夢香る世界の終わりに
第一章 色褪せた夜想曲
僕、カイには秘密がある。他人の夢の残り香が嗅げるのだ。それは朝のトーストに残るバターの香りよりも鮮烈で、雨上がりのアスファルトの匂いよりも複雑だった。昨夜の冒険の興奮は弾けるソーダ水のように鼻をくすぐり、叶わなかった恋の後悔は、湿った土のような匂いを纏って人の肩に留まっている。幼い頃から無数の夢の断片に囲まれて生きてきたせいで、僕にとって現実と夢の境界は、水面に引かれた一本の線のように曖昧だった。
僕らの世界には、もう一つの秘密がある。夜が訪れると、すべての「音」が色を持つのだ。街灯の下で交わされる恋人たちの囁きは淡い桜色の靄となり、酒場の陽気な笑い声は金色のプリズムとなって石畳に乱反射する。夜の景色は、街が奏でる音のオーケストラによって、毎晩異なる姿を見せるシンフォニーだった。
しかし、その夜想曲に不協和音が混じり始めたのは、いつからだっただろうか。
街の片隅で、猫の鳴き声がふっと色を失った。その瞬間、猫がいた路地裏から、インクを垂らしたように漆黒の『無音の闇』がじわりと滲み出した。闇は周囲の音の色を、まるで飢えた獣のように喰らい尽くしていく。黄金色の笑い声も、瑠璃色の溜息も、闇に触れた途端に色を奪われ、ただの沈黙に変わった。
僕はその闇に、恐る恐る指先を伸ばした。ひやりとした虚無が肌を這い、脳の奥深くに根ざしていたはずの、明日の朝に見るはずだった「ささやかな夢」が、根こそぎ引き抜かれる感覚に襲われた。空っぽになった心の空洞を、冷たい風が吹き抜けていく。この闇は、未来を喰らうのだ。
第二章 錆びた羅針盤の囁き
『無音の闇』は日に日にその領域を広げ、街は少しずつ色彩を失っていった。人々は気づかない。夜の音が色を持つことなど、誰も意識して生きてはいないからだ。ただ、漠然とした不安と、未来への希望が薄れていく感覚だけが、人々の肩に重くのしかかっていた。僕だけが、その原因が闇にあることを知っていた。
どうすればいいのか分からないまま、僕は祖父が遺したガラクタだらけの屋根裏部屋に籠った。祖父は夢の研究家と自称する変わり者で、部屋には奇妙な機械や読めない文字で書かれた古書が山積みになっている。その中の一つ、古びた木箱を開けると、手のひらに収まるほどの錆びた金属片が転がり出た。
『夜明けの羅針盤』。
祖父のメモにはそう記されていた。普段はただの鉄屑にしか見えないが、真の暗闇に触れた時、世界の夜明けを指し示すのだと。
僕はその夜、羅針盤を握りしめて再び闇が広がる地区へと向かった。闇の境界線に羅針盤を近づけた、その瞬間だった。錆びた針が、まるで命を吹き込まれたかのように狂った勢いで回転を始めた。そして、闇が最も濃い一点を、震えながら指し示した。街の外れに聳え立つ、古びた時計塔だ。
第三章 沈黙の時計塔
時計塔は、街で最も古い建造物だった。かつては定刻になると美しい鐘の音を響かせていたが、今はもう誰も見向きもしない、忘れられた存在だ。羅針盤が指し示すのは、間違いなくその場所だった。
塔の内部は、埃と静寂に満ちていた。軋む階段を上り、巨大な文字盤の裏側にある機械室にたどり着く。そこが、『無音の闇』の発生源だった。闇は、止まった時計の巨大な歯車から、まるで血液のように滴り落ち、床に黒い染みを作っていた。
なぜここから?
