第一章 沈黙の森と饒舌な迷い人
俺の命は、あと七百三十語。
その数字は皮膚の下に疼く痣のように、常に俺の意識の片隅にこびりついていた。この世界では、人は生まれつき、生涯で使える言葉の総量を持って生まれる。言霊と呼ばれる命の貯蔵庫だ。それを使い果たした者は、泡のように存在が掻き消え、誰の記憶からも忘れ去られる。だから俺は、言葉を極限まで倹約してきた。
父は歴史を語るのが好きな男だった。母は歌を愛する女だった。二人とも、俺が物心つく頃にはもういない。きっと、豊かな言葉を惜しみなく使い果たしてしまったのだろう。残された俺は、言葉を呪いのように感じていた。沈黙こそが、俺がこの世界に存在し続けるための唯一の術だった。
俺の住処は、忘れられたように静かな《囁きの森》。人々が失くした言葉の亡霊が、風に混じって囁くだけの場所。ここでは、呼吸の音、葉擦れの音、そして時折聞こえる獣の鳴き声だけが、俺の孤独な時間を彩っていた。意思の疎通は、身振り手振りと、炭で木の皮に描く拙い文字。それで十分だった。言葉を交わす相手もいないのだから。
その日、俺の世界の沈黙は、けたたましい音を立てて砕かれた。
「だれかいませんかー!道に迷っちゃったみたいなんですけどー!」
森の奥に不釣り合いなほど明るく、澄んだ声が響き渡った。まるで銀の鈴を無数にばらまいたような、途切れることのない言葉の連なり。俺は咄嗟に身を屈め、息を殺した。危険だ。あれは命を湯水のように垂れ流す、愚か者の声だ。
声の主は、すぐに俺の薬草畑の前に現れた。太陽の光を編んだような金色の髪を揺らし、好奇心に満ちた空色の瞳をした少女だった。彼女は俺を見つけると、ぱあっと顔を輝かせた。
「わ、人がいた!よかったぁ!あの、ここってどこですか?わたし、エコーって言います!あなたは?」
矢継ぎ早に放たれる言葉の礫。俺は全身に粟が立つのを感じ、後ずさった。一語、また一語と、彼女の命が削れていく音が聞こえるようで、恐ろしかった。俺は首を横に振り、口元に人差し指を当てる。話すな、と。
だが、少女――エコーは、俺の意図を全く理解しなかったらしい。
「あれ?もしかして、喋れないんですか?それとも、わたしが嫌い?ごめんなさい、急に大声出しちゃって。でも、本当に困ってたんです。朝からずっと歩きっぱなしで、お腹もぺこぺこで……」
彼女は言葉を止めない。それどころか、俺の沈黙を気遣うように、さらに多くの言葉を紡ぎ出す。俺は眩暈がした。彼女の存在そのものが、俺の築き上げてきた静寂の世界に対する冒涜に思えた。俺は背を向け、小屋の中に逃げ込もうとした。しかし、ぐぅ、と情けない音が、彼女の腹から鳴り響いた。
エコーは顔を真っ赤にして、お腹を押さえた。そのあまりにも無防備な姿に、俺の足が縫い付けられたように動かなくなった。
――あと、七百三十語。
そのうちの一語でも使えば、俺の命は確実に削れる。だが、この少女をこのままにはしておけない。俺は深く、深く息を吸い込み、喉の奥から、錆びついた言葉を一つ、絞り出した。
「……入れ」
たった二音。されど、それは俺にとって、命を削る決断だった。
第二章 重なる心、減りゆく言葉
エコーとの奇妙な共同生活が始まった。彼女は、まるで言葉の泉だった。朝、目を覚ませば鳥のさえずりを真似て歌い、俺が育てた薬草の一つ一つに名前をつけて話しかけ、夜には見たこともない街の様子や、星の物語を語って聞かせた。彼女の言葉は、乾ききった俺の世界に降り注ぐ恵みの雨のようだった。恐ろしいはずなのに、心地よかった。
俺はほとんど話さず、もっぱら聞き役に徹した。時折、どうしても必要な時だけ、単語を一つ、二つと口にする。エコーはそんな俺を不思議がりながらも、責めることはなかった。彼女は俺の沈黙を、俺という人間の個性として受け入れているようだった。俺が木の皮に文字を書けば、彼女はそれを覗き込み、楽しそうに笑った。
「リアン、っていうんだね!素敵な名前!ねえ、リアンは、どうしてそんなに静かなの?何か悲しいことでもあった?」
彼女の屈託のない問いに、俺は答えられない。本当のことを言えば、彼女を怯えさせてしまうだろう。俺はただ、静かに首を横に振った。俺の残りの言葉は、もう七百を切っていた。
