***第一章 週末の訪問者、あるいは幻の詩集***
古書店「時の栞」の扉を開けるベルの音は、埃っぽい静寂に慣れた僕の耳には、いつも少しだけ唐突に響く。柏木蒼太、三十二歳。亡き祖父からこの店を継いで五年。僕の世界は、背表紙の焼け付いたインクの匂いと、ページをめくる乾いた音だけで満たされていた。人付き合いは、本ほど得意じゃない。
その女性、水瀬遥さんが初めて店に現れたのは、冷たい雨がアスファルトを濡らす土曜日の午後だった。すらりとした体に、落ち着いた色合いのワンピース。彼女がそこに立つだけで、時間の止まったようなこの店の空気が、ふわりと揺らぐ気がした。
「あの、お探ししている本があるのですが」
透き通るような、けれどどこか芯のある声だった。彼女が差し出したメモには、几帳面な文字でこう記されていた。
『零れる砂の歌』 月読しおり 著
聞いたことのない詩集だった。月読(つくよみ)しおり、という詩人の名にも覚えがない。僕が首を傾げると、彼女は少し寂しげに微笑んだ。
「そうですよね。ほとんど市場に出回らなかった自費出版の詩集だそうですから。でも、私にはどうしても必要な一冊なんです」
「何か、特別な思い入れが?」
つい、踏み込んでしまった。普段の僕ならしないことだ。彼女は一瞬だけ遠くを見るような目をして、それから僕に視線を戻した。
「忘れてしまった、大切な約束が……そこに書かれている気がして」
それが、彼女との始まりだった。翌週の土曜日も、その次の週も、彼女は決まって午後三時に店を訪れた。僕たちは言葉少なげに詩集の捜索状況を話し、彼女はいつも「ありがとうございます」と静かに頭を下げて帰っていく。その繰り返される週末の儀式は、僕の単調な日常に、不思議なリズムと微かな期待を刻み込んでいった。僕はいつしか、週末を待ちわびるようになっていた。彼女の瞳の奥に揺れる、掴みどころのない謎に、知らず知らずのうちに心を奪われていたのだ。
***第二章 祖父の日記とインクの染み***
水瀬遥さんのために『零れる砂の歌』を探し始めて一ヶ月が経った。古書組合の目録を漁り、全国の同業者に問い合わせても、その詩集の行方は杳として知れなかった。まるで、初めからこの世に存在しなかったかのように。
諦めかけた矢先、思わぬところから手がかりが見つかった。店の奥、祖父が遺した膨大な資料を整理していた時のことだ。古い桐の箱の中から、革張りの分厚い日記帳が出てきた。祖父の日記だった。パラパラとめくっていくと、二十年ほど前のページに、僕は見覚えのある名前を見つけて息をのんだ。
「月読しおり」
そこには、祖父と無名の詩人との交流が、熱を帯びたインクで綴られていた。彼女の才能を絶賛する言葉、彼女の詩が持つ、儚くも強い生命力についての考察。祖父は、単なる古書店主としてではなく、一人の読者として、彼女の魂に深く共鳴していたのだ。
『彼女の言葉は、まるで壊れやすいガラス細工のようだ。だがその内には、決して消えない灯火が宿っている』
ページを読み進める僕の心臓が、嫌な予感に脈打つ。そして、日記の最後の記述に、僕は凍りついた。
『月読くんは、自らの記憶が砂のように零れ落ちていく病だと告白した。彼女は、最後の詩を書き上げた。愛する者のために。その歌は、誰にも見つけてはならない場所に私が隠した。それが、彼女との最後の約束だ』
約束。その言葉が、水瀬遥さんの言葉と重なる。彼女が探しているのは、単なる詩集ではない。祖父が隠した「何か」だ。そしてその「何か」は、僕が触れてはならない領域にあるのかもしれない。
僕の探求は、いつの間にか彼女のためだけではなくなっていた。物静かで、本だけを愛した人格者だと思っていた祖父。その知られざる過去と、彼が守ろうとした秘密。僕は、祖父という人間の輪郭を、初めて捉えようとしているのかもしれない。店の片隅で埃をかぶっていた過去が、静かに動き出すのを感じていた。
***第三章 零れる砂の真実***
祖父の日記を読んでから、僕は水瀬遥さんと会うのが少し怖くなった。彼女の寂しげな微笑みの裏に、祖父が隠した重い秘密が横たわっているように思えたからだ。それでも彼女は、土曜日の三時に、変わらず店を訪れた。
ある日のこと、彼女はふと、窓の外を流れる雲を見ながら呟いた。
「昔、母とよくこの辺りを散歩したんです。母はいつも、面白い形をした雲を見つけては、それに物語をつけて聞かせてくれました」
その横顔は、いつになく幼く見えた。だが、翌週、僕がその話を向けると、彼女はきょとんとした顔で言った。
「母と?……いいえ、私はずっと父と二人でしたから」
記憶の食い違い。小さな綻び。僕の胸を、言いようのない不安が締め付けた。祖父の日記にあった「記憶が砂のように零れ落ちていく病」という言葉が、頭の中で警鐘のように鳴り響く。
