第一章 色なき残響
この世界は、色で満ちていた。人々の魂から放たれる感情の光彩が、夜の帳さえも淡く染め上げる。喜びは炎のような赤、悲しみは深海の水面を思わせる青、愛は夜明けの空に似た桃色。その色の濃淡が、人の価値そのものを規定していた。
だが、俺、レイの身体からは、いかなる色も発せられることはなかった。
俺は透明な存在だった。街の片隅、色の淀んだ路地裏で息を潜めるように生きている。鮮やかな赤を誇示する商人たちの怒声、柔らかな桃色を寄り添わせる恋人たちの囁き。それらは全て、厚いガラスを隔てた向こう側の世界の出来事のようだった。人々は俺を、色のない虚ろな器として、あるいは世界の調和を乱す不吉な染みとして蔑んだ。その視線は、肌を刺す冬の風よりも冷たかった。
俺には、奇妙な能力があった。生き物に触れると、その対象が持つ『最も純粋だった、概念的な一瞬の姿』が、透明なガラス細工となって目の前に具現化するのだ。
路地を縄張りにする痩せた野良猫の背を、そっと撫でる。すると、ふわりと空間に小さな影が生まれた。それは、母猫の乳を夢中で探す、生まれたばかりの子猫の姿をしたガラス細工だった。無垢な生命力に満ち、一点の曇りもない完璧な造形。だがその輝きは刹那のものだ。数秒後、ガラスの子猫はしゃらりと音を立て、光の砂となって俺の指の間からこぼれ落ちていった。この光景は、俺にしか見えない。
この力は何なのだろう。純粋な姿を垣間見るたび、俺は言いようのない孤独に苛まれた。誰もが持つ美しい原初の輝き。だがそれは触れた瞬間に失われ、俺の手には何も残らない。ポケットの中の冷たい感触だけが、俺が俺であることの唯一の証明だった。幼い頃、一度だけ自分自身に触れて具現化し、なぜか崩れずに残った、手のひらサイズの『無色の星屑の結晶』。それだけが、俺の空虚な世界の、唯一の確かなものだった。
第二章 桃色の輪郭
その日、俺の灰色の世界に、ひとつの色が飛び込んできた。
夜の市場、色とりどりの光が混ざり合って濁った空気を裂くように、鮮やかな桃色が駆けてきたのだ。息を切らした少女だった。高価な絹の衣は汚れ、手入れの行き届いた髪は乱れている。しかし、彼女から放たれる『愛』の光は、周囲のどんな色よりも強く、純粋だった。
「そこをどけ、色なし!」
背後から追ってきたのは、激しい橙の光を鎧のようにまとった男たち。『色彩の審判者』。世界の色の秩序を守る、絶対的な権力者だ。
俺は咄嗟に少女の腕を引き、荷車の影へと身を隠した。少女は驚きに目を見開いたが、俺が無色であることに気づくと、警戒を解いたようだった。審判者たちの足音が遠ざかっていく。
「助けてくれたのね。ありがとう」
少女はルナと名乗った。彼女は最高位の貴族の娘で、その濃すぎる桃色のために、政略の道具として自由のない日々を送っているのだという。
「私のこの色は、愛の色なんかじゃない。私を縛る、ただの鎖よ」
彼女の瞳が悲しげに揺れる。その光景は、俺が今まで見てきたどんな『悲しみの青』よりも、ずっと胸に迫るものだった。俺は初めて、色の奥にある本当の感情に触れた気がした。
俺は彼女を、打ち捨てられた時計塔にある俺の隠れ家に匿った。歯車の止まった静かな空間で、俺たちは言葉を交わした。彼女は色のない俺を気味悪がらず、むしろ興味深そうに見つめた。
「あなたには、色がないのね。……なんだか、とても静かで、羨ましい」
その言葉に、胸が軋んだ。俺は、彼女のその美しい色を、焦がれるほどに欲しているというのに。彼女に触れたい衝動と、触れてしまえば彼女の『純粋な姿』を垣間見て、この奇妙な均衡が崩れてしまうかもしれないという恐怖が、俺の中でせめぎ合っていた。
第三章 褪せる世界の法則
世界は、緩やかに色を失い始めていた。
市場の活気を支えていた商人たちの『喜びの赤』はくすみ、街角で交わされる恋人たちの『愛の桃色』は淡くなった。人々は苛立ち、互いを疑い、世界全体が熱を失ったように冷えていく。その現象が顕著になるにつれ、『色彩の審判者』たちの追跡は苛烈を極めた。
「世界の色彩が薄れているのは、貴様のような色なき異端者が存在するからだ!」
審判者の長、グラディウスが放つ『怒りの橙』は、まるで灼熱の炎だった。彼らは、俺の存在が世界の調和を乱す汚点だと信じて疑わなかった。
時計塔の隠れ家も見つかり、俺とルナは再び追われる身となった。降りしきる雨の中、濡れた石畳を駆ける。人々は、色を失いゆく世界の元凶として俺を指差し、憎悪の視線を投げつけた。俺のせいなのか? 俺が生まれてきたことが、この世界から色を奪っているというのか?
