第一章 無臭の王女
俺の一族は、記憶を調香する。
他人様の過去に触れると、その情景が鼻腔をくすぐるのだ。歓喜は陽光を浴びた柑橘のように弾け、深い悲哀は雨に濡れた古い木々のように沈む。俺、リヒトは、その香りを嗅ぎ分け、再現することで生計を立てていた。人里離れた霧深い森の工房で、亡き人を偲ぶための「追憶の香水」や、幸せな瞬間を閉じ込めた「祝福の小瓶」を作る。それが俺の世界の全てだった。
しかし、俺は自分自身の過去の香りを、一度も嗅いだことがない。俺の記憶は、なぜか沈黙を貫いている。その欠落感が、常に胸の奥に冷たい澱のように溜まっていた。
その日、工房の扉を叩いたのは、王都から来たという壮麗な鎧の騎士だった。霧さえも彼を避けるかのような、厳格な気配。彼は、分厚い羊皮紙の勅令を広げた。
「記憶調香師、リヒト殿。王女エリアーナ様が、原因不明の眠りにおちておられる。あらゆる名医も、高名な魔導師も匙を投げた。残る望みは、貴殿のその異能のみ」
眠り病。よくある話だ。呪いか、あるいは心の病か。だが、騎士の次の言葉が、俺の日常を根底から揺るがした。
「王女様の記憶は……無臭なのだ」
無臭。ありえない。人が生きている限り、記憶の香りは常に綾をなして立ち上るものだ。赤子が初めて母の温もりを知った香り。少年が初めて挫折を知った鉄錆の香り。それらが幾重にも重なり、その人だけの香りを編み上げる。記憶が「無臭」であるなど、それは魂が空っぽであることと同義だった。
「成功の暁には、望むだけの褒賞を」
金には困っていない。名誉にも興味はない。だが、「無臭の記憶」という前代未聞の謎が、俺の心を捉えて離さなかった。それは、俺自身の空虚な過去と、どこかで繋がっているような気がしたのだ。俺は、生まれて初めて、霧の森を出る決意をした。
第二章 偽りの芳香
王宮は、作り物めいた香りに満ちていた。磨き上げられた大理石の冷たい香り、壁に飾られた絵画の油の香り、そして人々が纏う上等な香水の、計算され尽くした甘い香り。そのどれもが、俺の鼻には嘘っぽく感じられた。
案内された一室で、王女エリアーナは眠っていた。天蓋付きの寝台に横たわる姿は、まるで精巧な人形のようだった。雪のように白い肌、陽光を編んだような金色の髪。だが、彼女の周りだけ、時間が止まっているかのように、香りが存在しなかった。
俺は許しを得て、そっと彼女の手に触れた。指先から伝わるのは、微かな温もりだけ。意識を集中し、記憶の源流を探る。しかし、そこにあるのは完全な静寂と空白。嵐の後の凪いだ海ですらない。初めから何もなかったかのような、絶対的な「無」。
「王女様は、皆に愛される、太陽のようなお方でした」
涙ぐむ侍女長の記憶は、春の野花のように甘く、朗らかだった。
「いつも我らの先頭に立ち、その笑顔は我らを鼓舞した」
近衛騎士団長の記憶は、夏の草原を駆ける風のように、誇らしかった。
王も王妃も、誰もが口を揃えて、王女との輝かしい日々の記憶を語った。彼らから立ち上る香りは、どれも温かく、幸福に満ちていた。
だが、俺は奇妙な違和感を覚えていた。完璧すぎるのだ。あまりにも美しい記憶ばかりが、まるで念入りに配置された庭の草花のように、整然と並んでいる。人の記憶とは、もっと混沌としているはずだ。楽しい思い出の陰には、些細な後悔や、言えなかった一言の苦い香りが潜んでいるものだ。
彼らの記憶の香りは、どれも素晴らしい名画のようだったが、その絵には「影」が描かれていなかった。まるで、誰かが意図的に、都合の悪い部分だけを塗りつぶしてしまったかのように。
俺は王宮の隅々まで歩き、香りの痕跡を探した。厨房の香辛料の匂い、書庫の古い紙の匂い、馬小屋の乾いた藁の匂い。その無数の香りの中に、何か手がかりが隠されているはずだった。そして、何日も経ったある夜、俺は微かな、しかし無視できない香りの源流を突き止めた。それは、王宮の最も奥、固く閉ざされた扉の隙間から漏れ出ていた。人々が「忘れられた庭」と呼び、決して近づこうとしない禁断の場所から。
第三章 忘れられた庭の慟哭
その扉を開けた瞬間、俺は暴力的なまでの香りの奔流に襲われ、思わず膝をついた。
それは、絶望の香りだった。
降りしきる冷たい雨の匂い。引き裂かれた恋文のインクの滲む匂い。叶わぬ願いを呟く唇のかすかな甘さと、それをかき消す嗚咽の塩辛い匂い。そして、心の臓を直接握り潰されるかのような、鋭い痛みの香り。香りの一つ一つが、声なき慟哭となって俺の魂を揺さぶった。
