栞のない空
第一章 色褪せた街の幻影
俺、水月カイトの目に映る世界は、常に二重写しだ。灰色の石畳を歩く人々の肩越しに、彼らがなり得たかもしれない別の人生が、陽炎のように揺らめいている。ピアニストになった男、異国の地を旅する女、筆を握り続けた画家――それらは「失われた可能性」という名の、半透明な幻影だった。
この街の人々は皆、首から下げた「運命の栞」の残数を気にして生きている。幼い頃に配られる、生涯で試せる可能性の総数が刻まれた白銀の板。新しい挑戦は、その数を一つ減らす。数がゼロになれば、人は感情も思考も放棄した「無色透明な存在」と化す。だから誰もが栞を温存し、昨日と同じ今日を、今日と同じ明日をなぞるように生きていた。
そんな停滞した空気に、異変の亀裂が走ったのは、霧雨が街を湿らせていた日のことだった。広場のベンチに、一人の老人が座っていた。彼は「無色透明」になっていた。だが、奇妙なことに、彼の首にかかる栞の数字は、振り出しの「百」のまま減っていない。そして、彼の周囲には、通常とは比較にならないほど眩い光を放つ幻影――満員のホールで喝采を浴びる、偉大な指揮者の姿――が、まるで賛美歌を奏でるかのように漂っていた。
老人の冷たくなった手から、一冊の本が滑り落ちる。表紙には何の装飾もない。『空白の絵本』。それが、この街を覆う静かな狂気の始まりだった。
第二章 空白の頁が囁くもの
事件は連鎖した。栞の数を減らすことなく、人々が次々と無色透明になっていく。被害者の傍らには、決まって過剰に輝く幻影と、一冊の『空白の絵本』が残されていた。彼らは皆、かつて豊かな才能を持ちながら、栞を惜しんで挑戦を諦めた者たちだった。
俺は恐怖と好奇心に駆られ、被害者の一人が残した絵本を手に取った。ざらりとした表紙の感触。ゆっくりとページをめくると、真っ白な頁に、インクが滲むように一つの光景が浮かび上がった。イーゼルの前に立つ、若き日の俺の姿。それは、俺自身が捨て去った「画家になる」という可能性だった。胸の奥が鋭く痛む。
「一体、何が起きている……?」
答えを求め、俺は意を決した。最初の被害者、あの老指揮者の幻影に手を伸ばす。指先が幻に触れた瞬間――。
爆発的な光と音。ウィーンの黄金ホール、鳴り響くブラームス、総立ちの観客の熱狂。彼の輝かしい人生の断片が、奔流となって俺の意識に流れ込んできた。それは恍惚とするほどの体験だった。だが、代償は大きい。俺の首にかかる栞の数字が「九十二」から「九十一」へと、静かに一つ減った。俺自身の未来が、一つ消滅したのだ。体の芯が、急に冷たくなっていくのを感じた。
第三章 運命の栞の裏側
俺は街の古文書館に駆け込んだ。埃の匂いが鼻をつく静寂の中、震える指で「運命の栞」に関する資料をめくる。公式の記録はどれも、「世界の調和と個人の幸福を導くための指標」といった美辞麗句ばかりが並んでいた。だが、その記述はあまりに作為的で、まるで何かを隠しているようだった。
書庫の最奥、禁書指定された一角で、俺は一冊の古びた手記を見つけた。著者、エリオ・ヴァレンティン。数十年前、異端の説を唱えて姿を消した歴史家だ。彼もまた、俺と同じ能力を持っていたらしい。
ページをめくる手が、止まった。
『栞は導きの板などではない。それは、精巧に作られた“檻”であり、“収穫装置”だ。我々の「可能性」という名の果実を、最も熟した状態で摘み取るための……。奴らは、我々が選択を躊躇し、夢を温め、可能性を純粋な形で内に溜め込むのを待っているのだ。栞の数が減らない者こそ、最高の収穫対象となる』
手記から顔を上げると、窓の外の灰色の街が、巨大な農場のように見えた。俺たちは、見えざる管理者のために、自らの魂を肥えさせている家畜に過ぎなかったのか。
第四章 輝く幻影の正体
その夜、最悪の知らせが届いた。幼馴染のリーナが無色透明になった、と。
