第一章 静寂に響く依頼
リオンの仕事場は、静寂に満ちていた。壁を埋める硝子の小瓶には、様々な色合いの光の粒が眠っている。ある瓶は朝焼けのような淡い橙色、またある瓶は真夜中の湖面を思わせる深い藍色。これらは人々から預かった「記憶の欠片」だ。リオンは「音紡ぎ師」。音という概念が遠い昔に失われたこの「静寂の都」で、唯一それに似たものを創り出せる存在だった。
彼は小瓶の一つを手に取り、そっと蓋を開ける。中から零れた光の粒を、工房の中央に据えられた水晶の弦楽器―――静鳴琴(せいめいきん)―――にかざす。光が弦に触れると、それは震え、この世界ではありえないはずの奇跡が起こる。澄んだ、それでいてどこか儚い旋律が、空気を揺らすのだ。それは、老婆が亡き夫と初めて手を取り合った、遠い夏の日の記憶から紡がれた「喜び」の音だった。
しかし、リオン自身の内側は、彼の創り出す音とは裏腹に、凪いだ水面のように静かだった。彼は他人の感情を音に変換することはできても、自分の感情から音を生み出すことはできなかった。喜びも、悲しみも、彼の心では色褪せた絵画のように、ただそこにあるだけ。その事実が、彼の胸に小さな空洞を作り続けていた。
その日、工房の扉が厳かに叩かれた。訪れたのは、王家の紋章をつけた使者だった。
「音紡ぎ師リオン殿。至急、ご足労願いたい。王女殿下がお呼びです」
王女。この都の象徴でありながら、数年前から病に伏し、誰とも言葉を交わさなくなったと噂の少女。リオンは眉をひそめた。王族が自分のような場末の職人に何の用があるというのか。
王宮は、彼の工房とは比べ物にならない壮麗な静寂に包まれていた。大理石の床は足音すら吸収してしまうかのようだ。通された一室で、リオンは王女と対面した。天蓋付きのベッドに横たわる少女は、人形のように整った顔立ちをしていたが、その瞳は虚空のどこか一点を見つめているだけだった。生気というものが感じられない。
傍らに立つ宰相が、重々しく口を開いた。
「王女殿下は、古文書に記された伝説の『始まりの歌』をお望みだ。世界から音が失われる以前に存在したという、万物の根源たる歌を」
「伝説、ですか。そのようなもの、実在するとお思いで?」リオンは冷ややかに返した。
「殿下は、それを聞けばお心が癒されると、そう信じておられる。我々には、そのお心を慰めることしかできんのだ。音紡ぎ師よ。もし、そなたがその歌を見つけ出し、この場で奏でることができたなら、望むだけの富を与えよう」
富には興味がなかった。だが、リオンの心を微かに揺さぶったものがあった。「始まりの歌」。もしそれが本当に存在するのなら、この世界の静寂の謎を解き明かし、ひいては自分自身の空虚を満たす鍵になるかもしれない。
リオンは、感情の読めない瞳でじっと王女を見つめた。彼女の虚ろな眼差しの中に、何か言いようのない渇望のようなものを感じ取った。
「……分かりました。お引き受けしましょう」
その瞬間、王女の指がぴくりと動いたのを、リオンは見逃さなかった。それは、乾いた大地に落ちた、最初の雨粒のような、ほんの僅かな変化だった。
第二章 記憶の欠片を辿る旅
「始まりの歌」を探す旅は、古文書の埃っぽい匂いの中から始まった。リオンは王宮の書庫に籠もり、黄ばんだ羊皮紙の束をめくり続けた。ほとんどの記述は曖昧で、神話の域を出なかったが、やがて彼はある共通点に気づく。「歌は、人々の最も深い感情が結晶化したものである」―――そう記した文献が、複数存在したのだ。
リオンは都を出た。馬車に揺られ、風の音も鳥の声も聞こえない静かな街道を進む。彼は人々の記憶を訪ね歩いた。村の長老からは、五穀豊穣を祝う祭りの「歓喜」の記憶を。若い母親からは、生まれたばかりの我が子を抱いた「慈愛」の記憶を。老いた猟師からは、好敵手だった狼との最後の戦いの「畏敬」の記憶を。
