忘却の空と記憶紡ぎ

忘却の空と記憶紡ぎ

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第一章 色を忘れた空

エリアの仕事場は、失われた時の匂いがした。古書の乾いた香り、埃をかぶった羊皮紙の微かな甘さ、そして棚に並べられた無数のガラス瓶に封じ込められた、誰かの思い出の断片が放つ、淡い寂寥感。彼女は「記憶修復師」。魔法が日常に溶け込んだこの街で、その代償として散逸した人々の記憶を拾い集め、元の持ち主へと返すことを生業としていた。

彼女自身は、魔法を使わない。魔法は、何かを得るために、必ず何かを奪っていくことを知っていたからだ。その代償は時として、あまりにも大きい。

その朝、街は奇妙な静けさに包まれていた。人々は空を見上げ、困惑した表情で囁き合っている。エリアも店の窓から外を見上げた。そこには、いつもと同じように空があった。だが、何かが決定的に違っていた。色がないのだ。のっぺりとした、無限に広がる灰色の画布。それは青でもなく、曇り空の鼠色でもない。まるで「色」という概念そのものが、そこから抜け落ちてしまったかのようだった。

「昨日まで、空は何色だったかしら?」

道行くパン屋の主人が、隣の客に尋ねる。客は首を傾げ、眉間に深い皺を寄せた。

「さあ…? 空に、色なんてありましたかね」

その会話に、エリアは背筋が凍る思いがした。忘却だ。それも、街全体を覆うほどの大規模な。こんな現象は、途方もなく強力な魔法が使われた証拠だった。一体誰が、何のために?

その日の午後、店のドアベルがちりんと鳴った。入ってきたのは、歳不相応に真剣な眼差しをした一人の少年だった。年の頃は十歳ほどだろうか。使い古された革の上着をまとい、その手には、鈍く光る銀のペンダントを固く握りしめている。

「記憶修服師のエリアさんですか」

少年はまっすぐにエリアを見つめて言った。

「僕の記憶を、取り戻してほしいんじゃない。みんなの記憶を、取り戻してほしいんだ」

「みんなの記憶?」

「空の色だよ」少年はきっぱりと言った。「空は、青かった。朝は燃えるような茜色で、夜は深い藍色に染まった。なのに、誰もそれを覚えていない。僕がおかしいみたいに言われるんだ。お願いだ、あの美しい色を、みんなに思い出させてほしい」

エリアは息を呑んだ。この大規模な忘却の中で、ただ一人、記憶を保持している少年。彼の存在そのものが、この異常事態の鍵を握っているように思えた。彼女の心の中で、錆びついていた探求心の歯車が、軋みながらもゆっくりと回り始める。これは単なる忘却ではない。世界の一部が、根こそぎ奪われたのだ。エリアは少年の、あまりにも純粋で、悲痛な願いを、断ることができなかった。

第二章 影の獣と忘れられた約束

少年はリオと名乗った。エリアは彼を伴い、調査を開始した。まず向かったのは、街の知識が集まる大図書館だ。しかし、空の色に関する記述は、どの書物からも綺麗に消え失せていた。詩集の中の「青空」という言葉は「天空」に、「夕焼け」は「黄昏の光」に書き換えられたかのように、自然な形で意味を保ったまま、色彩だけが奪われている。まるで、初めからこの世界に色は存在しなかったとでも言うように。

「これは…ただの記憶喪失じゃない。世界の法則そのものへの干渉だわ」

エリアは戦慄した。個人の記憶を修復するのとは訳が違う。これは、世界の根幹を揺るがす大事件だった。

リオは、時折胸のペンダントを握りしめながら、エリアの調査を手伝った。彼が言うには、このペンダントは亡くなった母親の形見で、物心ついた時からずっと身につけているという。おそらく、このペンダントが何らかの魔法的な加護となり、彼を大忘却から守ったのだろう。

二人は次に、街の成り立ちを知る長老たち、そして街を魔法で守護する「守護院」へと足を運んだ。守護院の魔法使いたちは、一様に口が重かった。彼らは何かを知っている。その確信が、エリアにはあった。

