その知らせが橘朔也(たちばな さくや)のもとに届いたのは、冷たい雨がアスファルトを叩く深夜だった。警視庁の古馴染み、相田刑事からの無遠慮な着信音は、決まって厄介事の合図だ。
「先生、またお力をお借りしたい」
電話の向こうで、相田が疲労の滲む声で言った。
現場は、ノーベル賞候補とまで謳われた物理学者、新堂誠一郎博士の自宅書斎。内側から鍵とチェーンがかけられた完全な密室で、博士は胸にナイフを突き立てて死んでいた。
「状況は限りなく自殺に近い。ですが、監察医は『刺創の角度から自傷は考えにくい』と。それに、動機が何一つ見当たらないんです」
相田の説明に、橘は静かに頷いた。彼の職業は「記憶鑑定士」。特殊な装置を使い、死後間もない人間の脳から、死の直前の記憶を映像として取り出す専門家だ。それは捜査の最終手段であり、死者のプライバシーを暴く禁断の果実でもあった。
「始めましょう」
橘の低い声が、静まり返った書斎に響く。助手が新堂博士の頭部にヘッドギア型のスキャナーを装着し、橘はモニターの前に座った。スイッチを入れると、ノイズ混じりの映像がゆっくりと像を結び始める。それは、紛れもなく博士自身の視点からの映像だった。
『――これで、ようやく……』
博士のかすれた声が聞こえる。映像は書斎の中を映している。机の上の論文、窓の外の雨、そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる人影。橘と捜査員たちが息をのむ。犯人の顔が映る、その瞬間――。
映像の中の博士は、ふっと息を吐くと、机に置いてあったペーパーナイフを自らの手で掴んだ。そして、何のためらいもなく、その切っ先を自身の胸に突き立てたのだ。ぐらりと揺れる視界。最後に映ったのは、血に濡れた自分の手と、満足げに歪んだ自身の口元だった。
そこで映像は途切れた。
「……自殺、じゃないか」
誰かが呆然と呟いた。相田も言葉を失っている。これ以上ないほど明確な「自殺の証言」だった。だが、橘の鋭い目はモニターの一点を見つめていた。
「相田刑事、もう一度、最後の10秒を再生してください。0.5倍速で」
言われるがままに部下が映像を巻き戻す。スローモーションで再生される、博士が自らを刺す場面。
「……おかしい」
橘が呟いた。
「何がです、先生?」
「三つ、奇妙な点があります。一つ目、博士の表情。人間がこれほどの傷を自ら負うなら、激しい苦痛か恐怖に顔が歪むはずです。しかし、彼の口元は……まるで安堵しているように見えませんか?」
画面に映る博士の顔は、確かに穏やかですらあった。
「二つ目。机の隅にあるデジタル時計を見てください。彼がナイフを掴む直前、コンマ数秒だけ表示が乱れている」
指摘されて初めて、刑事たちは画面の隅のわずかなノイズに気づいた。
「そして、三つ目にして最大のおかしな点。博士は死ぬ直前、自身の胸ではなく、一瞬だけ天井の換気口に視線を送っています。まるで、そこに誰かがいるとでも言うように」
橘は席を立ち、天井の換気口を指差した。
「あれを調べてください。おそらく、犯人はそこにいた」
相田の指示で、鑑識が換気口のカバーを外す。中から出てきたのは、手のひらサイズの奇妙な装置だった。
「犯人は、新堂博士の助手、長谷川さん。あなたですね」
橘の視線が、書斎の隅で静観していた若い男に突き刺さる。長谷川は一瞬肩を震わせたが、すぐに平静を装った。
「何を馬鹿な。僕は博士を尊敬していました。それに、映像が自殺だと証明している!」
「ええ、映像は。ですが、その映像こそがトリックだった」
橘は冷ややかに言った。
「博士が密かに研究していたテーマは『ブレイン・マシン・インターフェース』。脳と機械を直接接続する技術です。しかし、博士が本当に恐れていたのは、その技術の悪用……すなわち、他人の脳を遠隔でハッキングし、意のままに操る『記憶と身体の乗っ取り』でした。犯人はその未発表の技術を盗み、博士を殺害したのです」
橘は換気口から見つかった装置を手に取った。
「犯人は隣室からこの装置を使い、換気口を通して博士の脳に干渉した。博士の視覚を乗っ取り、身体を操り、彼自身の手で命を絶たせた。だから記憶映像は『自殺』に見えた。デジタル時計のノイズは、強力な電磁波による影響でしょう。しかし、博士は最期の瞬間、意識の片隅で抵抗した。操られながらも、犯人の居場所を示すために、必死で換気口に視線を送ったんです。あれは彼が遺した、最後のダイイング・メッセージだったんですよ」
長谷川の顔から血の気が引いていく。やがて彼は崩れるようにその場に膝をついた。完全犯罪は、死者が遺した最後の証言によって、鮮やかに暴かれたのだ。
事件は解決した。だが、橘の心は晴れなかった。人の記憶を覗き、真実を暴く。それが彼の仕事だった。しかし、その記憶すらもが偽造されうる時代が来たのだ。雨上がりの街を見下ろしながら、橘は新たなミステリーの時代の幕開けを、静かに感じていた。
記憶鑑定士と最後の証言
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