第一章 影なき街の片隅で
アスファルトの代わりに敷き詰められた鈍色の石畳。その上を、人々は自らの影を引き連れて歩く。長く伸びる商人の影、子供の背後で跳ねる小さな影、寄り添い一つになる恋人たちの影。この街、ケイドゥムでは、影こそがその人の存在の証明であり、魂の輪郭だった。影は持ち主の感情に呼応して揺らめき、時には囁き、慰め、あるいは持ち主の忘れたい記憶を宿して静かに佇む。
そんな世界で、俺、カイには影がなかった。
正午の太陽が真上から容赦なく照りつけても、俺の足元には何もない。まるで俺という存在が、この世界から一枚だけ切り取られ、光に素通りされているかのようだった。人々は俺を「影無し」と呼び、呪われた者、あるいは魂の欠けた空っぽの器として蔑んだ。その視線は、乾いた風よりも肌を刺す。俺はいつも俯き、誰の影も踏まないよう、壁際を歩くのが癖になっていた。
その日も、俺は広場の隅で、壁に背を預けていた。市場の喧騒が遠くに聞こえる。果物の甘い香りと、香辛料の乾いた匂いが混じり合い、人々の活気が渦を巻いている。だが、その輪の中に俺の居場所はない。孤独は、もはや皮膚の一部だった。
その時だった。悲鳴が、喧騒の膜を鋭く引き裂いた。
広場の中央、噴水の縁に立っていたはずの人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っている。その中心にいたのは、「それ」だった。形を失い、どす黒い憎悪だけで構成されたような巨大な影。持ち主を失い、暴走した「はぐれ影」だ。それは明確な形を持たず、アスファルトの染みのように広がりながら、触れるもの全ての影を喰らおうと蠢いていた。
逃げ遅れた少女が一人、腰を抜かして座り込んでいる。金色の髪が恐怖に震え、その足元にある可憐な花の影が、はぐれ影の触手によって引き伸ばされ、悲鳴を上げているようだった。誰も助けようとしない。はぐれ影に関わることは、自らの影をも汚染される危険を意味するからだ。
頭で考えるより先に、体が動いていた。俺は壁を蹴り、人波をかき分け、少女の前へと躍り出た。
「来るな!」
俺は両腕を広げ、はぐれ影の前に立ちはだかる。影を持たない俺ならば、喰われるものもない。ただ、この肉体が闇に飲み込まれるだけだ。それは恐怖だったが、それ以上に、生まれて初めて誰かを守るために立てたという、奇妙な高揚感が胸を焼いた。
はぐれ影が、俺という異物を認識し、その不定形の体を大きく波打たせた。巨大な闇の波が、俺を飲み込もうと迫る。俺は固く目を閉じた。
だが、衝撃は来なかった。
代わりに、目蓋の裏を焼くほどの閃光が迸った。恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
俺の右手から、眩いばかりの光が溢れ出ていた。それは影ではなかった。影の形をした、純粋な光そのものだった。光の影は、闇を払う剣のようにしなやかに伸び、はぐれ影の体に触れる。ジュッ、と肉の焼けるような音と共に、はぐれ影は断末魔の叫びを上げて霧散し、その残滓は風に溶けて消えた。
広場は水を打ったように静まり返り、全ての視線が俺に突き刺さっていた。俺自身も、呆然と自分の右手を見つめていた。光はもう消えている。だが、その残光が、網膜と心に焼き付いていた。
影がないはずの俺から、なぜ、光の影が?