「我々は街の平和を守るため、最善を尽くしている。それ以上はお話しできない」

守護院長は、冷たくそう言い放つだけだった。

諦めかけたその夜、一人の若い守護院の魔法使いが、密かにエリアを訪ねてきた。彼は良心の呵責に耐えかねたようだった。

「我々がやりました」彼は声を潜めて告白した。「数日前、街の地下深くに封印されていた『影の獣』が目覚めかけたのです。あれが解放されれば、街は一瞬で飲み込まれる。我々には、獣を再び封じるための、大規模な忘却魔法を行使するしかありませんでした」

「忘却魔法…?」

「はい。この世界の魔法は、すべて『忘却』をエネルギー源としています。何かを忘れさせることで、魔力を生み出すのです。獣を封じるほどの力には、相応の代償が必要でした。街の人々から、最も身近で、誰もが共有している記憶…それが、『空の色』だったのです」

衝撃的な事実だった。街の平和は、人々の大切な記憶を犠牲にして成り立っていた。エリアは唇を噛んだ。魔法への不信感が、確信へと変わる。しかし、同時に疑問も浮かんだ。本当にそれだけだろうか。人々の記憶を奪ってまで守るべき平和とは、一体何なのだろう。

「その『影の獣』とは、一体何なのですか?」

エリアの問いに、若い魔法使いは怯えたように目を伏せた。

「詳しくは…私も知りません。ただ、それは純粋な『悲しみ』の化身だと聞いています。人々が悲しめば悲しむほど、獣は力を増す、と…」

悲しみの化身。その言葉が、エリアの心の奥底に眠っていた、蓋をしたはずの記憶の扉を、微かに震わせた。

第三章 世界が泣いた日

エリアは諦めなかった。「影の獣」と「悲しみ」という言葉が、どうしても頭から離れなかったのだ。彼女は守護院の目を盗み、リオの助けを借りて、禁じられた記録が眠る守護院の地下書庫へと忍び込んだ。埃とインクの匂いが立ち込める書庫の最奥で、彼女は一冊の古びた日誌を見つけた。それは、初代守護院長によって書かれたものだった。

ページをめくる指が震える。そこに記されていたのは、おぞましい真実だった。

『影の獣』など、存在しない。

それは、人々を納得させるための、巧みな偽りだった。

日誌によれば、この世界は創造主の失敗作だった。人々が抱く「悲しみ」「絶望」「苦痛」といった強い負の感情が、世界の理そのものを歪め、存在を危うくする欠陥を抱えていたのだ。世界を維持するため、古代の魔法使いたちは苦渋の決断を下した。人々が耐えがたい悲しみに見舞われるたび、その原因となった出来事の記憶を、大規模な忘却魔法で人々から消し去る。そうして、世界を崩壊から守ってきたのだ。

「空の色」が失われたのは、最近この街を襲った大火災が原因だった。多くの命が失われ、街は深い悲しみに包まれた。その巨大な負の感情が世界を蝕む前に、守護院は魔法を行使した。火事の記憶、失われた人々の記憶、そして、その悲しみと強く結びついていた希望の象徴――どこまでも広がる青い空の記憶を、人々から奪い去ったのだ。

日誌の最後のページを読んだ時、エリアは自分の足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。そこには、彼女自身の家族に関する記述があった。

十数年前。幼かったエリアの目の前で、両親と幼い妹は流行病で命を落とした。彼女に残されたのは、耐えがたいほどの喪失感と、何もできなかった無力感だけだったはずだ。しかし、その悲劇の記憶もまた、世界の維持のために「調整」されていた。本来ならもっと深く、もっと長く続くはずだった悲しみを和らげるため、家族との幸せだった記憶の一部までもが、彼女から奪われていたのだ。

彼女がずっと抱えてきた、心の空白の正体。魔法を頑なに拒絶してきた理由。すべてが、この偽りの平穏を守るためのシステムの一部だった。

「…そうか」

エリアの頬を、一筋の涙が伝った。それは、失われた家族を悼む涙ではなかった。偽りの幸福の中で、何も知らずに生きてきた自分自身への、そしてこの世界の、あまりにも悲しい仕組みへの涙だった。

