音無村の耳塞ぎ様

音無村の耳塞ぎ様

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その村の名は、地図から意図的に消されていた。

音響エンジニアである俺、相沢祐樹が「音無村(おとなしむら)」の存在を知ったのは、古書店で手に入れた一冊の郷土史がきっかけだった。そこには「一切の音が死に絶えた土地」と記されていた。仕事柄、ありふれた自然音は録り尽くしていた俺にとって、その記述は抗いがたい魅力を持っていた。最高の録音機材を背負い、俺は好奇心という名の羅針盤だけを頼りに、その禁断の地へと足を踏み入れた。

村は、想像を絶する静寂に支配されていた。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、風が木々の葉を揺らす音すら存在しない。まるで分厚いガラスケースの中に閉じ込められたジオラマのようだ。村人たちは、まるで音を立てることが罪であるかのように、忍び足で歩き、身振り手振りで意思を伝え合っていた。俺が挨拶の声をかけると、彼らは怯えたように顔を伏せ、蜘蛛の子を散らすように去っていく。唯一、宿の老婆だけが、かすれた声でこう呟いた。
「お若い衆。ここでは、耳塞ぎ様(みみふさぎさま)が目を覚ましちまう」

耳塞ぎ様。村の禁忌であり、信仰の対象でもあるらしい。老婆はそれ以上を語ろうとはしなかった。
好奇心は恐怖に勝る。その夜、俺は村外れにあるという古い祠へ向かった。高性能な指向性マイクを構え、録音を開始する。ヘッドフォンから聞こえるのは、完全な無音。いや、違う。メーターの針が、人間の可聴域をわずかに超えた領域で、微かに振れている。何かが「鳴って」いる。
俺は周波数のレンジを調整し、その未知の音を追いかけた。
――キリ、キリリ、キィン……。
金属を爪で引っ掻くような、脳髄に直接響く不快な高周波音。だがそれは、不規則なノイズではなかった。明らかに、何らかの意図を持つパターン信号。まるで、呼びかけに応えるかのような……。

その夜から、俺の世界は歪み始めた。
眠りにつくと、枕元で誰かが囁く声がする。しかし、そこには誰もいない。歩けば、自分の背後からもう一つ、湿った足音がついてくる。振り返っても、そこには静寂が広がっているだけだ。俺の聴覚は狂い始めていた。自分の声が、壁に吸収されることなく、ねっとりと耳にまとわりついてくるような感覚。世界から音が奪われていくのではなく、おかしな「音」が俺の世界を侵食してくるのだ。

「あんた、祠で『あれ』を聞いたんだね」
俺に声をかけてきたのは、ハナと名乗る若い娘だった。村で唯一、俺の目を見て話す人間だった。彼女の話によれば、耳塞ぎ様は音を喰らう神だという。かつて、この村は豊かな音に満ち溢れていた。しかし、ある時から村人たちが次々と原因不明の死を遂げた。耳から血を流し、狂ったように自らの鼓膜を掻きむしって死んでいったという。
「耳塞ぎ様は、音を辿ってやってくる。だから村人は音を捨てた。年に一度、祭りで『一番綺麗な音』を生贄に捧げることで、村の安寧を保っているんだよ」
ハナの瞳には、諦めと、わずかな反抗の色が浮かんでいた。
「そして、今年の祭りは、明日の晩だ」

その瞬間、俺は全てを理解した。
耳塞ぎ様は神などではない。音を感知し、それを座標として獲物を狩る、異次元の捕食者だ。俺が祠で録音したあの信号音は、奴を呼び寄せるための呼び水だったのだ。そして、村人たちが捧げる「一番綺麗な音」とは、彼らにとって最も異質で、新鮮で、そして厄介な音――外部から来た俺が立てる、全ての音。俺自身が生贄だったのだ。

翌日の夜。月が黒い雲に隠れ、村の静寂が一段と深みを増した頃、それは来た。
キィィィィン、という耳鳴りのような高周波音が、現実の音として空気を震わせ始めた。音は徐々に低く、重くなり、空間そのものが軋むような唸りへと変わっていく。俺が泊まっていた宿の障子が、音圧だけでビリビリと震え、やがて弾け飛んだ。
闇の中に現れたのは、定まった形のない「何か」だった。黒い霧のようでもあり、無数の音叉が蠢いているようでもあった。それが動くたび、様々な音が生まれては、すぐに喰われて消えていく。絶望的な静寂と、耐え難い騒音が同居する矛盾した存在。それが、耳塞ぎ様だった。

逃げ場はない。奴は俺の心臓の鼓動すら捉えている。
だが、俺はただの獲物じゃない。俺は、音のプロだ。
リュックから録音機材一式を取り出し、アンプとスピーカーを接続する。絶望的な状況下で、俺の指は驚くほど冷静に動いた。
「祐樹さん!?」
駆けつけてきたハナが悲鳴を上げる。
「ハナ!耳を塞げ!全力でだ!」
俺は叫び、マイクをスピーカーに向けた。ボリュームを最大に捻る。
――ブォォォォォン!!!
ハウリング。スピーカーとマイクが互いの音を拾い合い、無限に増幅していく、音の暴走。それは単なる大音量ではない。特定の周波数帯域が極端に突出した、純粋な破壊の音波だ。
耳塞ぎ様の動きが、一瞬止まった。不定形だったその輪郭が、激しく波打ち、苦しむように身をよじる。奴は音を喰らう。だが、喰らいきれないほどの飽和した単一の音は、奴にとって毒なのだ。
「グ……ギ……ァ……」
音にならない断末魔が、俺の頭の中に直接響く。奴は俺が作り出した音の槍から逃れるように、揺らめきながら後退していく。
いける!俺はアンプの出力をさらに上げた。建物が揺れ、ガラスが砕け散る。俺自身の鼓膜も限界を迎え、左の耳から熱いものが流れ落ちる感覚があった。

どれくらいの時間が経っただろうか。
凄まじいフィードバックノイズが途絶えた時、そこに耳塞ぎ様の姿はなかった。後には、破滅的な静寂だけが残されていた。俺は、その場に崩れ落ちた。

俺は村を去った。村人たちは遠巻きに俺を見ていたが、その目に宿るのは感謝か、それとも新たな恐怖か、判別はつかなかった。
左耳の聴力は、二度と戻らなかった。
だが、本当の恐怖はそこからだった。東京の喧騒に戻った今も、時折、全ての音が消え失せる瞬間がある。そして、静寂に満たされた世界の中で、あのキリキリという高周波音が、失われたはずの左耳の奥で微かに鳴り響くのだ。

奴は消えたわけじゃない。ただ、俺という座標を見失っただけだ。そして、今も静かに耳を澄ませている。
次に捧げられる、「一番綺麗な音」を待ちながら。

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