***第一章 墨痕の謎***
桐谷朔(きりたに さく)の世界は、静寂と、和紙の乾いた匂い、そして膠(にかわ)のかすかな甘い香りで満たされている。彼は古文書修復師。彼の指先は、数百年という時間の重みで脆くなった紙の繊維を、まるで壊れ物を扱うように、しかし迷いなく撫でていく。歴史とは、彼にとって変えようのない確定した過去の断片であり、そこに個人的な感傷を差し挟む余地はない。それが彼の哲学であり、矜持だった。
その日、彼の工房に持ち込まれた一冊の古書は、その静謐な世界に小さな波紋を投げかけた。依頼主である老練な古美術商が、興奮を隠しきれない様子で差し出したのは、江戸時代後期のものとされる和綴じの日記帳だった。
「桐谷さん、面白いものが入りました。作者は不明ですが、どうやら京にいた扇絵師のようです。内容は他愛ない日々の記録ですが、問題は……これです」
美術商が指し示したのは、日記の最後の一葉。そこには、それまでの流麗な筆文字とは明らかに異質な、硬質な線で書かれた一文があった。
『朔、お前を待っている』
朔は息を呑んだ。インクは、黒。しかし、その黒は和墨のそれではない。油性の、ぬらりとした光沢を帯びている。まるで、現代のボールペンで書き殴ったかのような、場違いな筆跡。そして何より、そこにはっきりと刻まれた自分の名。
「……悪戯でしょう」
朔は自分に言い聞かせるように呟いた。誰かが、この古書の値打ちを吊り上げるために仕込んだ、稚拙なトリックだ、と。
「私もそう思いました」と美術商は頷く。「しかし、奇妙なのです。この一文、どう鑑定しても、紙の繊維の奥深くまで染み込んでいる。後から書き加えられたにしては、あまりに紙と一体化している。まるで……最初からそこにあったかのように」
朔はルーペを手に取り、その不可解な文字列を覗き込んだ。インクが紙の繊維を押し広げ、定着している。確かに、後から書かれたにしては、滲み方が不自然なほどに少ない。まるで、この紙が漉かれた瞬間に、この言葉が織り込まれたとでもいうように。
背筋を、冷たいものが走り抜けた。二百年の時を超えて、自分の名前を呼ぶ声。それは、彼の確立された歴史観を根底から揺さぶる、不気味な響きを伴っていた。彼は、この謎を解き明かさずにはいられなくなった。それは、修復師としての知的好奇心か、あるいは、自らの存在そのものが問われているかのような、根源的な恐怖心からだったのか。朔自身にも、分からなかった。
***第二章 禁じられた空の色***
日記の修復作業と並行して、朔はそこに綴られた言葉を解読していった。墨の色、筆圧、紙の質感。五感の全てを使い、二百年前の世界へと分け入っていく。日記の主は、自らを「蒼月(そうげつ)」と名乗る、名もなき扇絵師だった。
蒼月の日記は、詩情に満ちていた。鴨川のせせらぎ、祇園囃子の遠音、しんしんと降り積もる雪の冷たさ。彼の言葉を通して、朔の工房に江戸の京の空気が流れ込んでくるようだった。そこには、時代の大きなうねりに翻弄されながらも、ひたすらに美しいものを追い求める、一人の人間の息遣いが確かに存在した。
朔は、いつしか蒼月という人物に強く惹きつけられていた。彼の仕事に対する真摯な姿勢は、どこか自分と重なる部分があった。だが、蒼月には朔が失って久しい情熱があった。特に、日記に繰り返し登場する、ある「色」への執着は、鬼気迫るものがあった。
『今日もまた、あの空の色には届かず。師は言う、人の世にありえぬ色、天上の青、と。されど我、この目に確かに見たるあの色を、忘れられぬ。見る者の心の底にある、最も懐かしい記憶を呼び覚ますという、あの瑠璃の空を』
「禁じられた青」。蒼月はそう呼んでいた。それは単なる色彩ではない。人の魂に触れる、神秘の力を持つ色だと彼は信じていた。彼は、その色の再現に生涯を捧げているらしかった。
朔は、ページをめくる手を止めた。窓の外には、コンクリートのビル群が広がる無機質な東京の空がある。彼は思う。色に、そんな力が宿るものだろうか、と。歴史上の人物の情念に引きずられてはならない。冷静に、客観的に。そう自分に言い聞かせながらも、朔の心は、蒼月が追い求めた「青」の色に染め上げられていくのを感じていた。日記の最後の一文の謎は、この「青」と何か関係があるのではないか。そんな予感が、確信に近い手応えとなって、彼の胸をざわつかせていた。
***第三章 邂逅の工房***
調査は、ある一点で行き詰まった。日記の記述を頼りに、朔は蒼月が使っていたであろう顔料の分析を進めていた。藍、群青、そして記録にはない、いくつかの植物や鉱物。そして、ついに日記の紙の間に挟まっていた和紙の切れ端から、蒼月が書き残した「禁じられた青」の調合覚書を発見したのだ。
それは、およそ顔料のレシピとは思えない、詩的な言葉で綴られていた。
『月光を浴びし露草の雫、三日月の夜に砕きし瑠璃のかけら、そして、最も大切な人を想う、一途な心』