「僕のお母さんも…火事で…」

隣で息を詰めていたリオが、ぽつりと呟いた。彼のペンダントが、ひときわ鈍い光を放っている。彼が空の色を覚えていたのは、母親を失った悲しみを、このペンダントが必死に守っていたからに他ならなかった。

世界は、人々の涙の上に成り立っていた。涙を流すことさえ許さずに。

第四章 物語を紡ぐ者

真実を知ったエリアは、数日間、仕事場に閉じこもった。偽りの平和を維持すべきか。それとも、悲しみと共にある真実を取り戻すべきか。答えは出なかった。守護院の行いは、悪意からではない。彼らもまた、この不完全な世界を守ろうと必死なのだ。

もし、すべてを元に戻せばどうなる?人々は火事の悲劇を思い出し、絶望に打ちひしがれるだろう。世界は、今度こそ崩壊してしまうかもしれない。だが、このまま忘却を重ねていけば、人々はいつか、喜びや愛といった感情の意味さえ失ってしまうのではないか。悲しみを知らない心に、本当の喜びは根付かない。

葛藤の末、エリアは一つの決意を固めた。彼女は守護院長のもとを訪れた。しかし、告発するためではない。

「私は、魔法で記憶を取り戻すことはしません」エリアは静かに言った。「それは、あなた方と同じ過ちを繰り返すだけだから」

守護院長は驚きに目を見開いた。

「では、どうするのだ?」

「私は、物語を紡ぎます」

エリアは記憶修復師としての新たな道を選んだ。失われた記憶を無理やり取り戻させるのではない。忘却によって生まれた空白に、新たな意味を与えるのだ。彼女は街の広場に人々を集めた。隣には、小さな勇者リオが立っている。

「皆さん」エリアの声は、穏やかだが、不思議な力強さに満ちていた。「私たちの空には、かつて色がありました。それは『青』と呼ばれ、どこまでも高く、澄み渡っていました。悲しいことがあった日も、嬉しいことがあった日も、空はただ静かに、私たちを見守ってくれていました」

彼女は魔法を使わなかった。ただ、語り、歌い、子供たちに絵を描いて見せた。空の色、亡くなった人々が好きだった花の色、祭りの日の賑わい。忘却された記憶の断片を、物語として再構築していく。それは、悲しみを再び植え付ける行為ではなかった。悲しみと共にあった温かな記憶、乗り越えてきた人々の強さ、そして未来への希望を伝える行為だった。

人々は、すぐには空の色を思い出せなかった。だが、彼らの心には、確かな変化が生まれ始めていた。無色の空を見上げながら、エリアの語る「青」や「茜色」を想像するようになった。失われたものの大きさを知り、それでも前を向こうとする意志が、静かに芽生え始めたのだ。

エリアの物語は、ゆっくりと街に浸透していった。人々は、悲しみを恐れるのではなく、それを受け入れ、乗り越える強さを学び始めた。世界の理は変わらない。だが、人々の心は変わった。

夕暮れ時、エリアはリオと一緒に、丘の上から街を眺めていた。空は相変わらず色を失ったままだ。しかし、その灰色のキャンバスの向こう側に、二人は燃えるような夕焼けを見ている気がした。

「ねえ、エリアさん」リオが言った。「僕、お母さんのこと、ちゃんと悲しんでもいいんだよね」

「ええ、いいのよ」エリアは優しく微笑んだ。「悲しい記憶は、その人がどれだけ大切だったかの証だから。忘れる必要なんてないの」

彼女は知っていた。この世界から忘却の魔法が消えることはないだろう。だが、物語がある限り、人の心は死なない。失われた記憶は、物語の中で永遠に生き続ける。エリアは、この不完全で、だからこそ愛おしい世界で、物語を紡ぎ続けるだろう。無色の空の下、人々の心に、消えることのない色彩を描くために。その瞳には、誰よりも鮮やかな空の色が映っていた。

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