僕は闇の源にそっと手をかざした。その時、羅針盤が眩い光を放ち、表面にかつてこの時計が奏でたであろう鐘の音の色――澄み切った冬の空のような、どこまでも青い色が映し出された。それは、街の人々から忘れ去られた「時間の記憶」そのものだった。闇の正体は、特定の音から生まれるのではない。忘れ去られた音から生まれるのだ。街が新しい音と色で満たされるほどに、古い記憶は打ち捨てられ、その悲しみが闇となって凝縮していく。
第四章 夢の墓場
僕がその事実に気づいた瞬間、足元の闇が渦を巻き、僕の身体を飲み込んだ。
息が詰まるような圧迫感。
目を開けると、そこは無限の闇が広がる空間だった。
周囲には、無数の光の粒子が漂っている。それらはすべて、かつて誰かが見た夢の断片だった。初めて空を飛んだ喜びの夢、大切な人を失った悲しみの夢、名もなき花に名前を付けた子供の夢。それらすべてが色を失い、まるで墓標のように静かに漂っていた。ここは、世界から忘却された夢たちが流れ着く、巨大な墓場なのだ。
「我々は、忘れられた」
声が聞こえた。それは一人の声ではなく、何億、何兆もの夢たちの嘆きが重なり合った合唱だった。
「新しい夢が生まれるたび、我々は捨てられる。ならば、世界そのものを永遠の夢の墓場にしてくれる。もう誰も、何も夢見ることのない、静かな世界に」
闇の意思が、僕の意識に直接流れ込んでくる。それは純粋な悲しみと、見捨てられたことへの怒りだった。闇は僕自身の心の奥底に眠る、幼い頃に忘れてしまった小さな夢さえも吸収し、僕を同化させようと触手を伸ばしてきた。抗えない。この巨大な喪失感の前では、僕一人の存在などあまりにも無力だった。
第五章 根源の残り香
意識が闇に溶けていく。身体の感覚が薄れ、僕という個が消えかけていく。その、最後の瞬間だった。
僕の能力が、極限まで研ぎ澄まされた。
無数の夢の残骸が漂う闇の、さらに奥。その最も深い虚無の中心から、僕は微かな、しかし決して消えることのない「香り」を嗅ぎ取った。それは、どんな夢の香りとも違っていた。甘くもなければ、苦くもない。暖かくもなければ、冷たくもない。それは、まだ世界に音も色も、喜びも悲しみも存在しなかった頃の、ただ純粋な「存在したい」という願いそのものの香り。
世界が、最初に見た夢。
すべての始まりとなった、「根源の夢」の残り香だった。それは忘れられるはずがない。なぜなら、今ここにあるすべての夢は、このたった一つの願いから生まれた枝葉なのだから。
僕は最後の力を振り絞り、その残り香に向かって手を伸ばした。香りに触れた瞬間、僕の意識は光に包まれた。
第六章 夜明けに咲く色
僕が目を開けると、時計塔の機械室に倒れていた。窓の外では、夜が明けようとしている。
『無音の闇』は消えていなかった。しかし、その性質は変わっていた。漆黒だった闇の中に、今、一つの色が灯っている。それは僕が闇の底で触れた、「根源の夢」の色。何色と定義することのできない、すべての色彩の可能性を秘めた、夜明けの空のような淡い光の色だった。
その色は、忘れられた夢たちの墓標を優しく照らし出していた。闇はもはや、未来を喰らう存在ではない。過去の夢を抱きしめ、静かに追悼する『夜の記憶』そのものへと姿を変えたのだ。
それ以来、世界の夜には新しい法則が加わった。街が奏でる鮮やかな音の色に混じって、時折、静かな影のような闇が揺らめくようになった。人々が過去を想う時、忘れられた歌を口ずさむ時、その闇は根源の色を微かに灯し、まるで「覚えているよ」と囁くように瞬くのだ。
僕は今も、夢の残り香を嗅ぎながら生きている。現実と夢の境界は相変わらず曖昧なままだ。けれど、もう迷うことはない。この世界では、どんな夢も決して完全には消え去らないのだから。忘れられた夢たちは、夜の静寂の中で、夜明けの色に抱かれて永遠に眠り続けるのだ。