絶望が、無色の俺の心を黒く塗りつぶそうとしていた。
「違う!」
隣を走るルナが叫んだ。
「あなたじゃない。おかしいのは、この世界の方よ! 色に縛られて、本当の気持ちを見失っている、みんなの方なのよ!」
彼女の言葉は、濁流に飲まれかけた俺を繋ぎとめる、たった一本の綱だった。彼女の桃色の光が、雨の闇の中で、道を示す灯台のように輝いていた。
第四章 硝子の真実
追い詰められたのは、古い聖堂の広場だった。審判者たちに完全に包囲され、逃げ場はない。グラディウスが、その燃えるような橙の腕を俺に向かって振り下ろす。
「レイ!」
ルナが俺の前に飛び出した。鈍い音と共に、彼女の華奢な身体が石畳に崩れ落ちる。彼女の肩から、鮮血と共に、その美しい桃色の光が揺らめきながら薄れていくのが見えた。
時間が、止まった。
俺は考えるより先に、彼女の冷たくなっていく手に触れていた。
その瞬間、世界から音が消えた。
俺の目の前に、光の粒子が集まり、ひとつの形を成していく。それは、誰かを心の底から信じ、ただ無垢に微笑む赤ん坊の姿をした、完璧な桃色のガラス細工だった。ルナの、最も純粋だった一瞬の姿。それは今まで見たどのガラス細工よりも力強く輝き、そして、あまりにもゆっくりと、慈しむように崩れ始めた。
しゃらん、と澄んだ音が響く。同時に、俺がずっと懐に忍ばせていた『無色の星屑の結晶』が、心臓のように激しく脈動し始めた。結晶は、崩れゆく赤ん坊のガラス細工から放たれる桃色の光を、残らず吸い込んでいく。
そして、結晶の内側で、虹色の閃光が爆ぜた。
膨大な情報が、奔流となって俺の意識に流れ込む。
世界の法則。色の真実。俺の能力の意味。
この世界の『感情の色』は、生命のエネルギーそのものだった。だが、感情は生まれ、使われ、そして澱む。淀んだ感情は世界を蝕み、やがては色そのものを枯渇させる。俺の能力は、その淀みを取り除き、生命から純粋な『感情のエッセンス』だけを抽出する、世界の自浄作用。俺は『浄化装置』だったのだ。審判者たちは、色の枯渇という変化を、自らの権力の喪失としか捉えられず、ただ恐れていたに過ぎない。
ガラス細工が完全に砂となって消える頃、俺は全てを理解した。俺は世界の破壊者ではなかった。世界を、次へと進めるための存在だった。
第五章 星屑の原点
俺はゆっくりと立ち上がった。もう、恐れはなかった。
俺を見つめるグラディウスの瞳には、驚愕と、そして理解を超えたものへの恐怖が浮かんでいた。
「お前は……一体、何なのだ……」
俺は答えず、彼に向かって歩みを進めた。そして、その燃える橙の腕に、静かに触れた。
現れたのは、ただ父に認められたくて、がむしゃらに剣を振るっていた少年のガラス細工だった。激しく、しかしどこか哀しい橙色の輝き。それはすぐに崩れ去り、光の粒子となって俺の中の結晶に吸い込まれていく。グラディウスから、激しい橙色が消え、穏やかな無色が残った。彼は呆然と自分の手を見つめていた。
俺は歩き続けた。審判者たちに、広場に集まった人々へ。一人、また一人と触れていく。怒り、悲しみ、喜び、嫉妬、絶望。無数のガラス細工が生まれ、その純粋な輝きを瞬かせ、そして崩れ去っていく。そのたびに、世界から色がひとつ、またひとつと消えていった。街は急速に色彩を失い、モノクロームの絵画のように静まり返っていく。人々は戸惑いながらも、長年自分たちを縛り付けていた色の軛から解放され、ある種の安らぎさえ感じているようだった。
やがて、世界でただ一つの色を持つ存在が残った。
俺の腕の中で、か細い息をしているルナ。
彼女は薄れゆく意識の中、俺に微笑みかけた。
「あなたの見る世界を、見てみたかった……」
「ああ」俺は頷き、彼女の頬にそっと触れた。「今から、一緒に見るんだ」
俺は空に向かって、『無色の星屑の結晶』を掲げた。結晶は、世界中から集めた純粋な感情のエッセンスを吸い込み、限界まで輝きを増している。
そして、世界は完全に白になった。全ての音が消え、完全な静寂が訪れる。
次の瞬間、俺自身の身体が、内側から淡い光を放ち始めた。結晶から解放された無数のエッセンスが、俺という器を触媒にして、新たな世界を紡ぎだそうとしていた。
俺の胸から、ひとつの光が生まれた。それは赤でも青でもない。桃色でも橙でもない。今まで誰も見たことのない、あらゆる感情の可能性を秘めた、新しい『始まりの色』だった。
ああ、これが俺の役目だったのか。世界を滅ぼすのではなく、終わらせて、そして、始めること。
俺の輪郭が、光の粒子となってほどけていく。意識が薄れていく中で、最後に見たのは、ルナの閉じられた瞼がゆっくりと開き、その瞳に、生まれたばかりの新しい光が灯る光景だった。彼女の頬を伝う一筋の涙が、その光を受けて、希望の色にきらめいていた。