記憶の残響、沈黙の霧

記憶の残響、沈黙の霧

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第一章 灰色の揺りかご

リラの住む村は、忘却と共にあった。

村の周囲に広がる豊かな穀倉地帯も、穏やかな気候も、すべては「記憶術」と呼ばれる魔法の賜物だった。人々は天候を操り、土地を肥やすために、自らの記憶を対価として捧げる。昨日の夕食の味、幼い頃に歌った子守唄、初恋の甘酸っぱさ。些細な記憶ほど、魔法の力は弱い。そして、大きな奇跡を望むなら、魂に刻まれた最も大切な記憶を差し出さねばならなかった。

リラは、その魔法を心の底から憎んでいた。

彼女の記憶から、母の笑顔は抜け落ちている。十年前、村を大干ばつが襲った時、母は村で最も腕の立つ記憶術師として、禁忌とされた大魔法を執り行った。恵みの雨は三日三晩降り注ぎ、村は救われた。だが、代償として母は、たった一人の娘であるリラに関する一切の記憶を失った。今、母はリラを、見知らぬ娘として、ただ親切に遇するだけだ。その優しい眼差しが、リラの胸を鋭く抉る。

その日、村に異変が起きた。音もなく、匂いもなく、灰色の霧が湧き始めたのだ。それは「沈黙の霧」と呼ばれた。霧に触れた草木は生命の色を失って枯れ果て、人々は言いようのない倦怠感に襲われ、次第に活力を失っていった。まるで、世界から感情というものが抜き取られていくような、不気味な現象だった。

長老たちは、再び大魔法で霧を払うしかないと結論づけた。だが、誰もが進んで記憶を捧げようとはしなかった。この霧がもたらす虚無感は、大切な記憶を失う痛みに酷似していたからだ。

「このままでは、村は記憶を失う前に、生きる意志を失ってしまう」

祖母のかすれた声が、リラの耳に突き刺さる。魔法を憎みながらも、衰弱していく祖母や村人たちの姿に、彼女の心は引き裂かれそうだった。何か、魔法以外の方法があるはずだ。その一心で、リラは村の禁書庫へと足を向けた。埃っぽい羊皮紙の匂いが満ちる中、彼女は震える指で古文書をめくった。そして、一つの記述に目を奪われる。

『失われし記憶は虚無には還らず。声なき声となり、忘却の谷に集う。それは世界の揺りかごか、あるいは墓標か』

忘却の谷。その言葉を見た瞬間、リラの全身に鳥肌が立った。この沈黙の霧は、自然現象などではない。過去、この村の人々が捧げてきた、無数の喜び、悲しみ、愛、後悔。それら感情の抜け殻が、実体を持って世界を侵食し始めているのではないか。リラは、震える唇を固く結んだ。もしそうなら、そこへ行けば、母が失った記憶の欠片も見つけられるかもしれない。淡い、しかし抗いがたい希望が、彼女の心を突き動かした。

第二章 声なき声の道標

リラの決意は、祖母が霧の力に抗えず床に伏したことで、揺るぎないものとなった。祖母の寝顔は、まるで遠い昔の記憶を夢見ているかのように穏やかだったが、その呼吸は浅く、弱々しかった。リラは、祖母のしわくれた手を握りしめ、夜の闇に紛れて村を出た。

忘却の谷への道は、古地図に曖昧な形で記されているだけだった。霧は村の外にも広がり、リラの行く手を阻む。霧の中を歩くと、思考が鈍り、足取りが重くなった。大切な思い出が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、少しずつ希薄になっていく感覚。リラは、母との記憶がない自分だからこそ、この霧に耐えられるのかもしれないと、皮肉に思った。

