言紡ぎのエレジー

言紡ぎのエレジー

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第一章 沈黙の訪れ

エリオが住む谷間の村、アトリエに最初の異変が訪れたのは、金木犀の香りが風に乗り始めた頃だった。それは病と呼ぶにはあまりに静かで、呪いと呼ぶにはあまりに穏やかな侵食だった。人々が、言葉を失い始めたのだ。

最初は些細な物忘れのようなものだった。パン屋の主人が「パン」という言葉を思い出せず、ただ香ばしい塊を指差す。洗濯場の女たちが、楽しげなおしゃべりの途中でふと口をつぐみ、何を話していたか忘れたように虚空を見つめる。だが、それは日に日に悪化していった。言葉を失うだけではない。言葉と共に、それが示す概念への理解や感情さえもが、彼らの内から滑り落ちていくようだった。村は急速に色を失い、人々は表情のない人形のように、ただ黙々と日々の作業をこなすだけになっていった。誰もがそれを「沈黙病」と呼び、恐れた。

エリオにとって、それは世界の終わりにも等しい恐怖だった。彼は「言紡ぎ」の一族の最後の末裔。かつては言葉を操り、万象に影響を与える魔法を使ったとされる一族だ。しかし、その力には重い代償があった。魔法を一つ紡ぐたびに、術者はその魔法の核となった「言葉」を永遠に失うのだ。祖父も、父も、偉大な言紡ぎであったがゆえに、晩年はほとんどの言葉を失い、誰とも心を通わせることなく孤独に死んでいった。

だからエリオは力を憎み、言葉を何よりも慈しんだ。彼は村一番の語り部で、子供たちに物語を聞かせるのが好きだった。言葉が紡ぐ世界の豊かさ、温かさを誰よりも信じていた。その彼にとって、人々から言葉が奪われていく光景は、魂を削られるような苦痛だった。

そして、その絶望はついに彼の足元まで忍び寄ってきた。

「お兄ちゃん……お花の名前、なんだっけ。昨日まで、あんなに好きだったのに」

庭の花壇の前で、十歳になる妹のリナが泣きそうな顔で呟いた。彼女が指差すのは、鮮やかな青いルピナス。エリオが彼女の誕生日に贈った花だ。リナの瞳から、昨日まで確かにあったはずの輝きが、ほんの少しだけ失われている。

「リナ……」

エリオは言葉を詰まらせた。このままでは、リナも村人たちと同じように、心を空っぽにした人形になってしまう。彼女の快活な笑い声も、優しい言葉も、すべてが「無」に帰してしまう。

言い伝えでは、沈黙病は谷の奥深く、禁じられた森に眠る「忘れられた神」の怒りに触れたせいだという。真偽は定かではない。しかし、エリオにはもう選択肢がなかった。

彼は書庫の奥から、埃をかぶった一族の古文書を取り出した。羊皮紙に刻まれた無数の魔法の言葉。それを使うことは、自らの世界を少しずつ破壊していく行為に他ならない。だが、リナの笑顔が消える世界など、彼にとっては意味のない空虚な舞台だ。

「待ってて、リナ。必ず、元に戻してあげるから」

妹の寝顔にそう誓った時、エリオの心は決まっていた。最も恐れていた力を使い、最も大切なものを守るために、彼は禁じられた森へと足を踏み入れる。それは、言葉を犠牲にして言葉を救うという、矛盾に満ちた旅の始まりだった。

第二章 色褪せる森

禁じられた森は、その名の通り、人を拒絶するような気配に満ちていた。空を覆うように枝を伸ばす巨木たちのせいで、昼なお暗く、湿った土と腐葉土の匂いが立ち込めている。エリオは、腰に下げた革袋に入れた、わずかな食料と水の重みを感じながら、先へと進んだ。

道なき道を進むうち、日は暮れ始めた。闇が急速に森を支配し、獣の遠吠えが聞こえ始める。恐怖がエリオの心を締め付けた。彼は焚き火を起こそうとしたが、湿った木では火がつかない。やむを得ず、彼は覚悟を決めた。

「――灯火(ともしび)」

エリオが震える声で囁くと、彼の掌から小さな光の玉が生まれ、ふわりと浮かび上がった。周囲がぼんやりと照らし出され、獣の気配が遠のく。だが、代償はすぐに訪れた。彼は「灯火」という言葉を失ったのだ。もう二度と、その言葉を口にすることも、書くこともできない。それだけではない。目の前の光の玉を見ても、かつて感じたはずの温かみや安心感が、どこか薄っぺらく感じられる。まるで、その言葉が持っていた概念ごと、彼の内から削り取られたようだった。