それは、俺の孤独な世界が根底から覆る、始まりの合図だった。
第二章 影紡ぎ師の導き
あの事件の後、俺を見る人々の目は、侮蔑から畏怖と困惑に変わった。だが、それは新たな疎外感を生んだだけで、俺の孤独を癒すことはなかった。俺はケイドゥムの街を後にした。自分の右手に宿る謎の答えを求め、あてのない旅に出るために。
風の噂を頼りに、俺は「霧降りの谷」に住むという賢者、「影紡ぎ師」の噂を耳にした。彼女は、影にまつわる万象に通じ、人の影からその者の過去や運命を読み解くという。
深い霧が立ち込める谷の奥、苔むした岩々に囲まれた小さな庵で、老婆は静かに待っていた。顔には深い皺が刻まれ、その瞳は、まるで世界の始まりから終わりまでを見通しているかのように澄み切っていた。彼女の名はエリン。
「影なき子よ。お前さんのことは、風の囁きが教えてくれた」
エリンは、俺が口を開く前にそう言った。彼女の周りには、いくつもの糸車が置かれ、そこにはまるで絹糸のような、様々な色合いの影の糸が巻き取られていた。
俺は自分の身に起きたことを話した。影がないこと。そして、突如として現れた光の影のこと。エリンは静かに耳を傾け、やがてゆっくりと口を開いた。
「影がないのではない。お前さんの中には、影を押し込めるほど強大な何かが眠っているだけじゃ」
「強大な、何か……?」
「影とは、光の裏返し。忘れたい記憶、抑圧した感情、心の深淵に沈めた悲しみの澱(おり)。それが人の形を借りて寄り添うもの。だが、お前さんの場合、その悲しみがあまりに巨大で、深すぎる。だからお前さん自身が、それを思い出さぬよう、心の奥底に鍵をかけてしまったのじゃろう」
エリンの言葉は、抽象的で、すぐには理解できなかった。だが、彼女の瞳の奥にある深い慈愛が、それが真実なのだと告げているようだった。
「光の影は、その鍵が綻び始めた証拠。内なる力が、封印を破って漏れ出しているのじゃ。このままでは、お前さん自身が、その力に飲み込まれてしまうやもしれん」
どうすればいいのか、と俺は掠れた声で尋ねた。エリンは、庵の奥から古びた水筒を一つ取り出し、俺に手渡した。
「答えは、お前さん自身の内にある。忘れられた『始まりの遺跡』へ行きなさい。そこには、過去を映すという『記憶の泉』がある。その水を飲み、お前さんが何を忘れ、何を封じたのかを思い出すのじゃ」
彼女の言葉は、導きであり、同時に過酷な試練の宣告でもあった。自分の過去と向き合うこと。それは、今まで目を背け続けてきた、一番恐ろしいことだった。だが、この得体の知れない力を抱えたまま生きていくよりはましだった。俺は水筒を強く握りしめ、深く、一度だけ頭を下げた。
始まりの遺跡への道は、険しかった。獣道を抜け、切り立った崖を登り、忘れられた神々の石像が並ぶ古道を歩き続けた。夜は、焚き火の炎が作る俺自身の、頼りない仮初めの影を見つめながら、これから知るであろう過去への恐怖に震えた。俺は一体、何者なんだ?
第三章 泉に映る偽りの真実
数週間の旅の果て、俺はついに始まりの遺跡にたどり着いた。崩れかけた巨大な石の門をくぐると、そこには月光に照らされた円形の広場が広がっていた。中央には、静謐な水をたたえた泉があった。水面は鏡のように滑らかで、満天の星々を寸分違わず映し出している。これが、記憶の泉。
俺はゆっくりと泉に近づき、膝をついた。エリンに渡された水筒から、震える手で水を汲む。ごくり、と喉を鳴らしてそれを飲み干した。水は氷のように冷たく、体の芯まで染み渡っていく。
次の瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
視界が真っ白な光に包まれ、足元の感覚が消える。俺は、意識の奔流に飲み込まれていった。
―――そこは、白亜の壁と黄金の尖塔が空にそびえる、壮麗な都だった。人々は皆、影を持っていなかった。いや、違う。彼らの体そのものが、淡い光を放っていた。彼らは「光の民」。俺は、その光景を知っていた。懐かしい、と心が叫んでいた。
幼い俺がいた。玉座に座る、光り輝く父と母の膝の上で笑っている。俺は、この光の王国の王子だったのだ。俺たちの王国は、強大な光の力で世界を調和させていた。だが、その光は、濃すぎるがゆえに、深い影をも生み出していた。光の民に追いやられ、忘れ去られた古代の民。彼らの怨嗟と悲しみは、長い年月をかけて地底に溜まり、やがて一つの巨大な意識を持った「影の災厄」と化した。
ある夜、災厄は地上に溢れ出した。それは、俺が広場で見たはぐれ影など比較にならない、世界そのものを飲み込もうとする純粋な絶望の奔流だった。光の都は、次々と闇に侵食されていく。兵士たちの光は、赤子の手をひねるように消されていった。