科学者である朔は、鼻で笑うべきだった。しかし、彼はもはや、この日記を単なる研究対象として見ることはできなかった。何かに憑かれたように、彼は工房の片隅で、その覚書に従って顔料の再現を試みることにした。もちろん、「一途な心」などという非科学的な材料は、どうすることもできない。だが、彼は蒼月という絵師に、そして彼が生きた時間に、最大限の敬意を払いたかった。
乳鉢で鉱物を砕き、夜気に晒した蒸留水を加える。様々な素材が混ざり合い、それは次第に、深く、吸い込まれるような藍色へと変化していった。そして、朔が最後の素材を加え、ガラス棒で静かにかき混ぜた瞬間だった。
顔料が、淡い光を放った。
驚いて顔を上げた朔の視界を、目も眩むほどの青い光が覆い尽くす。時空が歪むような強烈な浮遊感。次に目を開けた時、彼は自分の工房にはいなかった。
そこは、木の匂いと墨の香りが満ちる、小さな工房だった。障子窓から差し込む光が、畳の上に柔らかな影を落としている。そして、目の前には、絵筆を握った一人の男が、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。藍色の着物を着た、日記の記述そのままの、蒼月だった。
「やっと会えたな、桐谷朔」
時が止まった。朔は声も出せない。目の前の光景が、現実なのか幻なのか、判断がつかなかった。
「驚くのも無理はない。だが、これもまた、わしが描いた景色の一部よ」
蒼月は静かに語り始めた。彼は、自分の描く絵が、いつか時を超えて誰かの心に届くことを信じていた。その一念が、あの「青」に奇跡を宿らせたのだ、と。それは未来を予知したわけではない。ただ、自分の生きた証、自分の情熱を、遥か未来の「誰か」に届けたいという、純粋で強烈な願いだった。
「あの最後の一文は……」朔は、かすれた声で尋ねた。
「お主が書くのさ」蒼月は悪戯っぽく笑った。「いや、正確には、わしに会ったお主が、過去のわしの日記に書き加えることになる。でなければ、お主はここへは来れなかった。時の環よ。始まりも終わりもない」
その言葉は、雷のように朔の脳天を撃ち抜いた。自分が歴史の観察者ではなく、当事者だったという事実。あの謎の筆跡は、未来の自分が、この邂逅を成立させるために残した、時を超えた道標だったのだ。自分の価値観が、音を立てて崩れ落ちていく。
蒼月は、すっと一本の扇子を差し出した。そこには、あの「禁じられた青」で、夜空に浮かぶ満月が鮮やかに描かれていた。
「わしの生きた証だ。この想いを、未来へ繋いでくれ」
その青は、ただの色ではなかった。それは、蒼月の生涯そのものだった。喜びも、悲しみも、届かなかった恋慕も、全てを溶かし込んだ、魂の色だった。
***第四章 蒼月の栞***
意識が戻った時、朔は自分の工房の床に座り込んでいた。頬を、一筋の涙が伝っていた。幻だったのか。しかし、彼の手の中には、確かな感触があった。見ると、そこには蒼月が描いた満月の扇子が握られていた。それは、日記と一緒に美術商が持ち込んだ、作者不明の品として扱われていた扇子そのものだった。
以前はただの古い「モノ」にしか見えなかった扇子が、今はとてつもない熱量を放っているように感じられた。描かれた満月は、まるで今も静かに呼吸をしているかのようだ。
朔は、おもむろに修復台の上の日記帳に目をやった。最後の一葉。そこには、確かに『朔、お前を待っている』と書かれている。それはもはや、不気味な謎の言葉ではなかった。時を超えて交わされた、魂の約束の証。蒼月が未来の朔に残した栞であり、朔が過去の蒼月へと繋がるための栞でもあった。
数日後、修復を終えた日記と扇子を、朔は依頼主の美術商に返した。
「素晴らしい修復ですな。まるで、魂が吹き込まれたようだ」
美術商の言葉に、朔はただ静かに微笑んだ。
自らの工房に戻った朔は、修復途中の別の古文書に手を伸ばした。紙の染み、かすれた文字、虫食いの穴。その一つ一つが、もはや単なる損傷には見えなかった。それは、名もなき誰かが生きた証であり、後世に何かを伝えようとした、声なき声だった。
彼の指先は、祈るように、そっとその紙に触れた。
歴史とは、確定した事実の無味乾燥な連なりではない。それは、無数の人々の想いが織りなす、終わらない物語なのだ。そして自分は、その物語を未来へと繋ぐ、ささやかな、しかし重要な役割を担っている。
その夜、朔は工房の窓から月を見上げた。東京の空に浮かぶ、白々とした月。しかし彼の目には、二百年前の京の空に輝いていた、蒼月の見たであろう、深く、優しい光を放つ月が重なって見えた。時を超えて、二つの魂が、静かに交差した気がした。彼の仕事は、今日、本当の意味で始まったのかもしれない。
蒼月の栞
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