第一章 色褪せた万華鏡
埃と古い羊皮紙の匂いが染みついた仕事部屋で、俺、カイは拡大鏡を覗き込んでいた。机上のビロードに鎮座するのは、小指の先ほどの乳白色の結晶。依頼人が昨日持ち込んできた「初めて我が子を抱いた日の記憶」だ。結晶の内部には、光の加減で揺らめく微細な亀裂が走っている。これは持ち主の記憶の混濁、すなわち後悔の念が混じっている証拠だった。
「…子供は、病で長生きできなかった、か」
呟きは、静かな部屋に虚しく響いた。俺の仕事は「記憶調律師」。人々が頭の中から取り出した記憶の結晶を調整し、不要な部分を削り、あるいは輝きを取り戻させる。時には、他人の記憶を買い取り、新たな体験を求める富裕層に売ることもある。この世界では、記憶は物理的な実体を持つ。嬉しい記憶は暖かな光を放つ宝石に、悲しい記憶は氷のように冷たい結晶になる。そしてそれらは、魂の欠片そのものであるにもかかわらず、パンやワインと同じように市場で取引されていた。
俺は、細い銀のノミを手に取ると、慎重に結晶の表面を削り始めた。後悔という名の亀裂を、丁寧に、少しずつ。作業に没頭していると、忘れることができた。俺自身の頭の中が、がらんどうの空洞であることを。俺には、物心ついた頃より前の記憶が、一片たりともない。まるで、生まれたての人間のように、過去という土台を持たずに宙に浮いている。だからこそ、この仕事に惹かれたのかもしれない。他人の記憶を覗き、疑似的な過去を体験することで、自分の空虚さを誤魔化してきた。
作業を終えた結晶は、一点の曇りもない完璧な輝きを取り戻していた。依頼人は満足するだろう。だが、俺の心は晴れない。どれだけ美しい記憶に触れても、それは所詮、借り物の光。俺自身の人生を照らす灯火にはなり得ない。
その日の午後、店の呼び鈴が寂れた音を立てた。入ってきたのは、深くフードを被った老婆だった。皺だらけの指先で、一枚の羊皮紙をカウンターに滑らせる。
「これを、探してほしい」
かすれた声だった。羊皮紙に書かれていたのは、常軌を逸した依頼内容だった。
『所有者不明の、純粋な“幸福”の記憶結晶を求む。悲しみ、後悔、嫉妬、いかなる負の感情の混濁もなき、ただ幸福そのものの結晶を』
馬鹿げている。記憶とは、常に複雑な感情の綾で織りなされているものだ。純度百パーセントの幸福など、神話の中にしか存在しない。俺は依頼書を押し返そうとした。だが、老婆が差し出した前金を見て、息を呑んだ。それは、金貨や宝石ではなかった。漆黒のビロードに包まれていたのは、一つの記憶結晶。不気味なほどに透明で、しかし内部には何も映らない、空っぽの結晶だった。
「それは…『空白の結晶』。俺の記憶が抜き取られた際にできた、魂の抜け殻だ」
「いかにも」老婆は頷いた。「依頼を果たせば、おぬしの記憶がどこにあるか、その手がかりをやろう。この『空白の結晶』が、その道標になるはずじゃ」
長年探し求めてきた、自分の過去への鍵。それは、拒むにはあまりにも甘美な罠だった。俺は、乾いた唇を舐めると、震える手でその依頼書を受け取った。この日から、俺の日常は、静かに、しかし確実に軋みを立てて崩れ始めた。
第二章 残響の市場
「純粋な幸福」を探す旅は、街の裏側、記憶が商品として雑然と並べられる「残響の市場」から始まった。ここは、合法非合法を問わず、あらゆる記憶結晶が取引される場所だ。ガラス瓶に詰められた「初恋のときめき」が色とりどりの光を放ち、木箱に無造作に詰められた「死の恐怖」が澱んだ冷気を漂わせている。売り手と買い手の怒号と囁きが混じり合い、奇妙な活気に満ちていた。
俺は情報屋を訪ね、馴染みの闇商人たちに話を聞いて回った。だが、誰もが「純粋な幸福の結晶」など聞いたことがないと首を横に振る。
「カイ、そいつは幻だ」旧知の闇商人は、酒臭い息を吐きかけた。「幸福ってのはな、必ず何かを失う痛みとセットなんだ。最高の美酒にだって、悪酔いってもんがついて回るだろう?」