彼女は、亡き父から教わった星の位置を頼りに、ひたすら北を目指した。道中、彼女は奇妙な現象に気づく。霧が濃い場所ほど、風に乗って微かな囁きが聞こえるのだ。それは言葉にならない、感情の残響。歓喜のこだま、悲嘆の吐息、愛情の旋律。それらは、かつて誰かの心にあった記憶の欠片だった。リラは、その「声なき声」を道標にした。声がより強く、より多く聞こえる方角へ。それが、忘却の谷への道だと確信していた。

何日も歩き続けた。食料は尽きかけ、体は疲労の限界に達していた。ある夜、焚き火の前でうとうとしていると、不意に温かい声が聞こえた。

『リラ、私の可愛い子』

はっとして顔を上げる。そこに人影はなかった。だが、その声は間違いなく、彼女が心のどこかでずっと求め続けていた母の声だった。それは霧が作り出した幻聴かもしれない。それでも、リラの乾いた心に温かい雫が落ちたようだった。涙が溢れた。母は、自分を忘れたわけではない。記憶は消えても、魂のどこかでは繋がっている。そう信じたかった。

その声に導かれるように、リラは最後の力を振り絞って歩を進めた。やがて、視界が開け、巨大な谷がその姿を現した。谷底からは、灰色の霧が間欠泉のように噴き上がり、空を覆っている。そして、無数の声なき声が、ひとつの巨大な合唱となってリラの鼓膜を震わせた。ここが、忘却の谷。世界の記憶が流れ着く、終着点。

第三章 忘却の真実

谷底へと下りていくリラの足は、恐怖よりも使命感に押されていた。そこは、色彩のない世界だった。渦巻く霧の中、無数の光の粒子が漂っている。一つ一つが、誰かが手放した記憶の欠片。リラは、ある粒子にそっと手を伸ばした。触れた瞬間、見知らぬ老人の人生が脳裏に流れ込んできた。妻との出会い、子供の誕生、孫の成長。そして、村を救うためにその全てを魔法の対価として捧げた、最後の日の苦悩。リラは、胸が張り裂けそうな痛みを感じながら、そっと手を離した。

谷の中心には、霧の発生源と思しき、巨大な水晶の塊が脈打つように明滅していた。あれが、記憶の集合体。リラは覚悟を決め、その「記憶の結晶体」へと近づいた。表面は氷のように冷たいが、内部からは途方もないエネルギーが感じられる。

彼女が結晶体に触れた、その瞬間だった。

世界が反転した。リラの意識は、時間の奔流を遡り、宇宙の創生へと引きずり込まれた。彼女が見たのは、神話にも語られない真実の光景だった。

この世界は、一人の始祖の神によって創造された。だが、神はあまりに強大な力と、無限の記憶を持つが故に、その存在は常に不安定だった。喜びと悲しみ、創造と破壊、愛と憎しみ。相反する感情の奔流は、若き世界そのものを引き裂きかねなかった。そこで神は、自らを安定させるために、一つの決断を下す。自身の記憶と感情の大部分を切り離し、この谷の底に封印したのだ。それが、この記憶の結晶体の正体だった。

そして、人々が魔法で捧げる記憶は、この封印が解かれぬよう、結晶体の力を抑え込むための「楔」として利用されていた。村の繁栄は、世界の破滅と隣り合わせの、危うい均衡の上に成り立っていたのだ。

愕然とするリラに、最後の真実が突きつけられる。それは、彼女の母親に関する記憶だった。

十年前、母は気づいていた。長年の魔法行使により、捧げられる記憶の質が落ち、封印の力が弱まっていることに。沈黙の霧の兆候は、その頃から現れ始めていた。母が行った大魔法の本当の目的は、干ばつから村を救うことだけではなかった。彼女は、自らの持つ最も純粋で、最も幸福な記憶――愛する娘リラと過ごした日々の全て――を、封印を強化するための最も強力な「楔」として、この結晶体に捧げたのだ。

