空の墓標、影の礎
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空の墓標、影の礎

第一章 影が囁く不協和音

俺の思考は、時折、世界に染み出す。

例えば、窓辺に佇み、空を舞う鳥の孤独を想えば、その漆黒の翼が一瞬だけ壁に影として描かれ、次の瞬間には陽光に溶けて消える。そんな些細な具現化が、俺、カイの日常だった。思考が『影』として現実を侵食する。それは呪いであり、同時に、この偽りに満ちた世界で唯一の真実だった。

代償は、俺自身の輪郭。影を生み出すたびに、俺の存在は水彩画のように滲み、希薄になっていく。鏡に映る自分の顔が、時々、靄のかかった風景に見えることがある。

俺たちが住む都市「アイトヘイム」は、遥か高空に浮かんでいる。その高度は、ここに住まう人々の『希望』の総量によって支えられている、と誰もが信じていた。だから、この街は希望で満ち溢れている。すれ違う人々は誰もが微笑みを浮かべ、「素晴らしい一日だ」「未来は輝かしい」と、澄んだ声で語り合う。しかし、その笑顔は薄いガラスのように硬質で、その声は風の音にかき消されるほどに軽い。張り詰めた虚構の匂いが、都市の隅々にまで染み付いていた。

ある日の午後、広場のベンチに腰掛けていると、ふと「もし、この都市が墜ちたら」という、禁忌の思考が頭をよぎった。その瞬間、足元の石畳に、巨大な亀裂の『影』が走った。それは一瞬で消え失せたが、直後、微かで、しかし確かな振動が足の裏から這い上がってきた。ゴトン、と世界の重心がわずかに沈む音。

俺は顔を上げた。周囲の人々は、相変わらず完璧な笑顔で希望を語り合っている。誰一人として、この不吉な揺らぎに気づいた様子はなかった。彼らの瞳は、遥か上空の、どこにも存在しない一点を見つめているかのようだった。

第二章 無表情の司書と無色のインク

都市の異変の源を探るため、俺はアイトヘイムの中枢、中央図書館へと足を運んだ。大理石の柱が立ち並ぶ荘厳な空間。古紙と埃の匂いが、ここでは許された唯一の真実であるかのように、空気に重く沈んでいた。

ここには『希望の書』が保管されている。都市の浮力を支える希望を記すための、聖なる書物だ。人々は列をなし、順番にその分厚い本の前へと進み出る。彼らは無色のインクが満たされたペンを手に取り、真っ白なページに、一心不乱に何かを書き込んでいく。

「私たちの未来は、永遠に安泰です」

「愛する家族と、いつまでも幸せに」

彼らが書き終えたページには、何も見えない。しかし、彼らは深く満ち足りた表情で頷き、その場を去っていく。そして俺は気づいていた。希望を書き終えた者の顔から、微かに『表情』という名の色彩が抜け落ちていくことを。

「何か、お探しですか」

冷ややかな声に振り返ると、そこに一人の司書が立っていた。エリアと名乗った彼女は、彫像のように整った顔立ちをしていたが、その瞳は静かな湖面のように何の感情も映していなかった。完全な、無表情。彼女こそ、この図書館で最も多くの希望を捧げた者なのかもしれない。

俺は『希望の書』に近づいた。手をかざすと、俺の指先から影が伸びる。そして、ページの上に、俺の思考が黒々と浮かび上がった。

『この都市は、沈んでいる』

影で綴られた絶望の言葉。それを見たエリアの瞳が、ほんのわずかに、本当にごくわずかに揺らいだのを、俺は見逃さなかった。

第三章 偽りの天蓋

都市は、確実に降下していた。

街を歩けば、その予兆はそこかしこに影として現れた。「崩れる壁」を想像すれば建物の側面に亀裂の影が走り、「ひび割れる地面」を思えば足元に奈落の影が口を開く。そのたびに、俺の指先は陽光に透け、存在がまた一片、世界から剥がれ落ちていく感覚に襲われた。

人々は変わらない。街角のスピーカーからは、都市管理AIの合成音声が、抑揚なく希望を謳い続けている。「希望こそが我らを支える光。さあ、皆様も希望を捧げ、アイトヘイムの永劫の浮揚にご協力ください」。その声は、人々の耳を通り抜け、ただ空気に溶けていくだけだった。まるで、誰も聞いていないかのように。

なぜ、誰も気づかない?

いや、違う。これは『気づかない』のではない。『気づけない』のだ。

彼らの瞳は虚ろで、足取りはどこかおぼつかない。彼らは希望を語りながら、その実、何も感じていない。喜びも、悲しみも、そして都市が沈みつつあるという恐怖さえも。彼らは希望という名の麻薬によって、現実から乖離させられているのだ。

この偽りの天蓋を突き破らなければならない。だが、どうやって? 俺の影だけが真実を映し出せても、それを誰にも伝えられない。俺の声は、彼らの耳には届かない。俺の存在そのものが、消えかかっているのだから。

第四章 希望という名の呪い

その夜、閉館後の図書館で、エリアが俺を待っていた。彼女は黙って俺を禁書庫へと導いた。そこは、カビと絶望が混じり合ったような濃密な匂いに満ちていた。天井までうず高く積まれた『希望の書』。その全てが、人々から搾り取られた感情の墓標に見えた。

