忘却のアルペジオ

忘却のアルペジオ

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第一章 清めの鐘と忘れない少年

灰色の石畳が広がる街、アムネジアでは、人々は毎朝、祝福と共に目覚める。街の中央に聳える白亜の鐘楼から響き渡る「清めの鐘」の音が、夜の間に溜まった些細な悲しみや、取るに足らない諍いの記憶を、朝靄のように綺麗に洗い流してくれるからだ。人々はそれを「忘却の祝福」と呼び、憎しみの連鎖なき平穏な日々に感謝していた。昨日隣人と交わした口論も、恋人に告げられた些細な嘘も、鐘の音一つで過去になる。誰もが真っさらな心で、新しい一日を始めるのだ。

しかし、僕、リオンにはその祝福が届かなかった。

古い遺物を修復する工房の片隅で、僕は今日も頭を抱えていた。昨日、依頼主の老婆が零した、亡き夫との思い出話。彼女は今朝、鐘の音と共にその記憶の大部分を忘れ、穏やかな顔で修理された懐中時計を受け取っていった。だが僕の中には、彼女の涙のしょっぱさや、震える声の温もりが、まるで昨日のことのように焼き付いている。いや、昨日だけではない。三日前に市場で見た少女の屈託のない笑顔も、一週間前に読んだ本の胸躍る一節も、数年前に父に叱られた時の悔しさも、全てが色褪せることなく僕の中に積み重なっていく。

アムネジアにおいて、忘れることができないのは一種の病であり、異端だった。僕はその「病」を隠し、物覚えが良い職人として日々をやり過ごしていた。細かい部品の配置や複雑な修理工程を記憶する能力は、この仕事において唯一の救いだった。

そんなある日、工房の扉が軋んだ音を立てて開いた。入ってきたのは、フードを目深に被った人物だった。その人物がカウンターに置いたのは、螺鈿細工が施された美しいオルゴール。しかし、その表面はひび割れ、心臓部である櫛歯は数本が折れてしまっていた。

「これを、直してほしいのです」静かで、どこか澄んだ声だった。

「ええ、お預かりします。ですが、かなり古い品ですね。完全に元通りになるかは…」

僕が言いかけると、その人物はフードを少しだけ持ち上げた。覗いたのは、夜空の色を閉じ込めたような深い紺色の瞳。エラと名乗った彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「あなたならできる、と聞きました。あなただけが、このオルゴールの『記憶』を呼び覚ませる、と」

その言葉は、僕の胸に小さな棘のように突き刺さった。「記憶」という、この街では忌避される言葉。そして彼女の瞳の奥には、僕と同じ、忘却の祝福から取り残された者の寂しさが揺らめいているように見えた。僕は黙ってオルゴールを受け取った。その冷たい金属の感触が、これから始まる何かの予兆のように、僕の指先に重く響いた。

第二章 歌うオルゴールの欠片

オルゴールの修復は困難を極めた。内部の機構は見たこともないほど精巧で、まるで失われた時代の技術の結晶のようだった。僕は工房に籠り、寝食も忘れて作業に没頭した。僕の呪われた記憶力が、この時ばかりは輝かしい才能のように思えた。折れた櫛歯を一本一本作り直し、歪んだシリンダーをミリ単位で調整していく。

作業を始めて数日後の夜、僕はついにシリンダーに刻まれた楽譜の断片を繋ぎ合わせることに成功した。ゆっくりとゼンマイを巻くと、か細く、しかし凛としたメロディが工房の静寂を震わせた。それは僕が今まで一度も聴いたことのない、懐かしくも切ない旋律だった。

その時だった。街の鐘楼が、定刻を知らせる鐘を鳴らした。いつもなら工房の窓を揺らすだけのその音が、その夜は違った。オルゴールの奏でるメロディが、鐘の音と共鳴し、新たな和音を紡ぎ出したのだ。それはまるで、忘れられた歌が、鐘の音に隠された真実を暴こうと囁きかけているかのようだった。

心臓が大きく跳ねた。このメロディは、ただの音楽ではない。この街の根幹に関わる何かだ。

翌日、再びエラが工房を訪れた。僕が修復したオルゴールを前に、彼女は静かにその音色に耳を傾けていた。

「…思い出しそうですか。この歌を」

僕の問いに、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。私は、思い出すためにここにいるのではありません。あなたに、思い出してもらうために来たのです」

「僕に? 僕はこの歌を知らない」

「今は、まだ。でも、あなたの中にはたくさんの『欠片』が眠っているはず。この街の人々が毎朝捨ててしまう、記憶の欠片が」

エラは語り始めた。このオルゴールは「忘却に抗う者たち」が遺した最後の希望であり、そのメロディは「清めの鐘」の祝福を打ち消す力を持つ「真実の歌」なのだと。そして、歌を完全な形で奏でるには、街のどこかに隠された最後の部品――「共鳴盤」が必要なのだという。

「なぜ、僕なんだ?」

「あなただけが、人々が忘れた道のりを覚えているから。人々が忘れた場所に隠されたヒントを見つけ出せるから。あなたの呪いは、この街の希望なのです」

彼女の言葉は、僕の心に深く染み渡った。呪いだと思っていたこの記憶力が、希望? 僕は初めて、自分の中に積み重なってきた無数の記憶たちが、ただのガラクタではないのかもしれない、と感じ始めていた。エラの瞳に宿る強い光に導かれるように、僕は頷いた。僕たちは、人々が忘れた記憶の地図を頼りに、最後の部品を探し始めた。