彼の言う通りかもしれなかった。市場に並ぶ「幸福」と名の付く結晶を手に取ってみても、その輝きの奥には、必ずと言っていいほど微かな影が揺らめいていた。愛する人と結ばれた喜びには、いつか来る別離への不安が。大金を手にした興奮には、それを失うことへの恐怖が。人々の記憶は、光と影が複雑に絡み合ったタペストリーのようだった。
調査を進めるうち、俺はこれまで目を背けてきたこの世界の現実に直面することになった。ある裕福な貴族は、退屈しのぎに、貧しい少年が生まれて初めて海を見た感動の記憶を高値で買い漁っていた。記憶を売った少年は、その対価で家族の薬代を賄ったが、彼の瞳からはかつての輝きが永遠に失われていた。感動を奪われた魂は、色褪せた絵画のように生気をなくしていくのだ。
俺は、これまで自分がしてきた仕事の意味を問い直し始めていた。記憶を削り、磨き、売買する。それは、人の魂そのものを商品として切り売りしているのと同じではないのか。他人の記憶を覗き見てきた俺は、その記憶に宿る持ち主の痛みや重みを、本当に理解していたのだろうか。ただの光と影の集合体として、無感動に処理してきただけではないのか。
胸に冷たい何かが流れ込んでくるような感覚。それは、他人の記憶に触れすぎた者に起こる副作用、「残響」の始まりだった。俺の脳裏に、見ず知らずの子供の笑い声が響き、老婆の涙の味が舌の上で蘇る。俺という個の輪郭が、他人の記憶の奔流に侵食され、曖昧になっていく。それでも、俺は足を止めなかった。自分の過去を取り戻すためなら、どんな代償も払う覚悟だった。
数週間が過ぎた頃、ある老いた蒐集家から、一つの噂を耳にした。「街の外れに打ち捨てられた、巨大な絡繰り人形がある。その人形は、かつて『忘却の病』が流行った時代に、大切なものを守るために作られたという。その胸には、決して誰にも渡されることのなかった、特別な結晶が眠っているそうだ」
忘却の病。人々から次々と記憶が失われていったという、忌まわしい厄災。その言葉に、俺の心の奥底で何かが微かに疼いた。これだ。俺が探していた答えは、きっとそこにある。
第三章 絡繰り人形の心臓
街の外れ、忘れ去られた平原に、その絡繰り人形は天を突くように佇んでいた。錆びついた巨体は蔦に覆われ、まるで古の巨人そのものだった。風がその巨躯を吹き抜けるたび、悲しげな金属音が鳴り響く。俺は、その圧倒的な存在感を前に、しばし立ち尽くした。
内部に侵入する手段を探し、巨人の足元を調べる。やがて、苔むした装甲の隙間に、人一人がやっと通れるほどの隠された扉を見つけた。中は、無数の歯車と機構が複雑に絡み合った、静寂の迷宮だった。埃の匂いに混じって、なぜか懐かしい、甘い花の香りがした。
俺は、老婆から受け取った「空白の結晶」を取り出した。それは、この場所に近づくにつれて、微かな光を放ち始めていた。結晶の導きに従い、迷宮の中心へと進んでいく。そして、ついにたどり着いた。人形の心臓部にあたる巨大な空洞。その中央に、一つの結晶が厳かに安置されていた。
それは、これまで俺が見てきたどの結晶とも違っていた。大きさは人の頭ほどもあり、内側から溢れ出すような、純粋で温かな光を放っていた。悲しみも、後悔も、何一つ混じっていない。まさに「純粋な幸福」そのものだった。
俺は、吸い寄せられるようにその結晶に手を伸ばした。指先が触れた瞬間――世界が爆ぜた。
凄まじい情報の奔流が、俺の脳を焼き尽くさんばかりに流れ込んできた。それは、無数の人々の、幸福な記憶の断片だった。誕生日を祝われる子供の笑顔。恋人たちの口づけ。戦友と交わす酒杯。家族と囲む食卓。一つ一つが、かけがえのない、温かな光の粒だった。
