第一章 褪せた音色のプレリュード
神保町の古書店『時の葉叢(ときのはむら)』の店主である私、水無月音葉(みなづき おとは)にとって、記憶とは聖域であり、忘却は最も恐れるべき冒涜だった。店に並ぶ古書の一冊一冊が、誰かの記憶の断片であり、紙魚(しみ)の這った跡すら、過ぎ去った時間の証言者に思えた。だから私は、日々の出来事を万年筆で詳細に日記へ綴る。インクの染み一つ、誤字一つ許さない。それが、移ろいゆく現実に対する、私なりのささやかな抵抗だった。
その日、私の聖域に、静かな亀裂が入った。店のドアベルが、悲鳴のような乾いた音を立てた。そこに立っていたのは、常連客の老ヴァイオリニスト、マエストロ・響(ひびき)の付き人だった。彼の顔は血の気を失い、まるで幽霊でも見たかのように震えていた。
「先生が……響先生が、弾けなくなったんです」
私は彼を店内に招き入れ、落ち着かせようとハーブティーを淹れた。湯気とともに立ち上るカモミールの柔らかな香りが、彼の強張った肩をわずかに解きほぐす。
「弾けない、とは? 指を怪我でもされたのですか?」
「いえ、違います。もっと……恐ろしいことなんです」
付き人の話は、にわかには信じがたいものだった。今朝、マエストロはいつものように愛器のストラディヴァリウスを手に取った。しかし、弓を構えたまま、彫像のように固まってしまったという。彼は、自分が長年連れ添ってきたはずの楽器の弾き方を、完全に忘れてしまっていた。それだけではない。彼の代名詞であり、亡き妻に捧げた鎮魂曲『追憶のソナタ』に関する一切の記憶――作曲した時の情景、楽譜に込めた想い、幾度となく聴衆を涙させた演奏の記憶――そのすべてが、まるで朝霧のように彼の精神から消え失せていたのだ。
「医者は、急性の記憶障害だろうと。しかし……あまりに局所的すぎる。まるで、誰かにその記憶だけを、ごっそりと抉り取られたみたいだ、と」
付き人は声を震わせた。警察も取り合ってくれなかったらしい。何一つ盗まれていないのだから、事件にはならないと。ただ一つ、マエストロの書斎には、奇妙なものが残されていたという。それは、黒く変色し、完全に水気を失った一輪の梔子(くちなし)の花。まるでミイラのように、形だけを留めた死骸だった。
私は言いようのない悪寒に襲われた。記憶が、盗まれる? 馬鹿げている。だが、私の本能が警鐘を鳴らしていた。忘れることへの病的な恐怖が、この奇怪な出来事と共鳴し、私の心をざわつかせる。
その夜、私は自分の日記を開いた。インクの匂い、紙の質感。そこに記された過去の記録だけが、私が私であることを証明してくれる。マエストロ・響の虚ろな瞳を思い浮かべながら、私はペンを走らせた。『記憶は、物理的な実体を持たない。ならば、それを盗むことなど、果たして可能なのだろうか?』。その問いは、答えのないまま、インクの染みとなってページに沈んでいった。
第二章 無香のカンヴァス
マエストロ・響の事件から一週間が過ぎた。彼は施設に入り、子供のようにヴァイオリンの持ち方から学び直しているという。その姿は、まるで分厚い本から最も重要な章だけが破り取られてしまったかのようだった。私は、あの枯れた梔子のことが頭から離れず、独自に調べ始めた。だが、手がかりは何もない。それはまるで、実体のない影を追いかけるような、虚しい試みだった。
そんな折、第二の事件が起きた。今度の被害者は、新進気鋭の画家、彩峰ルイ(あやみね るい)。彼の代理人を名乗る女性が、私の店を訪ねてきた。彼女の口から語られた話は、マエストロのケースと不気味なほど酷似していた。