第三章 鐘楼の嘘

僕の記憶を頼りに、僕たちは街の古文書館の奥深く、誰もがその存在を忘れていた地下室に辿り着いた。そこには、埃を被った設計図の束が残されていた。それは、白亜の鐘楼の――僕たちが「清めの鐘」と呼ぶものの、驚くべき設計図だった。

そこに描かれていたのは、巨大な鐘ではなかった。無数の水晶と歯車が複雑に絡み合った、巨大な魔法装置。その名称は『記憶濾過装置アニムス・フィルター』と記されていた。設計図の余白には、震えるような文字でこう書き残されていた。「悲しみを忘れさせるために。だが、喜びもまた、色を失う」

僕たちは言葉を失った。祝福だと思っていた鐘の音は、人々の記憶から感情を強制的に濾過し、抜き取るための装置の作動音だったのだ。平穏は、与えられたものではなく、奪われた結果だった。

「行かなければ」エラが呟いた。「鐘楼の最上階へ。真実を、この目で見なければ」

真夜中、僕たちは鐘楼に忍び込んだ。螺旋階段を駆け上がり、最上階の機械室の扉を開ける。そこに広がっていたのは、設計図通りの光景だった。巨大な水晶が青白い光を放ち、無数の歯車が低く唸りを上げて回転している。人々から吸い上げた記憶が、光の粒子となって水晶の中を渦巻いていた。それは神々しいほどに美しく、同時に恐ろしい光景だった。

「よく来たね、リオン君。そして…エラ」

背後から聞こえた穏やかな声に、僕たちは凍りついた。そこに立っていたのは、街の指導者であり、誰からも尊敬される長老だった。彼はいつもと変わらない優しい笑みを浮かべていた。

「全て、見てしまったかね。これが、我々の平和の礎だ」

長老は語り始めた。かつてこの世界は、憎しみの記憶が引き起こす終わらない戦争で、滅びかけていたこと。彼はその連鎖を断ち切るため、この装置を作り、人々の記憶から争いの火種となる強い感情を奪ったこと。

「しかし」長老の顔が曇った。「装置は私の手を離れ、暴走を始めた。今や感情だけでなく、生きるために必要な知恵や技術、愛する人を愛おしむ心さえも、少しずつ世界から奪い去っている。このままでは、我々は魂のない抜け殻になるだろう。緩やかな滅びだ」

長老は、震える手で部屋の隅に置かれていた木箱を指差した。「共鳴盤」はそこにあった。

「私は、この装置を止める勇気がなかった。再び憎しみが世界に満ちることを恐れたのだ。だが、君のその『忘れない瞳』を見ているうちに、考えが変わった。記憶と共に生きる痛みを知る君なら、正しい道を選べるかもしれない」

彼の瞳には、深い後悔と、そして微かな希望の色が浮かんでいた。この穏やかな平穏は、巨大な嘘の上に成り立っていたのだ。そして今、その嘘が世界そのものを蝕んでいた。

第四章 忘却のアルペジオ

工房に戻った僕は、震える手でオルゴールに共鳴盤を取り付けた。最後のピースがはまった瞬間、オルゴールは柔らかな光を放ち、僕の知らないはずのメロディが、頭の中に直接流れ込んできた。それは喜びの歌であり、悲しみの歌であり、愛の歌であり、別れの歌だった。人々が忘れてしまった、全ての感情が詰まった歌だった。

夜明けが近づき、「清めの鐘」が鳴り響く時間が迫っていた。僕は、完成したオルゴールを抱えて鐘楼の頂上へと走った。エラが、そして長老が見守る中、僕は装置の中央にオルゴールを置いた。

「リオン、本当にいいの?」エラの声が揺れていた。「世界は混乱するかもしれない。人々は、忘れていた憎しみを思い出して、また争い始めるかもしれない」

僕は頷いた。

「それでも、僕は思い出すことを選びたい。忘れられた笑顔も、流された涙も、全部無駄じゃなかったって信じたいんだ。痛みを知っているからこそ、人は優しくなれるはずだ。僕がずっと記憶してきた、たくさんの人々のように」

僕はゼンマイを巻いた。

夜明けの光が差し込む中、オルゴールから「真実の歌」が溢れ出した。それはアルペジオ――分散和音のように、一つ一つの音が重なり合い、やがて壮大なハーモニーとなって鐘楼全体を震わせた。記憶濾過装置の青白い光が、歌に呼応するように激しく明滅し、やがて優しい黄金色の光へと変わっていく。唸りを上げていた歯車は、ゆっくりと、その動きを止めた。

そして、街に朝が来た。

しかし、鐘の音はもう響かない。

窓の外では、人々が戸惑っていた。昨日喧嘩した夫婦が、気まずそうに、しかし互いを思いやる目で見つめ合っている。母親が、亡くした子供のことを思い出して静かに涙を流し、その隣で父親が優しく肩を抱いている。悲しみも、後悔も、そこにはあった。だが同時に、それを乗り越えようとする人間の愛と強さが、街の至る所で芽吹き始めていた。

僕の中にあった無数の記憶は、もはや呪いではなかった。それは、この新しい世界を歩んでいくための道標であり、僕が僕であることの証だった。

ふと隣を見ると、エラの姿が陽光に透け始めていた。

「私の役目は終わったようです」彼女は微笑んだ。「私は、長老が最初に捨てた『記憶と共に生きる勇気』…その想いの欠片だったのかもしれません」

彼女は光の粒子となって消えていった。ありがとう、という声だけを残して。

僕は、記憶を取り戻した世界を見下ろした。これからたくさんの困難が待っているだろう。しかし、僕たちはもう忘れない。喜びも、痛みも、全てを抱きしめて、未来へと歩いていくのだ。空っぽの平穏ではなく、傷つきながらも輝く、本当の明日へと。

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