「あなたの影は、真実を記します」

エリアは、俺が昼間に影で記したページを開き、そう呟いた。その声には、初めて微かな熱が宿っていた。

彼女が語った真実は、俺の想像を遥かに超えていた。アイトヘイムは希望をエネルギーに浮いているのではない。都市そのものが、巨大な生命体のように人々の『希望』を捕食し、その生命力で自らを維持していたのだ。『希望の書』は、そのための祭壇だった。人々は希望を書き記すことで、魂そのものを都市に吸い上げられ、感情を失った抜け殻になっていく。

「都市の降下は、希望が失われたからではありません」

エリアの指が、書庫の壁に刻まれた古い紋様をなぞる。

「逆です。肥大しすぎた希望の重みに、都市が耐えきれなくなっているのです。人々が何も感じないのは、もはや感じるべき魂が残っていないから。都市は、最後の最後まで人々から希望を搾り取るために、降下の事実そのものを認識できなくさせている。希望とは、この都市を維持するための……呪いなのです」

その言葉が、雷のように俺の全身を貫いた。希望が世界を支えているのではない。希望が、世界を歪ませ、蝕んでいた。そして、その重みに耐えきれず、今、全てが崩壊しようとしている。

第五章 影への転生

ゴゴゴゴ……という地鳴りのような音が、都市の底から響き渡る。降下は最終段階に入っていた。建物が軋み、ガラスが悲鳴を上げる。しかし、街路に立つ人々は、無表情のまま空を見上げるだけだった。何が起きているのかを理解する感情さえ、彼らには残されていなかった。

エリアが俺を見る。その瞳には、諦めと、そして僅かな祈りのような色が浮かんでいた。

俺は決断した。この歪んだ連鎖を、俺が終わらせる。

禁書庫の中心に立つ。俺は、俺の存在の全てを賭けて、この都市が溜め込んだ全ての『希望』を思考する。光を、未来を、幸福を、愛を。ありとあらゆる正の感情を、俺という器に注ぎ込む。

「カイ……!」

エリアの悲鳴のような声が遠のく。俺の身体は急速に輪郭を失い、足元から黒いインクのように溶けていく。それはもはや俺個人の影ではない。都市の、世界の、ありとあらゆる希望を飲み込むための、巨大な『影』そのものへの転生だった。

甘美な光が奔流となって流れ込んでくる。同時に、魂が引き裂かれるような激痛が走る。俺の影は禁書庫を満たし、山積みの『希望の書』のページを、一頁、また一頁と黒く染め上げていく。無色のインクで綴られた偽りの言葉が、俺の絶望に抱かれて沈黙していく。

もう自分の指も、腕も、顔さえも感じない。俺はただ、世界の希望を喰らう、巨大な虚無と化していた。

第六章 大地の鎮魂歌

最後の希望のひとかけらを飲み干した瞬間、完全な静寂が訪れた。

アイトヘイムは、ついに大地に到達した。しかし、それは破壊的な激突ではなかった。長い旅を終えた船が港に錨を下ろすように、驚くほど静かに、ゆっくりと大地に根を下ろしたのだ。衝撃はなかった。ただ、世界が本来あるべき場所へと還ったかのような、深い安堵感だけがあった。

希望という名の呪縛から解き放たれた人々が、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に、初めて困惑の色が浮かぶ。不安、恐怖、そして絶望。彼らは初めて、ありのままの感情と向き合い、その冷たさに震え始めた。エリアの頬を、一筋の涙が静かに伝っていく。それは、この世界で最初に生まれた、本物の感情の雫だった。

カイの姿は、もうどこにもない。

彼は、都市が蓄えた全ての希望をその身に吸収し、この世界の新たな『基盤』となった。もはや誰も彼を認識することはできない。しかし、人々が初めて踏みしめる大地の確かな感触、吹き抜ける風が運ぶ湿った土の匂い、遠くで聞こえる名も知らぬ虫の声。その全てが、彼の存在の証だった。彼は、この世界の『重さ』そのものになったのだ。

第七章 礎に咲く

幾年かの歳月が流れた。

かつて空に浮かんでいた都市は、今や大地の一部となり、その傷だらけの建物の隙間から、逞しい草花が芽吹いていた。人々は希望のない世界で、新たな生き方を模索していた。そこには偽りの笑顔はない。だが、互いに肩を寄せ合い、乏しい食料を分かち合い、小さな喜びと確かな悲しみを胸に刻みながら生きる、確かな営みがあった。

エリアは、かつて中央図書館があった場所の跡地で、小さな畑を耕していた。彼女はもう空を見上げることはない。ただ、足元の土にそっと手を触れる。そこにかすかな温もりを感じながら、誰に言うでもなく、静かに呟いた。

「ありがとう、カイ。あなたの重さが、私たちをここに繋ぎとめてくれている」

その口元に浮かんだのは、微かな、本当に微かな笑みだった。それは希望ではない。諦念と、感謝と、そして静かな覚悟に満ちた、この世界で最も美しい、本物の表情だった。


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