彩峰ルイは、先日の美術展で大賞を受賞した作品『原初の叫び』を描いた時の記憶を、完全に失ってしまったという。あの燃えるような情熱も、カンヴァスの上で絵の具を重ねた時の恍惚も、完成した瞬間の達成感も、すべて。彼は今、自分の最高傑作を前にして、「これは本当に私が描いたのか?」と、他人事のように呟くだけらしい。
「何か、現場に変わったことはありませんでしたか?」
私は唾を飲み込み、尋ねた。代理人の女性は、一瞬ためらった後、小さな声で答えた。
「……警察には馬鹿にされたのですが。彼のアトリエのイーゼルの足元に、枯れた花が、一輪」
梔子だ。そう確信した。今度の花もまた、全ての生命力を吸い取られたかのように、黒く縮こまっていたという。犯人は同じだ。この犯人は、人の人生において最も輝かしい、かけがえのない記憶だけを狙って盗んでいる。「記憶泥棒」とでも呼ぶべきか。
私は、二人の被害者に共通点がないか探った。年齢も性別も職業も違う。だが、一つだけ奇妙な符合を見つけた。二人とも、最近、ある調香師にオーダーメイドの香水を作ってもらっていたのだ。その調香師の名は、時任馨(ときとう かおる)。彼の工房は、私の古書店からほど近い、路地裏にひっそりと佇んでいた。
私は時任の工房を訪ねた。古民家を改装した店内には、幾千もの小瓶が並び、様々な香りが混じり合って、不思議な調和を生み出している。奥から現れた時任は、色素の薄い髪と、全てを見透かすような静かな瞳を持った、中性的な青年だった。
「お客様の記憶を、香りで表現する。それが私の仕事です」
彼は穏やかな口調で言った。マエストロ・響には『追憶のソナタ』の記憶を、彩峰ルイには『原初の叫び』の記憶を、それぞれ香りで再現してほしいと依頼されたという。
「しかし、お二方とも、完成を待たずに依頼を取り下げられました。まるで……その記憶自体に興味を失くしてしまったかのように」
時任の話には、矛盾はなかった。だが、彼の店の隅に置かれたガラスケースの中に、それを見つけた時、私の心臓は氷のように冷たくなった。ケースの中には、黒く枯れた梔子の花が、まるで標本のように飾られていた。その隣には、『褪せた音色のプレリュード』と記された小さなプレートが添えられている。
「これは……?」
「失敗作ですよ」
時任は静かに微笑んだ。「香りを抽出しようとして、しくじったんです。生命力と一緒に、香りまで消えてしまった」
その微笑みが、私にはひどく歪んで見えた。彼の瞳の奥に、暗く、満たされない渇望のようなものが渦巻いているのを感じた。
第三章 思い出が香る場所
店に戻った私は、言いようのない不安に駆られ、自分の日記を片っ端から読み返し始めた。何か、何か忘れていることがある。時任馨という名前に、あの枯れた梔子の姿に、私は既視感を覚えていた。それは、私の記憶の深い場所に栓をされた、開けてはならないパンドラの箱のようだった。
そして、見つけてしまった。十年前、私がまだ高校生だった頃の日記。その一冊だけ、中央の数ページが、カッターナイフで切り取られたかのように、不自然に失われていた。なぜ? 私はこんな冒涜的な行為をするはずがない。自分で自分の記憶を抹消するなんて。
その瞬間、私の頭を、閃光のような痛みが貫いた。
雨の匂い。金属の軋む音。そして、私の名前を呼ぶ、か細い声。
『音葉ちゃん、大丈夫……?』
血の海の中に横たわる、少年。彼の制服の名札には、『時任馨』と書かれていた。
そうだ、思い出した。私と時任君は、幼馴染だった。十年前のあの日、私たちは下校途中にトラックにはねられた。私は軽傷で済んだが、彼は頭を強く打ち、長い間、意識が戻らなかった。そして……彼が目を覚ました時、彼は自分の名前以外の、すべての記憶を失っていた。家族の顔も、友達だった私のことも、幸福だった過去の全てを。