父と母は、最後の決断を下した。
「カイ……私たちの光の子。お前だけは、生き延びなさい」
母の優しい声が響く。彼女は涙を流しながら、俺を強く抱きしめた。父は、王の威厳と、父としての悲痛な覚悟を瞳に宿し、俺の額に口づけをした。
「我らの命と記憶、そしてこの王国の光の全てを、お前の魂に注ぎ込もう。それは、災厄を封じるための『光の楔』となる。お前は全てを忘れるだろう。影のない、ただの人間として生きるのだ。それが、我らがお前に与えられる、最後の愛だ」
次の瞬間、二人の体は眩いばかりの光の奔流と化し、俺の小さな体を包み込んだ。同時に、足元から迫っていた影の災厄もまた、その光に引き寄せられるように俺の中へと吸い込まれていく。熱い光と、冷たい闇が、俺の中で激しくせめぎ合う。絶叫する俺の意識は、そこで途切れた。
―――気がつくと、俺は泉のほとりで倒れていた。頬を濡らすのは、泉の水か、涙か。
全てを思い出した。
俺が影を持たなかったのは、魂が空っぽだったからじゃない。俺の魂そのものが、両親の命と王国の光の全てを注ぎ込まれて作られた、巨大な影の災厄を封じ込めるための「檻」だったからだ。俺が「カイ」として生きてきた人生は、全てこの封印を守るための偽りの姿だった。俺の孤独も、疎外感も、全てはこの大いなる封印の副作用に過ぎなかった。
そして、あの光の影は、綻び始めた封印から漏れ出した、父と母の力の残滓。はぐれ影は、内なる災厄が外の世界に干渉した結果だったのだ。
俺は、一人の人間ですらなかった。巨大な悲劇を内包した、歩く墓標だった。絶望が、冷たい鉄の爪で俺の心を鷲掴みにした。
第四章 薄明の誓い
泉から立ち上がった俺の足取りは、鉛のように重かった。真実を知った今、俺には進むべき道が見えなかった。このまま封印が完全に解ければ、世界は俺の中から溢れ出す災厄によって滅びる。かといって、俺に何ができる? 父と母のように、自らを犠牲にして封印を強化する? それは、彼らの愛を踏みにじる行為に思えた。
俺は、心の奥底で渦巻く巨大な闇に意識を向けた。それは、もはや無視できない存在として、俺の中で脈打っていた。憎悪、悲しみ、怒り。古代の民が光の民に抱いた、ありとあらゆる負の感情の集合体。
「お前は、何がしたい?」
俺は、内なる災厄に語りかけた。初めは、ただ破壊の衝動だけが返ってきた。だが、俺は諦めなかった。父と母は、力で災厄をねじ伏せ、封印した。だが、その結果、俺という歪んだ存在が生まれた。同じ過ちを繰り返してはならない。
俺は、彼らの悲しみに耳を傾けた。光に追いやられた絶望を、忘れ去られた孤独を、自分のことのように感じようと努めた。それは、俺がずっと抱えてきた感情と、どこか似ていた。
「俺もお前と同じだ。ずっと独りだった。世界から疎外され、自分の存在価値を見出せずにいた」
俺の言葉に、災厄の猛りが、わずかに揺らいだ。俺は続けた。
「お前たちを滅ぼした光の民の血が、俺には流れている。だが、俺は彼らとは違う。俺は、お前たちの痛みが分かる。だから、もう争うのはやめよう。お前たちの悲しみを、俺が受け止める」
それは、赦しを乞う祈りだった。力による支配ではなく、理解と受容による和解の試み。俺は、自らの魂の扉を、内なる災厄に向かって完全に開け放った。
瞬間、凄まじい奔流が俺の全身を駆け巡った。父と母が遺した聖なる光と、古代の民の絶望的な闇が、俺の魂の中心で激突する。体が引き裂かれるような激痛。だが、俺は歯を食いしばって耐えた。破壊ではない。融合を、調和を、心の中で叫び続けた。
やがて、嵐は過ぎ去った。
俺は、静寂の中でゆっくりと目を開けた。体は不思議と軽く、心は凪いだ湖のように穏やかだった。そして、俺は自分の足元を見た。
そこには、影があった。
それは黒ではなかった。かといって、白でもない。光と闇が溶け合い、混じり合った、美しい銀色の影だった。それは穏やかに揺らめき、俺という存在を、確かにこの世界に繋ぎ止めていた。
内なる災厄は消えていない。だが、それはもはや暴走する憎悪の塊ではなかった。俺の魂の一部となり、鎮められ、俺自身の過去の象徴として、静かに寄り添っている。
俺は、もう「影無し」でも、「光の民の王子」でもない。ただのカイだ。両親の愛と、古代の民の悲しみ、その両方を背負って生きていく、一人の人間。
空を見上げると、夜の闇が白み始め、東の空が優しい薄明に染まっていた。それは、俺の足元にできた銀色の影と、同じ色をしていた。
俺は、誰にともなく誓った。この影と共に、この世界で生きていこう。光も闇も抱きしめて、静かに、だが確かな一歩を踏み出して。父と母が命をかけて守ったこの世界で、俺自身の物語を、これから紡いでいくのだ。