母はリラを忘れたのではなかった。リラを、そしてこの世界を守るために、リラとの思い出を犠牲にしたのだ。母がリラに向ける眼差しは、記憶を失った者のそれではなく、最も大切な宝物を手放した者の、愛おしさと痛みに満ちた眼差しだった。

「ああ……お母さん……!」

リラの頬を、熱い涙が止めどなく伝った。長年の憎しみと誤解が氷解し、その場所を、母親の計り知れない愛への感謝と、自分の無知への後悔が満たした。彼女はもう、魔法を恐れる少女ではなかった。

第四章 愛を記憶する魔法

リラは、涙を拭い、脈打つ結晶体をまっすぐに見据えた。母親が守ろうとした世界。自分が生きるこの世界。今度は、自分が守る番だ。

しかし、何を犠牲にする?自分にとって最も大切な記憶は、今この瞬間に知った、母の愛の真実だ。これを捧げてしまえば、自分は何のために戦うのか分からなくなってしまう。忘却の魔法では駄目だ。それでは、悲しみの連鎖を未来へ繋ぐだけだ。

リラは、目を閉じて深く呼吸をした。そして、これまで誰も考えつかなかった、全く新しい魔法を紡ぎ始めた。それは、何かを「忘れる」ための術ではなく、何かを「記憶する」ための術だった。

彼女は歌い始めた。それは特定の歌詞を持つ歌ではなかった。彼女の魂そのものの旋律だった。母への感謝を、祖母への愛情を、村人たちへの想いを、そして、この世界への慈しみを。その全てを、純粋な感情の波動として結晶体に注ぎ込んでいく。

「忘れないで。誰かが誰かを愛したことを。喜びも、悲しみも、全てがこの世界を作った大切な記憶だということを」

リラの魔法は、バラバラだった記憶の欠片たちに語りかけた。それは、失われた記憶を楔として封じ込めるのではなく、その一つ一つを尊重し、調和させる力だった。荒れ狂っていた結晶体の脈動が、次第に穏やかになっていく。声なき声の悲鳴は鎮まり、谷には柔らかな光が満ち始めた。沈黙の霧が、光の粒子となって空へ昇っていく。

世界は救われた。だが、リラは、その魔法がもたらす代償を悟っていた。彼女が紡いだのは、世界の調和を取り戻す代わりに、調和をもたらした者――「リラ」という存在の因果律そのものを、世界から消し去る魔法だったのだ。

気がつくと、リラは村の入り口に立っていた。霧は跡形もなく晴れ、村には活気が戻っている。畑仕事をする男たちの笑い声、子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。彼女は走り出した。祖母の家へ。

「ごめんください」

ドアを開けると、元気になった祖母が「あら、旅の方かい?」と人の好い笑みを浮かべた。リラは言葉に詰まった。祖母の瞳には、孫娘への愛情ではなく、見知らぬ旅人への親切心だけが映っていた。

彼女は、母のいる畑へ向かった。母は、穏やかな顔で土をいじっていた。リラに気づくと、立ち上がって微笑んだ。

「どこかへ行く途中ですの?良かったら、お水を一杯いかが?」

その声は、かつて幻聴で聞いた温かい声と同じだった。だが、そこに「リラ」という名前が乗ることは、もう永遠にない。

寂しさがなかったと言えば嘘になる。胸にぽっかりと穴が空いたようだった。だが、不思議と後悔はなかった。目の前には、母が、そして自分が守った、愛おしい日常が広がっている。皆が、何も知らずに笑っている。それで良かった。

リラは、母に深く一礼すると、背を向けた。彼女の存在は、誰の記憶にも残らない。それでも、彼女が成し遂げた愛の行為は、この世界の穏やかな風の中に、木々の葉擦れの中に、人々の笑顔の中に、確かに息づいている。

誰にも知られず世界を救った少女は、夕日に染まる道を、静かな誇りを胸に、新たな一歩を踏み出した。その足跡は、まるで初めからそこになかったかのように、風に吹かれて消えていった。

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