これが、言紡ぎの代償。世界を認識するための「言葉」という名の楔を、一つ、また一つと引き抜いていく行為。エリオは唇を噛み締め、その喪失感を振り払うように前へ進んだ。

旅の途中、彼は幾度となく魔法を使った。ぬかるみにはまった足を抜くために「浮遊」という言葉を。毒虫に刺された腕を癒すために「治癒」という言葉を。崖を渡るための橋を架けるために「石」という言葉を。

そのたびに、彼の世界は確実に色褪せていった。「石」という言葉を失った後、足元の岩肌はただの灰色の塊にしか見えなくなった。かつてなら、その質感や歴史に思いを馳せることができたはずなのに。言葉を失うことは、世界との繋がりを断ち切られることに等しかった。祖父や父が、なぜあんなにも虚ろな目をしていたのか、今なら痛いほどわかる。

旅の七日目、森の最も深い場所で、エリオは巨大な石造りの門の前にたどり着いた。門の前には、苔むした一体のゴーレムが仁王立ちしている。それが神の社の番人であることは明らかだった。

『何人たりとも、これより先へは通さぬ』

ゴーレムは地響きのような声で言った。言葉を発しているわけではない。意思が直接、脳内に響いてくる。

「僕は、村を救いに来た。どうか道を開けてほしい」

『資格なき者に道は開かれぬ。力で我を退けてみせよ』

エリオに選択の余地はなかった。彼は構え、これまで使ったことのない、強力な言葉を紡ぐ覚悟を決めた。ゴーレムの巨大な拳が振り下ろされる。エリオは、妹のリナの顔を思い浮かべた。彼女を守りたい。その一心で、彼は叫んだ。

「――守護(しゅご)!」

彼の全身から青白い光の障壁が放たれ、ゴーレムの拳を弾き返した。しかし、代償はあまりにも大きかった。障壁が消えた瞬間、エリオの心から「守る」という概念がごっそりと抜け落ちていった。なぜ自分はここにいるのか。なぜこの石の人形と対峙しているのか。その目的意識が、一瞬、完全に霧散した。

ただ、胸の奥にかすかに残る妹の面影だけが、彼をかろうじて突き動かしていた。彼はよろめきながら、沈黙したゴーレムの脇を抜け、重い石の門を押し開けた。

第三章 世界樹の真実

門の先にあったのは、神殿ではなかった。そこは、巨大な洞窟のような空間で、中央に天を突くほど巨大な、しかし枯れかけた一本の樹がそびえ立っていた。世界樹だ。一族の伝承にのみ登場する、世界の理そのものを支えているとされる伝説の樹。

その樹の幹や枝からは、無数の小さな光の粒が、まるで蛍のように明滅しながら漂っていた。近づいてみると、それは結晶化した「言葉」だった。触れると、ひんやりとした感触と共に、その言葉が持つ意味や感情が流れ込んでくる。「喜び」「悲しみ」「空」「風」「水」……。

そしてエリオは、世界樹の根元に横たわる、朽ち果てた人影を見つけた。傍らには、革張りの日記が落ちている。それは、エリオの一族の紋章が刻まれた、何代も前の先祖のものであった。彼は震える手で日記を拾い、ページをめくった。

そこに記されていたのは、エリオの想像を絶する真実だった。

「沈黙病」は、神の呪いなどではなかった。この世界そのものが、人々が日々紡ぐ「言葉」を糧として成り立っていたのだ。言葉が持つエネルギーが世界樹に注がれ、万象を形作り、生命を育んでいた。

しかし、いつしか人々は言葉の重みを忘れ、無意味なおしゃべりや、心ない嘘、虚飾に満ちた言葉ばかりを交わすようになった。エネルギーのない空虚な言葉は、世界樹を養うことができない。糧を失った世界樹は枯れ始め、世界そのものが存在を維持できなくなり、希薄化し始めた。それが「沈黙病」の正体。人々から言葉が失われていくのは、世界から言葉が失われていく前兆に過ぎなかったのだ。

そして、言紡ぎの一族の本当の使命もそこにあった。彼らは魔法使いなどではない。自らの魂と深く結びついた、純粋で強力な言葉を世界樹に捧げ、枯渇しかけた世界を繋ぎとめるための「生贄」だったのだ。彼ら一族は、来るべき世界の崩壊を食い止めるため、代々その身を捧げ、自らの言葉を、そして存在そのものを、この樹に与え続けてきた。日記の最後のページは、持ち主の悲痛な決意で締めくくられていた。