彼はそれらの記憶を預かり、光の粒として小瓶に収めた。夜、野営の火を見つめながら、静鳴琴でその音を紡ぐ。歓喜の音は弾ける星屑のようにきらびやかで、慈愛の音は柔らかな毛布のように温かい。畏敬の音は、低く、厳かに響いた。
他人の感情を音にするたび、その残滓がリオンの心に染み込んでいくようだった。今まで感じたことのない微かな心の震え。それは、他人の人生を追体験することで得られる、借り物の感情に過ぎない。それでも、彼の内の空洞を少しずつ満たしていく感覚があった。
旅の途中で、彼は「忘れられた鐘楼」の伝説を耳にする。世界の果てにあるその鐘楼に、「始まりの歌」は封印されているのだという。歌の力が強大すぎるため、かつての賢者たちが世界を守るために眠らせたのだ、と。
リオンの胸に、確信に近い期待が膨らんだ。この歌を解放すれば、世界に音が戻る。人々は再び笑い声や話し声を、風や川のせせらぎを聞くことができるようになる。そして自分も、自分自身の感情で、自分だけの音を紡げるようになるかもしれない。
彼は鐘楼を目指した。荒れ果てた山道を越え、霧深い谷を渡り、ついに雲を貫くようにそびえ立つ、古びた石造りの塔の麓にたどり着いた。
塔の周囲には、奇妙な静寂が漂っていた。それは都の静寂とは違う、何か巨大な力が無理やり音を押し殺しているような、張り詰めた沈黙だった。リオンは覚悟を決め、重い扉に手をかけた。
第三章 悲しみの歌の真実
鐘楼の内部は、想像を絶する光景だった。ドーム状の高い天井から、数え切れないほどの水晶の風鈴が吊り下げられていた。風もないのに、それらは全て微かに揺らめいているように見える。だが、音はしない。まるで世界中の沈黙が、この場所に凝縮されているかのようだった。
中央には祭壇があり、そこに静鳴琴を置くための窪みがあった。リオンは導かれるように琴を据え、旅で集めた人々の記憶―――歓喜、慈愛、畏敬、希望―――全ての光を解き放った。光は奔流となって祭壇に吸い込まれ、鐘楼全体が眩い光に包まれる。
封印が解かれる。その瞬間を、リオンは固唾を飲んで見守った。
しかし、鳴り響くはずの壮大な歌は、訪れなかった。
代わりに、彼の目の前に、王宮のベッドにいるはずの王女の姿が、陽炎のように現れた。彼女は虚ろではなく、深く、澄んだ瞳でリオンを見つめていた。そして、言葉を発することなく、その想いが直接リオンの心へと流れ込んできた。
『音紡ぎ師よ。あなたが解き放とうとしているものが、何なのか分かっていますか』
王女の思念が、リオンに真実を見せる。
遥かな昔、この世界は音に満ちていた。しかし、それは美しい音ばかりではなかった。戦争、飢餓、疫病。人々はあまりにも多くのものを失い、世界は耐えがたいほどの「悲しみ」に覆われた。人々の嘆き、慟哭、絶望が共鳴し合い、一つの巨大な歌―――「悲しみの歌」―――となった。その歌は人々の心を蝕み、生きる気力さえ奪っていく。
賢者たちは、世界を救うために苦渋の決断を下した。人々の心から「悲しみ」という感情そのものを抜き取り、この鐘楼に歌として封印したのだ。
だが、その代償は大きかった。悲しみを失ったことで、人々は他の感情の深い部分も失ってしまった。喜びは刹那的になり、愛は希薄になった。感情の振れ幅を失った世界から、次第に全ての音が消えていった。風の音も、水の音も、人々の感情が世界に響かせる反響だったからだ。
『始まりの歌は、祝福の歌ではありません。世界の始まりの、大いなる悲しみの歌なのです』
リオンは愕然とした。全身の血が凍りつくような衝撃。彼が追い求めてきた希望は、世界を破滅させかねない絶望の塊だったのだ。
王女は、この封印を守り続けてきた巫女の末裔だった。封印が弱まるにつれ、漏れ出した悲しみが彼女の心身を蝕んでいた。彼女がリオンを呼んだのは、歌を解放させるためではない。封印を強化できる力を持つ彼に、世界の未来を託すためだった。このまま静寂の世界を維持するか、それとも―――。
