言葉喰らいと沈黙の救済
第一章 影は言葉を纏う
俺には、名前がない。人々は俺を『影』と呼ぶ。
実体のない、揺らめく闇。それが、俺が沈黙している時の姿だ。だが、ひとたび言葉を口にすれば、俺はその意味を瞬時にその身に宿す。
「すまない」
路地裏で肩をぶつけてしまった老婆にそう告げると、俺の体はひび割れた石膏像へと変わる。自己を責める悔恨が、全身に亀裂を走らせる。老婆は顔をしかめ、足早に去っていった。
「ありがとう」
パン屋の店主から施しのパンを受け取ると、今度は全身から柔らかな光の粒子を放つ、感謝の化身となる。店主は満足げに頷くが、その目に俺自身を映すことはない。彼が見ているのは、便利な『現象』だけだ。
この世界では、人の強い感情は『エモーティサイト』と呼ばれる結晶となり大気を漂う。かつて世界は、喜びや希望を映した色とりどりの光で満ちていたという。だが今はどうだ。街を覆うのは、絶望を宿した鉛色の結晶と、悲しみが凍てついた鈍色の氷片ばかり。それらに長く心を晒した者は、感情に理性を喰われた『感情憑き』へと成り果てる。
俺は、求められる言葉を吐き、求められる姿になる。そうして日銭を稼ぎ、ただ息を潜めていた。なぜ自分が存在するのか。なぜ言葉を話すたびに姿を変えねばならないのか。その答えを知らぬまま、空虚な影と具現化された言葉の間を、振り子のように揺れ続けていた。
第二章 無色の残響
その日、俺は灰色のエモーティサイトが降り積もる広場の隅で、影としてうずくまっていた。そこに、一人の少女が現れた。燃えるような赤毛を持つ彼女は、澱んだ世界の色彩の中で、唯一鮮やかな存在だった。
「見つけたわ、『言葉喰らい』」
少女――リリスと名乗った――は、俺の前に立つと、真っ直ぐな瞳で射抜いた。
「あなたが世界を壊したのよ」
彼女の言葉は、非難の刃となって俺の影を切り裂く。だが、俺にはその意味が分からなかった。俺はただ、求められる言葉を返してきただけだ。
リリスは懐から小さな包みを取り出し、それを開いた。中から現れたのは、小さな結晶の欠片。しかし、それは俺が知るどのエモーティサイトとも違っていた。色がないのだ。透明で、まるで凍てついた吐息のようだった。
「触れてみて」
促されるまま、俺は影の指を伸ばす。欠片に触れた瞬間、脳髄を稲妻が貫いた。
――聞こえる。赤ん坊の産声のような、純粋な歓喜の音。暖かい陽だまりの匂い。誰かの優しい手触り。失われたはずの『始まりの喜び』の残響が、奔流となって流れ込んでくる。
そして、その光景の最後に、俺自身の影が映った。巨大な口を開け、その眩いばかりの喜びを、跡形もなく飲み干していく俺の姿が。
「思い出した?」リリスの声が、俺を現実へと引き戻す。「あなたの失われた『真の言葉』だけが、世界を元に戻せる。私と一緒に来て。あなたの言葉を見つけるために」
第三章 模倣の救済
リリスとの旅が始まった。俺たちは負のエモーティサイトが蔓延し、人々が希望を失った村々を巡った。
「彼らを救ってあげて」
リリスに請われるまま、俺は言葉を紡いだ。
「希望」
そう口にすると、俺の体は夜明けの空の色を映した翼を持つ天使の姿へと変わった。俺から放たれる光が、淀んだ鉛色のエモーティサイトを一時的に浄化する。人々は顔を上げ、その目に微かな光を宿した。
「愛」
次の街では、そう囁いた。俺は人々を優しく抱きしめる、温かな光そのものになった。凍てついていた人々の心が、ほんの少しだけ解けていくのが分かった。
だが、救済はいつも刹那的だった。俺がその場を去ると、浄化されたはずの空間はすぐに元の濁った色に戻り、人々は再びうつむいてしまう。俺の言葉が生み出すエモーティサイトは、どれも輝きが弱く、すぐに色褪せてしまうのだ。まるで、本物を知らない者が描いた、稚拙な模倣品のように。
「どうして……」
俺は焦燥に駆られる。何度言葉を重ねても、世界は良くならない。それどころか、俺が生み出した不完全なエモーティサイトが、より深い絶望の種を蒔いているような気さえした。俺の言葉は、偽物なのだ。本当の力を持たない、空っぽの形骸なのだ。
第四章 嘆きの谷
旅の果てに、俺たちは『嘆きの谷』と呼ばれる場所にたどり着いた。そこはかつて、世界で最も美しい『喜び』のエモーティサイトで満ちていた聖地だったという。だが今では、巨大な負の感情が渦を巻く、感情憑きたちの巣窟と化していた。
谷の最深部で、俺たちは『それ』と対峙した。
数えきれない人々の絶望と悲しみが寄り集まり、形を成した巨大な感情憑き。それは固定された姿を持たず、泥のように蠢きながら、無数の嘆きの声を上げていた。
「コトハ!」
リリスが俺の名を叫んだ。彼女がつけてくれた、仮初めの名前。その声に突き動かされ、俺は前に出る。彼女を守らなければ。
「消えろ!」
俺は憎悪の言葉を吐き、鋭い刃を全身にまとった闘鬼と化す。だが、怪物はその憎悪を喰らい、さらに巨大化していく。