駆けつけた彼女の部屋には、甘い花の香りが満ちていた。彼女は、世界中の未知の植物を発見することを夢見ていたが、栞の数を気にして、この小さな街の植木屋で満足していた。彼女の亡がらの周りには、アマゾンの奥地で新種の光る蘭を発見する、偉大な植物学者となったリーナの幻影が、星屑のように輝いていた。
「リーナ……」
悲しみと、やり場のない怒りがこみ上げる。俺は、彼女の輝く幻影に、迷わず触れた。
熱帯雨林の蒸れた空気、色鮮やかな鳥の声、そして、暗闇に青白く発光する蘭を見つけた瞬間の、純粋な歓喜。だが、その記憶の最後に、俺は見てしまった。リーナの魂から伸びる金色の糸が、彼女の首にかかる栞に吸い込まれていく光景を。栞は、彼女の最も純粋な可能性のエネルギーを、根こそぎ吸い上げていた。
輝く幻影の正体は、搾取され、濃縮された「可能性のエネルギー」そのものだった。そして『空白の絵本』は、そのエネルギーを一時的に溜め込み、どこかへ転送するための受信機なのだ。
すべてを理解した。これは事故ではない。計画的な「収穫」だ。俺は固く拳を握りしめた。こんなシステム、終わらせてやる。たとえ、どんな代償を払うことになっても。
第五章 無色の決意
エリオの手記には、続きがあった。
『システムには欠陥がある。収穫装置である「絵本」は、外部からのエネルギー干渉に極めて脆い。もし、膨大な可能性のエネルギーを逆流させることができれば、中枢システムを破壊できるかもしれない。だが、それには……一人の人間が持つ未来のすべてを捧げる必要があるだろう』
道は、一つしかなかった。
俺は、街で発見されたすべての『空白の絵本』を集め、街の中心にそびえる大時計塔へと向かった。そこが、この街全体の栞システムを管理する中枢だ。
時計塔への階段を上る俺の周囲を、これまで見てきた無数の幻影たちが取り囲むように漂っていた。ピアニスト、冒険家、詩人、そしてリーナ。彼らの無念の光が、俺の背中を押しているようだった。
頂上にたどり着く。眼下には、何も知らずに保守的な日常を繰り返す人々が見える。彼らに、真の選択の自由を。栞に縛られない、無限の可能性が広がる空を。
「見ててくれ、リーナ」
俺は、積み上げた絵本の一番上に手を置き、自らの栞を見つめた。残数は「九十一」。俺は静かに目を閉じた。
第六章 栞のない空へ
俺は、街に漂う輝く幻影たちに、次々と手を伸ばした。
指揮者の喝采、画家の情熱、冒険家の興奮。
触れるたび、彼らの鮮烈な人生が俺を満たし、同時に俺の未来が一つ、また一つと確実に削り取られていく。栞の数字が凄まじい速さで減っていく。八十、五十、三十……。肉体が引き裂かれるような痛みと、魂が燃え尽きるような感覚。
十、五、三……。
最後に、俺は自分自身の幻影と向き合った。キャンバスの前で微笑む、若き日の俺の姿に。それは俺が最も恐れ、最も焦がれた可能性だった。震える指で、その幻影に触れる。
―――閃光。
絵本が絶叫のような光を放ち、時計塔の頂上から天へと突き抜けた。衝撃波が世界を駆け巡り、街中の、いや、世界中の人々の首にかかっていた「運命の栞」が、一斉に光の粒子となって砕け散った。
人々は空を見上げる。何が起きたのかわからず戸惑い、やがて、自らを縛っていた見えない鎖が消えたことに気づき、歓声を上げた。
俺の栞の数字は、ついに「ゼロ」になった。
視界から、人々の周りにあった幻影が消える。世界の色彩が急速に失われ、音も、匂いも、遠ざかっていく。俺はゆっくりと地面に膝をつき、変わりゆく世界を、その目に焼き付けた。悪くない。彼らがこれから描いていく未来は、きっと、俺が見たどんな幻影よりも鮮やかなはずだ。
意識が薄れる中、俺の表情には、静かな満足感が浮かんでいた。
俺が手放した『空白の絵本』が、カタン、と音を立てて開く。
その最後のページには、一枚の絵が描かれていた。
あらゆる束縛から解き放たれ、無限の可能性が広がる青空へと、力強く羽ばたいていく、色とりどりの鳥たちの絵が。