『あなたはどうしますか? 人々に、忘れていた悲しみを思い出させますか?』
リオンの価値観が、根底から覆された。自分の空虚さも、世界の沈黙も、全ては人々を悲しみから守るための、苦しい選択の結果だった。平穏だが色褪せた世界。悲しみに満ちているが、豊かな感情のある世界。どちらが、本当の幸福なのか。彼は答えを出せずにいた。
第四章 生まれ変わる世界の産声
リオンは、鐘楼の静寂の中で、深く目を閉じた。彼の脳裏に、旅で出会った人々の顔が浮かぶ。亡き夫を思い出して微笑んだ老婆。我が子を抱きしめる母親の、絶対的な愛情。彼らがリオンに託した記憶の欠片は、どれも温かく、鮮やかだった。
それらは、悲しみを知らない、不完全な感情だったのだろうか。
いや、違う。リオンは気づいた。老婆の微笑みの奥には夫を失った寂しさが、母親の愛情の陰にはこの子を守り抜かねばという切実な不安が、確かに存在していた。悲しみから目を逸らしていても、その痕跡は人々の心に深く刻まれている。
悲しみを恐れるあまり、我々は本当の意味で喜ぶことも、愛することも忘れてしまったのではないか。
リオンは、自分の内なる空洞を見つめた。この空っぽの場所に、初めて自分自身の感情を満たしたい。たとえそれが、胸を張り裂くような悲しみの音であったとしても。
『私は、選びます』
リオンは目を開き、王女の思念に強く応えた。
『悲しみを恐れていては、本当の喜びは知れない。失う痛みを知っているからこそ、得る喜びは輝く。私は、この世界に全ての感情を取り戻したい』
彼は再び静鳴琴に向き合った。しかし、今度はただ封印を解くのではない。音紡ぎ師としての、彼の生涯をかけた仕事が始まった。
彼はまず、鐘楼に渦巻く巨大な「悲しみの歌」を、静鳴琴へと導いた。それは、凍てつくような孤独と、底なしの絶望を孕んだ、暗く重い旋律だった。
次に、彼は旅で集めた全ての光を、その旋律に織り込んでいく。老婆の「懐かしい喜び」を、母親の「無償の愛」を、猟師の「誇り高き畏敬」を。
暗黒の旋律に、いくつもの光の糸が差し込まれる。悲しみは消えない。だが、その隣に、温かな希望が寄り添う。絶望の淵に、そっと手を差し伸べる優しさが加わる。それはもはや、単なる悲しみの歌ではなかった。悲しみを乗り越え、それでもなお前を向こうとする、生命そのものの歌へと変容していく。
リオンが最後の和音を紡ぎ終えた瞬間、鐘楼の全ての風鈴が一斉に鳴り響いた。
それは、世界の産声だった。
歌は光の波となって世界中に広がっていく。リオンの足元から、大地が微かに震える音がした。塔の隙間から吹き込む風が、ひゅう、と頬を撫でる音。遠くで、ぽつり、ぽつりと雨が降り始める音。
そして、人々の声が聞こえた。初めは、忘れていた悲しみを思い出しての嗚咽。やがて、誰かを慰める優しい声。そして、困難を共に乗り越えようと誓い合う、力強い声。
リオンは、自分の頬に温かいものが伝うのを感じた。涙だった。初めて流す、自分自身の涙。そのしょっぱい味と共に、彼の胸の奥深くから、か細く、しかし確かな一つの「音」が生まれるのを感じた。それは、悲しみと、安堵と、そして未来への希望が入り混じった、複雑で美しい音色だった。
都に戻ると、街は喧騒に満ちていた。人々の笑い声、泣き声、怒鳴り声。様々な音が混じり合う不協和音。だが、それは命が響かせている、何よりも愛おしい音楽だった。
王宮を訪れると、王女は穏やかな寝息を立てていた。その頬には、一筋の涙の跡が乾いていた。
リオンは工房に戻り、窓を開ける。生まれ変わった世界の音が、部屋を満たしていく。彼はもう、他人の記憶を借りずとも、音を紡ぐことができる。
彼は静かに目を閉じ、自分の内側から湧き上がる、最初の歌を口ずさんだ。それはまだ誰にも聞かせたことのない、彼自身の物語の始まりを告げる、小さな、小さな旋律だった。