出るように現れた、銀色の髪を持つ少女。彼女はリラと名乗り、この図書館の最後の司書だと言った。

「星が消えているのではありません」

リラの声は、凪いだ湖面のように静かだった。

「人々が、星の物語を忘れたのです」

彼女が語った真実は、カイの思考を根底から覆した。星々とは、人々の信仰や記憶を糧として輝く存在。科学という新しい光が古い信仰の影を薄れさせ、人々が夜空に祈りを捧げ、神話を語り継ぐことをやめた時、星は糧を失い、空から姿を消し始めたのだという。

「『沈黙の病』は、星々と深く繋がる星詠みだからこそ強く表れる症状。あなたの師匠が苦しんでいるのは、世界から失われゆく星々の断末魔そのものなのです」

カイは愕然とした。自分の無力さを呪い、ただ星の声が戻ることだけを願っていた。だが、原因は自分の中ではなく、世界そのものにあったのだ。絶望がカイの心を支配しかけた、その時。

「それを止める方法が、一つだけあります」とリラは続けた。「新しい星の物語を紡ぎ、空に捧げるのです。忘れられた古い歌ではなく、これからを生きる人々のための、新しい希望の詩を」

それは、世界の理を書き換えるに等しい行為。成功の保証などどこにもない、あまりにも途方もない賭けだった。だが、カイの瞳に迷いはなかった。彼の脳裏に、師匠の優しい顔と、旅の道中で見た人々の虚ろな瞳が浮かんでいた。

カイは頷いた。聞こえなくなった星の歌に耳を澄ますのではない。自らの内なる声に、心の旋律に、耳を傾けるのだ。

彼は語り始めた。師匠への感謝を。失われた故郷への愛を。旅で出会った人々のささやかな願いを。絶望の淵で見た、それでも消えなかった一筋の希望を。それは未来を予言する歌ではなかった。自分たちの手で未来を創り出すのだという、力強い意志を込めた「始まりの詩」だった。

リラがカイの言葉を古びた羊皮紙に書き留め、共に天窓の下で祈りを捧げる。すると、カイが紡いだ物語が光の粒子となり、天窓を突き抜けて夜空へと昇っていった。

その瞬間、世界から音が消えた。完全な静寂の後、空が割れるほどの閃光がほとばしった。図書館の天窓から空を見上げると、消えかかっていた星々が力強い輝きを取り戻し、その中心に、今まで誰も見たことのない、ひときわ明るい新しい星が生まれていた。夜明けの光のように、優しく世界を照らす黄金色の星だった。

故郷に戻ったカイを待っていたのは、奇跡的に回復した師匠エリオットの笑顔だった。街の人々は空を見上げ、あの新しい星を指さしては、希望に満ちた顔で未来を語り合っていた。

カイの耳に、もう星の歌は聞こえない。だが、不思議と寂しくはなかった。彼は夜空を見上げた。そこに輝くのは、自分が紡いだ始まりの星。

彼はもう、未来を告げる者ではない。仲間と共に、未来を創る者になったのだ。カイは新しい星の光を浴びながら、静かに微笑んだ。

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