庭は荒れ果て、枯れた茨がかつての噴水を覆っていた。そして、その中央に、全ての悲しみの香りを放つ源があった。一本の白樺の木。その幹には、古びた魔法印が刻まれ、そこから記憶の香りがとめどなく溢れ出していた。
俺は、震える手でその幹に触れた。瞬間、王女エリアーナの、封じられた記憶が奔流となって俺の中に流れ込んできた。
彼女は恋をしていた。身分も名もない、一人の若い庭師の青年に。この庭は、二人だけの秘密の場所だった。木漏れ日の下で交わした言葉の優しい香り。初めて触れた手の温もりの香り。未来を誓った口づけの、蜜のような香り。それらは、侍女や騎士たちの語った記憶よりも、ずっと生々しく、鮮やかだった。
だが、その恋は王に知られ、無慈悲に引き裂かれた。青年は国を追われ、王女は塔に幽閉された。彼女の流した涙が、この庭の土を濡らしたのだ。
眠り病の真相は、呪いなどではなかった。あまりの悲しみに耐えきれなくなった王女が、王家に密かに伝わる古代の記憶封印の魔法を使い、自らの手で、最も辛い記憶を切り離してこの庭に封じたのだ。
しかし、記憶とは複雑に絡み合った糸のようなもの。一本を無理に引き抜けば、他の全ての糸がその結びつきを失ってしまう。最も辛い記憶を捨て去った代償として、彼女は喜びも、怒りも、他の全ての記憶との繋がりを断たれ、魂が空っぽの「無臭」の状態になってしまったのだ。
王も、王妃も、家臣たちも、真実を知っていた。だが彼らは、王女の悲劇に蓋をし、彼女の「幸せだった部分」だけを記憶に留め、偽りの物語を語り続けることを選んだ。それが、彼らなりの歪んだ愛情だった。
俺は愕然とした。これまで美しい記憶だけを香水にしてきた自分の仕事は、彼らと同じだったのではないか。人の持つ痛みや悲しみから目を背け、心地の良い部分だけを切り取って慰み者にしてきたのではないか。悲しみも、苦しみも、その人を形作る、かけがえのない一部だというのに。俺の胸に溜まっていた澱の正体が、少しだけ分かった気がした。
第四章 夜明けの香り
工房に戻った俺は、何かに憑かれたようにガラス瓶と向き合った。王女を目覚めさせる方法は、一つしかない。封印された「悲しみの記憶」を、彼女の魂に返すことだ。しかし、それは彼女に再びあの絶望を味わわせることに他ならない。ただ悲しみだけを返せば、彼女の心は今度こそ砕け散ってしまうだろう。
俺は、「忘れられた庭」から持ち帰った、悲しみの記憶が凝縮された苔を乳鉢に入れた。そこに、俺が嗅ぎ取った、断片的な記憶のかけらを加えていく。
引き裂かれる直前、青年が彼女に贈った一輪の野の花。その、ほのかで健気な香り。
幽閉された塔の窓から、彼が逃げ延びたであろう森を見つめていた時の、夜明けの空気の香り。
そして、絶望の底で、それでも「いつかまた」と微かに願った、彼女自身の祈りの香り。
悲しみは消せない。だが、その中にも確かに存在した、ささやかな光や希望の香りを、極限まで研ぎ澄まし、増幅させる。それは、ただ過去を再現するだけの「記憶の香水」ではなかった。未来へ向かうための、一歩を踏み出すための「意志の香水」だった。
三日三晩、俺は眠らずに調香を続けた。そして、夜が白み始める頃、ついに一滴の液体が完成した。それは、雨上がりの森の匂いと、夜明けの光の匂いが溶け合ったような、どこまでも澄んだ、それでいて切ない香りをしていた。
再び王女の元へ赴き、完成した香水を浸した絹の布を、彼女の鼻先にそっとかざす。
香りが、彼女の魂に染み渡っていく。閉ざされていた記憶の扉が、軋みながら開いていく。彼女の眉がかすかに寄せられ、固く閉ざされていた唇から、小さな呻きが漏れた。やがて、その白い頬を、一筋の涙が伝った。
ゆっくりと、彼女の瞼が開かれる。その碧い瞳には、深い悲しみの色と、そして、夜明けの光のような、かすかな、しかし確かな意志の光が宿っていた。
「……思い出したわ。全て」
彼女はそう呟くと、静かに涙を流し続けた。それは絶望の涙ではなく、失われた自分自身を取り戻した、受容の涙だった。
俺は、褒賞も受け取らず、夜明け前に王宮を後にした。
霧の森へ帰る道すがら、俺は自分の胸に手を当てた。王女は、悲しみを抱えたまま、それでも前を向いて歩き出すだろう。ならば、俺は?
俺は、ずっと目を背けてきた、自分自身の「無臭の記憶」と向き合わねばならない。それがどんなに辛い香りを放っていたとしても、それこそが俺自身の一部なのだから。
朝日が霧を貫き、俺の顔を照らす。初めて嗅ぐ、自分自身の未来の香りを探す旅が、今、始まろうとしていた。