『我が最愛の娘の名を捧げる。これで、あと百年は保つだろう。すまない、エマ。お前の名を呼ぶことも、愛おしむことも、もうできぬ』

エリオは愕然とした。彼は、言葉を失うことを「喪失」であり「罰」だと考えていた。だが、違ったのだ。それは、この美しく、儚い世界を未来へ繋ぐための、最も気高い「贈与」だった。一族が背負ってきた宿命の重さと、そのあまりに切ない愛情の深さに、エリオは涙を禁じ得なかった。

彼は枯れかけた世界樹を見上げた。枝からこぼれる光は、今にも消え入りそうだ。妹のリナの顔が、村人たちの顔が脳裏に浮かぶ。彼らを、この世界を救うには、もはや一刻の猶予もなかった。

第四章 愛という名の言葉

エリオの心は、静かな決意に満たされていた。恐怖も、絶望も、もうない。ただ、先祖たちが繋いできたバトンを、今、自分が受け取るのだという澄み切った使命感だけがあった。

彼は世界樹の幹にそっと手を触れた。ひび割れた樹皮の下で、かろうじて脈打つ世界の生命を感じる。この世界を救うには、生半可な言葉では足りない。彼の魂の最も深い場所に根差し、彼のすべてを形作っている言葉でなければ。

エリオは目を閉じた。

脳裏に浮かぶのは、幼い頃の記憶。転んで泣く彼の手を引いてくれた、母の温かい手。厳格だったが、いつも彼の未来を案じていた父の背中。そして何より、太陽のように笑い、彼の語る物語に瞳を輝かせ、どんな時も「お兄ちゃんが大好き」と言ってくれた妹、リナの笑顔。

村のパンの焼ける匂い。祭りの日の賑わい。夕暮れの空のグラデーション。友人たちと交わしたくだらない冗談。涙が出るほど笑った日。胸が張り裂けそうに泣いた日。

それらすべてを包み込み、彼の存在そのものを肯定してくれた、たった一つの感情。たった一つの、言葉。

これだ。これを捧げよう。これを失うことは、自分の心を根こそぎ奪われることに等しい。だが、これ以上に純粋で、力強い言葉を、彼は知らない。

「僕が愛した、すべてのものへ」

エリオは囁き、世界樹に向かって両手を広げた。そして、彼の持てるすべての想いを込めて、その言葉を紡いだ。

「――愛」

瞬間、エリオの内から何かが決定的に失われる感覚があった。心にぽっかりと、しかし痛みも悲しみもない、静かな空洞が生まれた。

それと同時に、世界樹がまばゆい光を放った。枯れ果てていた幹に命がみなぎり、ひび割れが癒え、乾いた枝の先から、若々しい緑の葉が一斉に芽吹き始める。洞窟全体が、生命の喜びに満ちた光で満たされた。結晶化していた古い言葉たちは、その光に溶けるようにして天に昇り、新たな言葉の雨となって世界中に降り注いでいった。

エリオは、その光景をただ静かに見つめていた。美しい、とは感じた。だが、その美しさが呼び起こすはずの胸の高鳴りや、感動という感情が、彼にはもう理解できなかった。

谷間の村、アトリエでは奇跡が起きていた。人々は、まるで長い眠りから覚めたかのように、次々と言葉を取り戻していた。

「ああ、空がなんて青いんだろう!」

「あなたの声が聞きたかった!」

人々は泣き、笑い、抱き合った。言葉を交わすことの喜びに、誰もが打ち震えていた。

庭先でぼんやりとしていたリナも、はっと顔を上げた。彼女の瞳に、かつての快活な光が戻っている。

「お兄ちゃん……?」

リナは家を飛び出し、谷へと続く道を駆けだした。

数日後、エリオは村に戻った。彼の帰還に、村中が歓喜に沸いた。リナが駆け寄り、その胸に飛び込んできた。

「お兄ちゃん! 心配したんだよ!大好き!」

リナは満面の笑みで、エリオを見上げる。エリオは、妹が無事であったことへの安堵を感じた。彼はそっとリナの頭を撫でた。

しかし、彼女が放った「大好き」という言葉が、彼には理解できなかった。それはただの音の響きとして彼の耳を通り過ぎていくだけだ。妹が向ける強い好意や信頼は感じる。その感情に応えたいとも思う。だが、その感情をかつて何と呼んでいたのか、彼にはもう永遠にわからない。

エリオは、何も言わずに、ただ静かに微笑んだ。

彼は世界を救い、愛する人々を守った。その代償に、彼は「愛」という概念を永遠に失った。

だが、彼の心は空っぽではなかった。そこには、喪失感とは違う、何かを捧げ、与えきった者だけが知る、静かで満ち足りた温かさがあった。

言葉の温もりを取り戻した世界で、たった一人、最も美しい言葉を忘れてしまった英雄は、愛する妹の隣で、誰にも知られず、静かに生きていくのだった。

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