エコーと過ごす時間は、俺の中に埋もれていた感情を呼び覚ました。誰かと食卓を囲む温かさ。他愛ない話に笑う楽しさ。彼女の金色の髪が夕陽に透けるのを見るたび、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。この感情に名前をつけるとしたら、きっと多くの言葉を費やさねばならないのだろう。だから俺は、その想いにも蓋をした。
ある嵐の夜、事件は起きた。激しい風雨が小屋を打ち、エコーは雷の音に怯えていた。そして、急に彼女が激しく咳き込み始めたのだ。触れた額は、燃えるように熱かった。彼女の呼吸は浅く、普段あれほど滑らかだった言葉も、途切れ途切れになっていた。
「リアン……なんだか、さむい……」
彼女の瞳から、光が失われていくのが分かった。森の薬草だけでは治せない。街の医者が必要だ。だが、街へ行くには森を抜け、人々と交渉しなければならない。それは、俺にとって死を意味する行為だった。
言葉を使わずに、どうやって助けを求めろというのか。
『助けてくれ』『娘が病気なんだ』『薬をください』
頭の中で言葉を組み立てるだけで、命がごっそりと削られる感覚に襲われる。怖い。消えたくない。父や母のように、誰にも覚えられていない存在になるのは嫌だ。
俺は熱に浮かされるエコーの顔を見つめた。彼女と出会ってから、俺の沈黙の世界は色づき始めた。彼女の言葉は、俺の中で死んでいた何かを蘇らせてくれた。この光を、失っていいのか? 俺が沈黙を守ることで、彼女の言葉が永遠に失われてしまうというのなら――。
俺の決断は、一瞬だった。
エコーを背負い、嵐の中へ飛び出した。足元のぬかるみに足を取られながら、俺は歯を食いしばる。
待ってろ、エコー。今、俺の言葉で、お前を助けてみせる。
俺の命と、引き換えにしてでも。
第三章 響き石の真実
街の灯りが見えた時、俺の体力は限界に近かった。医者の家の扉を叩く手は、震えていた。扉を開けた初老の医者は、ずぶ濡れの俺と、ぐったりとしたエコーを見て眉をひそめた。
「どうしたね、こんな時間に」
「……助けて、ください」
俺は喘ぎながら、言葉を絞り出した。五語。命の砂が、ざらりとこぼれ落ちる。
「この子が……熱で……」
四語。視界が白く霞む。
医者はエコーを診察台に寝かせ、手際よく診ていく。俺は壁に手をつき、荒い息を繰り返した。その時、医者の驚いたような声が響いた。
「……これは!このペンダントは……『響き石』じゃないか!」
医者はエコーの胸元で淡い光を放っている青い石を指差した。俺が初めて見るその石は、まるで呼吸をするように、明滅を繰り返している。
「響き石……?」
俺が聞き返すと、医者は興奮した様子で語り始めた。
「伝説の存在だ!この娘さん、人間じゃないぞ!響き石の精霊だ!」
精霊?俺は何を言われているのか理解できなかった。
「響き石は、人々が使わなかった言葉、忘れ去られた物語、伝えられなかった想いを吸収して、形を成すと言われている。彼女の生命は、我々とは逆なのだ。言葉を『聞く』ことで、その存在を維持する。彼女がおしゃべりなのは、それが本能だからではない。集めた言葉を外に放出し、循環させなければ、新たな言葉を取り込めないからだ!」
医者の言葉が、雷となって俺の頭を撃ち抜いた。
エコーは、言葉を消費して生きているのではなかった。言葉を糧として生きていたのだ。俺が彼女のそばで沈黙を守り続けたことが、静かな森に彼女を留めたことが、逆に彼女の命を蝕んでいた。彼女が弱っているのは、言葉が、物語が、圧倒的に不足していたからだった。
俺の価値観が、音を立てて崩壊した。
俺が命を削る呪いだと信じてきた「言葉」。それは、エコーにとっては命そのものを育む祝福だった。
守るべきものだと思っていた沈黙が、愛する者を殺しかけていた。
なんという皮肉。なんという無知。俺は、自分自身の孤独と恐怖に囚われるあまり、世界の真実を見ようともしていなかった。
「彼女を救う方法は一つしかない」
医者は俺の目を見据えて言った。
「彼女に、たくさんの言葉を聞かせるんだ。物語を語り、歌を歌い、愛を囁くんだ。君の心の奥底にある、ありったけの言葉を、彼女に注ぎ込むんだ。それが、彼女にとって最高の薬になる」