切り取られた日記のページは、私が書いたものではなかった。きっと、事故のショックで不安定になった私を見かねた両親が、あまりに辛い記憶を封印するために、破り捨てたのだ。忘れることへの私の恐怖は、この出来事に起因していた。大切な友人が、目の前で記憶という存在そのものを奪われるのを見た、あの絶望的な光景から。
私は再び時任の工房へ走った。ドアを開けると、そこには時任が一人、静かに立っていた。彼の前には、調香台と、一つの空の小瓶。そして、一輪の、瑞々しい梔子の花。
「待っていたよ、音葉ちゃん」
彼は、昔と同じように、私の名前を呼んだ。
「君が全てを思い出すのを、ずっと。僕が記憶を失ったあの日、君は僕の手を握って泣いていた。その時の君の悲しそうな顔だけが、僕に残された唯一の『感情』なんだ」
時任は、事故の後、感情そのものを失ってしまったのだという。喜びも、悲しみも、愛しさも、何も感じられない。彼は、他人の最も輝かしい記憶を奪い、それを特殊な技術で「香りの標本」にすることで、失われた感情の輪郭を確かめようとしていたのだ。彼が開発したその技術は、対象の記憶と強く結びついたシナプスを、特殊な超音波と香りの分子で刺激し、記憶情報だけを破壊、抽出するものだった。枯れた花は、記憶を吸い出された後の、精神の抜け殻だった。
「最後は、君の記憶が欲しかった」
時任は、私を見つめて言った。
「僕と過ごした、楽しかった幼い日々の記憶。それを僕がもらえば、僕は少しでも、昔の僕に戻れるかもしれない」
彼の瞳からは、涙の代わりに、無色透明な渇望が零れ落ちていた。
私は、恐怖を感じなかった。むしろ、深い哀れみと、そして、長い間忘れていた彼への親愛の情が、胸に込み上げてきた。私は一歩前に進み、彼の前に置かれた梔子の花に、そっと手を伸ばした。
「いいよ、馨君。私の記憶、あげる」
私の覚悟に、時任の目が大きく見開かれた。
「その記憶をあなたが持つことで、少しでもあなたの心が温かくなるのなら。でも、覚えていて。記憶はガラスケースに飾る標本じゃない。それは、誰かと分かち合うことで、新しく生まれて、育っていくものなのよ」
私は、彼が記憶を失った後、彼を見舞うのが怖くて、足が遠のいてしまったことを告白した。忘れてしまった彼に会うのが、忘れられてしまった自分を知るのが、怖かったのだ。もし、あの時、私が逃げずに彼と向き合い、新しい思い出を一緒に作ろうとしていたら。
私の言葉に、時任の手が微かに震えた。彼は、ゆっくりと調香台から手を離し、その場に崩れ落ちた。彼の頬を伝ったのは、十年ぶりに流す、本物の涙だった。
時任馨は自首し、彼の奇妙な犯行は幕を閉じた。マエストロ・響も、画家の彩峰ルイも、失った記憶が戻ることはなかった。しかし、彼らはそれぞれの場所で、新たな一歩を踏み出していた。マエストロは、子供たちにヴァイオリンを教えることに喜びを見出し、彩峰ルイは、白紙になったカンヴァスに、再び新しい世界を描き始めた。喪失は、必ずしも終わりではなかった。それは、新しい物語の始まりでもあったのだ。
私の古書店『時の葉叢』には、今も多くの人が訪れる。私はもう、日記をつけていない。代わりに、ここを訪れる人々と、言葉を交わし、物語を分かち合う。記憶は紙の上に記録しなくても、こうして誰かの心へと受け渡されていくのだと、今は知っているから。
店の窓辺には、小さな鉢植えが一つ置かれている。それは、時任君から届いたものだ。時折、その鉢植えから、ふわりと梔子の香りが漂うことがある。それは、過去の思い出の香りではなく、未来への、ささやかな希望の香りがした。