歴史学界の異端児、柏木湊(かしわぎみなと)の元に、古びた桐の箱が届いたのは、冷たい雨がアスファルトを叩く日のことだった。差出人は、彼の唯一の理解者であり、先日鬼籍に入った恩師、高遠教授。息を呑んで蓋を開けると、そこには奇妙な文様がびっしりと刻まれた、鈍い光を放つ青銅の円盤が鎮座していた。
「ヤタノクニ……」
湊がその存在を追い求める、日本史の闇に葬られたとされる古代の超技術文明。学会では一笑に付されるだけの、荒唐無稽な伝説。しかし、円盤に刻まれた渦巻くような文字は、湊が復元した「ヤタノ文字」と不気味なほど一致していた。
寝食を忘れ、湊は解読に没頭した。それは単なる記録ではなかった。暗号化された星図であり、ある装置の「鍵」であることを示す設計図でもあった。起動条件は、三日後の皆既月食。場所は、地図が示す紀伊山地の奥深く、忘れ去られた神域。
心臓が早鐘を打つ。これは、恩師が遺してくれた最後の道標だ。湊は最低限の装備をバックパックに詰め込むと、夜の街へと飛び出した。
だが、湊の行動は誰かに監視されていた。駅のホームで、山道で、黒いスーツの男たちの執拗な追跡を受ける。彼らもまた、「ヤタノクニ」の遺産を狙う者たちなのだ。間一髪で追手を振り切り、湊は満身創痍で目的地である巨大な洞窟の入り口にたどり着いた。
洞窟の奥には、ドーム状の巨大な石室が広がっていた。壁には天体の運行図が描かれ、中央には円盤がぴったり嵌りそうな窪みを持つ石の祭壇がそびえ立つ。やがて、天窓から射し込む光が途絶え、世界が静寂に包まれる。皆既月食だ。血のように赤い月光が、一条の光となって祭壇を照らし出した。
湊は震える手で円盤を窪みにはめ込んだ。その瞬間、地鳴りとともに遺跡全体が軋みを上げる。床が、壁が、機械仕掛けのように再構成されていく。現れたのは、現代科学の常識を根底から覆す光景だった。無数の歯車と水晶のレンズ、そして青白い光を放つ未知の鉱石が複雑に絡み合った、巨大な機械装置。これが、ヤタノクニの遺産だというのか。
「見事だ、柏木君」
背後からの声に、湊は凍りついた。そこに立っていたのは、追跡者たちのリーダーと思しき、冷徹な目をした男だった。
「君の恩師、高遠は臆病者だった。この『星霜のアーカイヴ』の力を恐れ、封印しようとした。だが私は違う。これさえあれば、歴史のあらゆる出来事を観測し、気に入らない過去を『修正』することさえできる。我々に都合の良い、完璧な世界を創り出せるのだ!」
男は湊に協力を迫る。歴史を支配する、神にも等しい力。一瞬、湊の心に甘美な誘惑がよぎる。だが、彼は首を横に振った。
「歴史は、誰かのおもちゃじゃない!成功も、過ちも、喜びも、悲しみも……その全てが積み重なって、今の僕たちがいるんだ。それを捻じ曲げる権利なんて、誰にもない!」
湊は叫ぶと同時に、制御盤と思しき水晶のパネルに飛びついた。知識はない。だが、ヤタノ文字の構造から、エネルギーを司るであろう文字列を読み解き、全力で殴りつけた。
けたたましい警報音と共に、装置が暴走を始める。青白い光が明滅し、歯車が砕け散る。天井が崩れ落ちてくる中、湊は必死に出口へと走った。背後で、歴史を観測するはずだった機械が、自らの崩壊という歴史を刻みながら闇に飲まれていく。
数日後、大学の研究室に戻った湊の机には、一冊の古びたノートと、小さな真鍮の歯車が置かれていた。脱出の際に、偶然ポケットに紛れ込んでいた遺跡の欠片だ。
ヤタノクニは、確かに存在した。そして、その叡智は再び人の手の届かぬ場所へと還っていった。公式の歴史が変わることはないだろう。だが、湊は知っている。記録に残らなくとも、確かに存在した過去があることを。
彼は小さな歯車をそっと握りしめた。歴史の真実を探る旅は、まだ始まったばかりだ。その重みと興奮を胸に、湊は窓の外に広がる空を見上げた。
星霜のアーカイヴ
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