その週末、僕は店を閉めた後、意を決して祖父が使っていた古い書斎机を調べ始めた。これまで開けたことのなかった、鍵のかかった引き出し。古い工具でなんとかこじ開けると、その奥から、さらに小さな隠し引き出しが現れた。中には、一枚の写真と、黄ばんだ封筒が一つ。
写真を手に取った瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。
そこに写っていたのは、若き日の祖父と、満面の笑みを浮かべる一人の女性。
その女性は、水瀬遥さんに驚くほどよく似ていた。
震える手で封筒を開ける。それは、祖父が僕に宛てた手紙だった。
『蒼太へ。お前がこれを読む時、私はもうこの世にいないだろう。そして、お前はきっと「時の栞」で、ある女性と出会っているはずだ。彼女の名前は、水瀬遥。写真の女性、月読しおりの一人娘だ。
驚かせてすまない。しおりさんは、若年性のアルツハイマー病だった。日に日に記憶を失っていく恐怖の中で、彼女はたった一人の娘、遥ちゃんへの愛を詩に託した。それが『零れる砂の歌』だ。
だが、病はあまりに酷薄で、詩集が刷り上がる頃には、彼女は自分が詩を書いたことも、愛する娘の顔さえも、おぼろげになってしまっていた。私は、友人として、彼女の尊厳と彼女の詩を守りたかった。だから、詩集を世間から隠したんだ。
そして、ここからが本当に伝えなければならないことだ。遥ちゃんもまた、母親と同じ病気を、その体に宿している。彼女が毎週お前の店を訪れるのは、それがかろうじて残った習慣だからだ。彼女が探しているのは、母の詩集ではない。失われつつある自分自身の記憶の中で、母が遺してくれたはずの愛の証を探し、必死に過去に手を伸ばしているんだ。
蒼太。どうか、彼女を傷つけないでやってくれ。彼女が忘れてしまっても、お前が覚えていてやってくれ。それが、わしの最後の頼みだ』
手紙が、手の中でくしゃりと音を立てた。
僕は、ミステリーの謎を追っていたのではなかった。二世代にわたる、あまりにも悲しく、そしてあまりにも美しい、愛の物語の只中に立っていたのだ。人を信じることを恐れ、自分の殻に閉じこもっていた僕の心は、この残酷で優しい真実の前に、粉々に砕け散った。
***第四章 時の栞***
祖父の書斎の奥、最も大切な蔵書が収められたガラスケースの中に、それは静かに眠っていた。『零れる砂の歌』。一冊だけ、祖父が手元に残していたものだ。そっとページを開くと、見返しに、見慣れた祖父のインクの文字が震えていた。
『遥ちゃんへ。君のお母さんの魂は、この歌と共にある。忘れてもいい。何度でも私が思い出させてあげるから』
次の土曜日、午後三時。ベルの音が鳴り、水瀬遥さんが入ってきた。僕はカウンター越しに、その詩集を彼女に差し出した。
「見つかりましたよ。あなたが探していた本です」
彼女は、まるで初めて見る宝物のように、そっと詩集を受け取った。だがその瞳には、一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。僕が誰で、なぜこの本を渡されているのか、理解できないかのように。
僕は、覚悟を決めて口を開いた。
「水瀬さん。あなたが忘れても、僕が覚えています。あなたが毎週土曜日の三時に、この店に来て、この本を探していたことを。そして、あなたのお母さんが、あなたをどれだけ深く愛していたかを」
僕の言葉が、彼女の心の奥深くに眠る何かに触れたのだろうか。彼女の大きな瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ち、詩集の表紙に小さな染みを作った。記憶は曖昧でも、魂がその温もりを思い出したかのように。
それからも、彼女は毎週土曜日の三時に店を訪れる。僕のことを「柏木さん」と呼ぶ日もあれば、「はじめまして」と微笑む日もある。僕たちは、一緒に『零れる砂の歌』のページをめくる。彼女が詩を声に出して読む。その声は、どこか懐かしい響きを帯びていた。
僕はもう、彼女の記憶が戻ることを期待してはいない。ただ、この場所に彼女の「時」を栞のように挟んでおくこと。それが、今の僕にできる唯一のことだった。人を信じるというのは、完璧な記憶や不変の約束を交わすことではない。たとえ記憶が砂のように指の間から零れ落ちていっても、その一瞬一瞬の心の繋がりを慈しみ、相手の存在そのものを、静かに肯定し続けることなのだと、僕は知った。
夕陽が店の窓から差し込み、古書の背を黄金色に染めている。遥さんがふと顔を上げて、僕に微笑みかけた。
「この詩、なんだか……とても、懐かしい匂いがしますね」
その言葉に、僕はただ、静かに微笑み返した。僕たちの物語に、明確な結末はないのかもしれない。ただ、零れては積もる砂のように、切なくも温かい時間が、この「時の栞」で、これからも静かに続いていくのだろう。
零れる砂と約束の詩
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