俺は、震える手で自分の胸を押さえた。ここには、まだ六百以上の言葉が眠っている。誰にも告げられず、ひっそりと死んでいくはずだった、俺だけの言葉たちが。
それらが、今、エコーを救う力になるというのか。
俺はぐったりと横たわるエコーの顔を見た。そして、静かに、しかしはっきりと頷いた。
第四章 君に捧ぐ、最後の物語
小屋に戻った俺は、眠り続けるエコーの手を握った。もう、言葉を惜しむ理由はなかった。恐怖も、後悔も、今はどこか遠くにあった。ただ、この温かい手を離したくないという想いだけが、俺を突き動かしていた。
「エコー、聞こえるか」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「俺は、リアンだ。君が素敵な名前だと言ってくれた。俺は、この名前が好きになったよ。君が呼んでくれるから」
ペンダントの光が、わずかに強くなった気がした。
俺は語り始めた。これまで誰にも話したことのなかった、俺自身の物語を。
言葉を使い果たして消えてしまった両親のこと。彼らが残してくれた、かすかな記憶。父が語った英雄譚、母が歌ってくれた子守唄。それらを思い出すたび、言葉が減るのが怖くて、必死に記憶の底に沈めていた想いたち。
「父さんはね、星の航海士の話が好きだった。夜空の星々が、実は巨大な船の灯りなんだって。そして、いつか一番星に乗って、世界の果てまで旅をするのが夢だったらしい」
「母さんの歌は、とても優しかった。月の光が、銀色の糸になって地上に降り注ぎ、それを紡いで夢の衣を織るっていう歌だ。俺は、その歌を聞きながら眠るのが好きだった」
俺は語り続けた。森で見つけた美しい花の名前。薬草畑を荒らすいたずらな狐の話。初めて君に会った時の驚きと、戸惑いと、そして……胸に灯った温かい光のこと。
「君の笑い声は、春の小川のせせらぎみたいだ。君の髪は、熟した麦の穂よりもきれいだ。君といると、俺の世界に色がつくんだ。エコー、俺は……君を、愛している」
その言葉を口にした瞬間、俺の体から何かがすっと抜け落ちる感覚があった。だが、不思議と怖くはなかった。むしろ、満たされていた。
言葉を紡ぐたび、俺の指先から体が、少しずつ透き通っていくのが分かった。輪郭がぼやけ、光の粒子が舞い始める。それに反比例するように、エコーの頬には血の気が戻り、呼吸は穏やかになっていく。彼女の胸の響き石は、真昼の太陽のように眩い光を放っていた。
もう、残りの言葉は少ない。
「……これが、俺の最後の物語だ」
俺は、ほとんど光だけになった体で、エコーに微笑みかけた。
「昔々、ある森の奥に、言葉を恐れる一人の男がいました。男は、沈黙こそが自分の命を守る唯一の方法だと信じていました。でもある日、太陽のような少女が彼の前に現れ、彼の世界を言葉で満たしてくれました。男は初めて、言葉が誰かを傷つけるだけでなく、誰かを救う力にもなることを知りました。彼は、自分のすべての言葉を、愛する少女に捧げることに決めたのです。男の体は消えてしまいましたが、彼の心は、彼の言葉は、少女の中で永遠に生き続けました。めでたし、めでたし……」
最後の言葉を紡ぎ終えた瞬間、俺の体は完全に光の粒子となり、ふわりと宙に舞った。粒子はエコーの体へと吸い込まれ、彼女の瞳がゆっくりと開かれた。
「……リアン?」
彼女は自分の名前を呼ぶ。その声は、かつての元気を取り戻していた。彼女は起き上がり、部屋を見渡す。そこにはもう俺の姿はない。しかし、彼女の空色の瞳には、確かな悲しみと、それ以上の決意の光が宿っていた。
リアンの存在は、世界から消えた。誰も彼のことを覚えてはいない。
ただ一人、彼の最後の物語を受け取った、響き石の娘を除いて。
エコーは小屋を出て、陽光の中へと歩き出した。彼女はこれから、世界を旅するだろう。そして、出会う人々に、多くの物語を語り聞かせるのだ。その中には、いつも一つの物語がある。
言葉を恐れた、心優しい墓守の物語。
彼の言葉は、彼女の中で生きている。彼の愛は、彼女の物語を通じて、世界に響き渡っていく。それは消滅ではなく、永遠の始まりだった。