そして、その奔流の中心に、一人の少女の姿が見えた。快活に笑う、そばかすの顔。俺は、その顔を知っていた。いや、忘れていただけだ。彼女は、幼い頃の俺の、たった一人の友人、リナだった。
記憶は続く。この街を「忘却の病」が襲った日々の光景。人々は昨日食べたものさえ忘れ、愛する人の顔さえ思い出せなくなり、絶望していった。リナは、病に侵されゆく人々を見て、決意したのだ。
「みんなの悲しい記憶は消えちゃってもいい。でも、幸せだった記憶だけは、私が守る!」
彼女は、禁じられた古の術を使い、人々の幸福な記憶だけを結晶として抜き取り、この絡繰り人形に集め始めた。それは、彼女自身の命を削る行為だった。そして、病の魔の手が、ついに俺にも伸びてきた。高熱にうなされ、記憶が混濁していく俺を前に、リナは泣きながら最後の決断を下した。
「カイの記憶が全部なくなっちゃうくらいなら…。私が、カイの全部を預かる!」
彼女は、俺の全ての記憶を結晶化して抜き取った。それが、俺が過去を失った理由。俺の「空白の結晶」は、彼女が俺を守ってくれた証だったのだ。
全ての記憶を集め終えた絡繰り人形の心臓部で、リナは力尽き、その姿は急速に老いていった。そう、あの依頼主の老婆は、未来のリナの姿だった。病と術の代償で自らの記憶さえ失いかけていた彼女は、最後に、自分が守り抜いた「純粋な幸福」を、もう一度だけ感じたかったのだ。俺に依頼したのは、かつての友人に、その最後を見届けてほしかったからに他ならない。
第四章 きみが守ったもの
現実へと意識が引き戻された時、俺の頬を熱いものが伝っていた。全てを思い出した。リナと駆け回った平原の匂い。二人で交わした、くだらない約束。彼女の笑顔。そして、俺の全てを奪うことで、俺の全てを守ってくれた彼女の、最後の涙。
俺はもう、記憶を商品だなんて思えなかった。この結晶に宿っているのは、リナが命を賭して守り抜いた、人々の魂そのものだ。
俺は工房に駆け戻った。そこには、老婆――リナが静かに椅子に座って俺を待っていた。その瞳は、もう俺のことさえ判別できないほどに混濁している。
「…見つかったかい? あの、きれいな…光は」
「ああ、見つかったよ、リナ」
俺は、彼女の手を優しく取った。皺だらけで、冷たくなった手。かつて、俺の手を引いてくれた、温かくて小さな手。俺は彼女を連れて、再び絡繰り人形の心臓部へと向かった。
そして、二人で、あの巨大な「幸福の結晶」にそっと触れた。
再び、温かな光が俺たちを包み込む。街の人々の無数の幸福な記憶。そして、俺とリナが共に過ごした、短いけれど、かけがえのない日々の記憶。リナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その混濁した瞳の奥に、一瞬だけ、かつての快活な少女の光が宿ったように見えた。
「…ああ、思い出した。カイ…、よかった、守れたんだね…」
それが、彼女の最後の言葉だった。彼女は、俺の腕の中で、満足げな、安らかな笑みを浮かべて、静かに息を引き取った。
俺は、失われた過去を取り戻した。しかし、それは、友の死という、あまりにも大きな代償を伴うものだった。空っぽだった俺の心は、温かい思い出と、胸が張り裂けそうなほどの悲しみで満たされていた。でも、不思議と、もう虚しくはなかった。
数日後、俺は「記憶調律師」の看板を下ろした。そして、その跡地に、小さな「記憶保管所」を建て始めた。人々が、自分の大切な記憶を金で売り買いするのではなく、安心して預け、いつでもその輝きを確かめに来られる場所。リナが命をかけて守ろうとしたものを受け継ぐことが、俺にできる唯一の償いであり、未来への誓いだった。
失われた時間は戻らない。けれど、これから生まれる新しい記憶を、誰もが慈しむことのできる世界を。絡繰り人形が見下ろす平原に立ち、空を見上げながら、俺はそう心に誓った。風が、リナが好きだった甘い花の香りを運んできた。