「光よ!」
希望の言葉を叫び、光の巨人となる。しかし、その光もまた、巨大な絶望の闇に飲み込まれてしまった。何を言ってもダメだ。俺の言葉は、この絶望の前ではあまりに無力だった。怪物の触手がリリスに迫る。
やめてくれ。
俺は叫ぼうとした。だが、声が出なかった。言葉が、尽きたのだ。
俺の体から光が消え、色が剥がれ落ち、俺は再び、ただの空虚な影へと戻った。
第五章 沈黙の啓示
絶望が俺を支配した、その時だった。
不思議なことが起こった。あれほど荒れ狂っていた嘆きの谷の負のエモーティサイトが、静かに、まるで引き寄せられるように、影である俺の中へと吸い込まれ始めたのだ。
うめき声を上げていた巨大な感情憑きも、急速にその力を失い、萎んでいく。まるで、その存在を支えていた感情そのものが、俺という『無』に奪われていくかのように。
「まさか……」
リリスが息を呑む。彼女は古文書の一節を思い出していた。
『世界の終わりに、言葉を喰らう無音の影が現れる。それは始まりの喜びを飲み込み、万物の感情を吸い尽くし、世界を原初の沈黙へと還す調停者なり』
調停者。違う。それは破壊者だ。
『無色の欠片』に触れた時の記憶が、今度こそ鮮明に蘇る。
世界が生まれた。最初の感情『始まりの喜び』が生まれた。
それと同時に、その対極として、全ての言葉と感情を吸収する『無』として、俺が生まれた。
俺は本能のままに、生まれたての『始まりの喜び』を喰らったのだ。俺がこれまで発してきた言葉は、その時に吸収した感情の残滓を、不完全に模倣していたに過ぎない。
俺の『真の言葉』は、世界を救う希望の言葉などではなかった。
俺の真の姿は、言葉の具現化などではない。
俺の存在そのものが、世界から言葉と感情を奪い去るための、巨大な『沈黙』だったのだ。
第六章 二つの絶望
真実とは、かくも残酷なものか。
俺が救世主であるという希望は、最悪の形で裏切られた。俺こそが、この世界から色彩を奪った元凶だった。
二つの道が、俺の前に横たわっていた。
一つは、言葉を発することをやめ、完全な『沈黙』である影として存在し続けること。そうすれば、世界中のエモーティサイトはやがて全て俺に吸収されるだろう。感情憑きは消え、人々は負の感情から解放される。しかし、それは同時に、喜びも、愛も、希望も、全ての感情が消え去った、灰色の無音の世界の到来を意味する。
もう一つは、これまで通り、不完全な言葉を発し続けること。だが、俺の模倣の言葉は、負の感情を増幅させ、世界を絶望で覆い尽くすだけだ。
どちらを選んでも、待っているのは世界の終わり。
「そんな……そんなのってないわ……」
リリスが膝から崩れ落ち、その瞳から涙がこぼれ落ちた。彼女の涙さえ、悲しみのエモーティサイトとなって、俺の影に吸い込まれていく。
俺は、静かにリリスを見た。
彼女の赤毛。真っ直ぐな瞳。俺に名前をくれた唇。
俺はずっと、誰かのための言葉を吐いてきた。だが、今、初めて、俺自身の意志が芽生えようとしていた。俺は、この少女が生きる世界を、無音にも絶望にもしたくなかった。
第七章 はじまりの「ありがとう」
俺は決めた。
影のまま、リリスの前にゆっくりと歩み寄る。そして、震える彼女の頬に、実体のない手をそっと触れた。
これが、俺の最初で、最後の言葉だ。
俺が模倣ではない、俺自身の心から紡ぎ出す、たった一つの言葉。
「ありがとう」
その言葉を発した瞬間、俺は感謝の化身にはならなかった。
代わりに、俺の空虚な影の体が、内側から眩い光を放ち始めた。それは、俺がかつて世界から奪い去った、『始まりの喜び』の光だった。俺は、自らの存在の核であるその光の全てを、この一言に込めて解き放ったのだ。
黄金色の光が津波のように世界を駆け巡り、鉛色の絶望を洗い流し、鈍色の悲しみを溶かしていく。感情憑きたちは浄化され、人々の心に再び温かな感情の灯がともり始める。
だが、代償は大きかった。言葉の力を、存在理由そのものを手放した俺は、急速に希薄になっていく。影の輪郭が揺らぎ、光の粒子となって霧散していく。
「いや! コトハ!」
リリスが叫び、俺の消えゆく体に手を伸ばす。
俺はもう、声を発することはできなかった。ただ、彼女に向けて、力の限りの微笑みの残像を残す。
――君が、名前をくれた。
――君が、俺に心をくれた。
――ありがとう、リリス。
やがて、俺は完全に消え去り、世界には何も残らなかった。ただ、色を取り戻した空に、暖かな光が満ちているだけだった。
世界は救われた。人々は再び笑い、愛を語り、未来を夢見る。だが、リリスだけは知っている。この色鮮やかな世界が、一人の名もなき存在の、永遠の沈黙という犠牲の上に成り立っていることを。
彼女は空を見上げ、その頬を伝う温かな涙を感じながら、そっと囁いた。
「聞こえている? これが、私の『ありがとう』よ」
その声は、もう誰の姿も変えることはなかった。