「当ライブラリの規則です。故人の記憶への過度な干渉は、閲覧者自身の精神に影響を及ぼす可能性があります。閲覧は、指定された時間内でお願いします」
新米の記憶司書(メモリー・ライブラリアン)である僕、水上蓮(みずかみ れん)は、硬い声で告げた。目の前に座る女性、有馬沙織は、ガラスのように儚い表情でこくりと頷いた。彼女の父であり、世界的な物理学者であった有馬泰介教授が、三日前に自室で亡くなった。警察は、鍵のかかった密室での状況から、早々に自殺と断定した。しかし、彼女は納得していなかった。
「父は、自殺なんてしません」
沙織の依頼は一つ。父の死の直前の記憶を、共に閲覧してほしい、というものだった。
真っ白な閲覧室。ヘッドギアを装着すると、僕たちの意識は、故人の記憶データへとダイブした。
視界が切り替わる。そこは、膨大な書物に囲まれた有馬教授の書斎だった。窓の外は夜の帳が下りている。僕たちは、教授の視点を通して世界を見ていた。彼の目は、数式で埋め尽くされたホワイトボードに注がれている。その表情筋の微細な動きから伝わるのは、絶望ではなく、むしろ歓喜だった。長年の研究が、ついに実を結んだ瞬間の、純粋な高揚感。
「やはり……」沙織の呟きが、思考音声として僕の頭に響く。「父は、何かを成し遂げたんです」
記憶の中の教授は、満足げに息をつくと、デスクの上のコーヒーカップに手を伸ばした。湯気の立つ、淹れたてのコーヒー。それを一口飲んだ瞬間――。
ぷつり。
記憶は、そこで途切れていた。まるで古い映画のフィルムが焼き切れたかのように。
「……おかしい」僕は思わず呟いた。「死因は急性心不全と聞いています。もしそうなら、激しい苦痛や意識が薄れていく感覚が記録されるはずです。こんな風に、突然シャットダウンするなんて」
「何か、見落としていることがあるはずです」沙織は諦めなかった。「もう一度、お願いします」
僕たちは、何度もその瞬間をリピートした。コーヒーを飲む。記憶が途切れる。何度見ても同じだ。犯人が入り込む隙間など、どこにもない。完全な密室、そして教授自身の記憶にすら、犯人は存在しないのだ。
諦めかけたその時、僕は些細な違和感に気づいた。教授がカップを口に運ぶ、ほんのコンマ数秒。カップから立ち上る湯気が、一瞬だけ不自然に揺らいでいる。まるで、目に見えない何かが空気を掻き乱したかのように。
「これは……」
僕は記憶再生の速度を極限まで落とし、その瞬間を拡大した。0.1秒、0.01秒、0.001秒……。すると、信じられない光景がそこに現れた。
湯気の揺らぎと同期して、コーヒーの液面に、一粒の微細な結晶が落ちるのが見えた。人間の認識限界を遥かに超えた速度で投下された、無味無臭の即効性の毒物。これなら、教授自身が認識する前に、その心臓を停止させることができる。
だが、誰が? どうやって?
僕は沙織に告げた。「教授は、タイムマシン理論の第一人者でしたね」
「ええ。でも、理論は未完成だったはず……」
「もし、完成していたとしたら?」
僕の脳裏に、一つの恐ろしい仮説が浮かび上がった。犯人は、この部屋の”外”から来たのではない。時間の”外”から来たのだ。
「犯人は、未来から来た人間です。ごく短時間だけ過去に干渉する技術を使い、教授が認識できない一瞬の隙を突いて毒を盛った。だから、記憶にも痕跡が残らなかったんです」
沙織は息を呑んだ。「そんな……。誰が、父を……?」
その答えを探すため、僕たちは教授の記憶をさらに遡った。研究日誌を付けていた記憶。そこには、断片的ながら、奇妙な記録が残されていた。数式に混じって、走り書きされたメモ。
『未来からの警告。理論を公表するな』
『彼らは、私を止めに来る』
『世界の崩壊か、私の死か』
そして、最後の日記には、こう記されていた。
『決めた。未来を救うために。私を殺せるのは、世界でただ一人しかいない』
ぞくり、と背筋が凍った。パズルのピースが、恐ろしい形で組み上がっていく。
教授を殺せたのは誰か? 完璧な密室を作り上げ、教授自身に気づかれずに毒を盛り、痕跡一つ残さず消え去ることができる人物。
そんな芸当が可能なのは、ただ一人。
「犯人は……」僕は、言葉を詰まらせながらも、沙織に告げた。「未来の、有馬教授自身です」
彼女は目を見開いた。
「教授は、自らの理論が未来に破滅的な結果をもたらすことを、未来の自分からの警告で知ったのです。理論の公表を阻止する唯一の方法は、理論を完成させた過去の自分を消すことだった。彼は未来からやって来て、”自殺”に見せかけて自分を殺害した。愛する娘であるあなたに、殺人犯の父という汚名を着せないために」
沙織の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは絶望の涙ではなく、父の壮絶な覚悟を理解した、誇りと悲しみの涙だった。
閲覧を終え、真っ白な部屋に戻った僕たちは、しばらく無言だった。
「父の記憶は……」沙織が口を開いた。「封印してください。世界を救った英雄として、静かに眠らせてあげたいんです」
「……承知しました」
沙織が退室した後、僕は一人、閲覧システムの管理ログを確認した。有馬教授の記憶データへのアクセス記録。そこには、僕と沙織の名前が並んでいた。だが、そのリストの一番上に、一瞬だけ、ありえない記録が点滅して消えたのを、僕は見逃さなかった。
【閲覧者: 有馬 泰介 / アクセス日時: 2077年 10月 23日】
それは、五十年後の未来の日付だった。未来の教授は、自らを殺す前に一度だけ、過去の自分の最後の記憶を閲覧しに来ていたのだ。何を想い、彼は自分の最期を見届けたのだろうか。
僕は静かにログを閉じ、この奇妙で切ない密室殺人事件のファイルを、永久に封印した。
封印された記憶
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