残響の調律師

残響の調律師

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***第一章 不協和音の始まり***

水沢響の職業は、音を捕獲することだった。フリーランスの音響技師である彼は、世界から失われゆく音をデジタルデータに変換し、永遠の静寂から守ることを生業としていた。彼の耳は、神が与えた呪いであり、祝福でもあった。健常者が聞き流す街の微細なノイズから、建材がきしむ僅かな音まで、彼の世界は過剰な音響情報で満ち溢れていた。そのせいで、彼は人付き合いを極端に苦手とし、静寂を求めて防音設備の整った自室に引きこもるのが常だった。

今回の依頼は、彼の心を珍しく揺さぶるものだった。来月取り壊される古い映画館『銀幕座』の、最後の音を記録してほしいというのだ。依頼主は、閉館を惜しむ地元の有志グループだった。

九月の湿った空気が纏わりつく夜、響は一人、銀幕座に足を踏み入れた。黴と埃の匂いが、甘いポップコーンの残り香と混じり合い、鼻腔をくすぐる。赤いビロードの座席は色褪せ、所々が破れて綿を覗かせていた。彼は劇場の中心に陣取り、高性能の指向性マイクとレコーダーを設置した。目的は、この建物が持つ固有の「鳴り」――反響や静寂そのものを録音することだ。

全ての機材の準備を終え、ヘッドフォンを装着する。ボリュームを上げると、世界が遠のき、マイクが拾う音だけが彼の宇宙となる。しん、と静まり返った空間。聞こえるのは、自分の呼吸音と、時折、古い木材が収縮して鳴る、家鳴りのような音だけだ。完璧な静寂。彼は、この音のない音をこそ、記録したかった。

録音を開始して十分ほど経った頃だった。

不意に、彼の鼓膜を微かな音が叩いた。それはノイズではなかった。明確な意味を持つ、人の声だった。

『――ねえ、これで良かったのかしら』

囁くような、若い女の声。続いて、低い男の声が応える。

『――これが、俺たちの答えだ』

響は息を呑んだ。ヘッドフォンを外し、暗い客席を見渡す。誰もいない。いるはずがないのだ。この建物には彼一人。警備員は外で待機している。空耳か? 過労で神経が過敏になっているのかもしれない。

彼は深呼吸をして、再びヘッドフォンを装着した。だが、音は続いていた。セリフだけではない。遠くで鳴るピアノの旋律、フィルムがカタカタと回る映写機の音。まるで、一本の映画がすぐそこで上映されているかのようだった。

恐怖よりも先に、プロとしての好奇心が頭をもたげた。レコーダーのレベルメーターは、ぴくりとも動いていない。この音は、空気の振動として存在していないのだ。ならば、なぜ自分にだけ聞こえる?

響は録音を中断し、機材を撤収した。ギャラは辞退しようと思った。彼には、この不気味な現象を解明する術も、関わりたいという気もなかった。だが、その夜、自室のベッドで耳を澄ますと、あの映画館から持ち帰ってしまったかのように、暗闇の奥から微かなセリフが聞こえてくるのだった。彼の日常は、その夜を境に、静かに調律を狂わせていった。

***第二章 重なる声、蝕まれる現実***

銀幕座での一件以来、響の世界は異質な音に侵食され始めた。それは、ある特定の場所に立った時にだけ聞こえる、過去の残響だった。

古書店が立ち並ぶ神保町の交差点では、とうの昔に廃止された市電の、レールを軋ませる音とけたたましい警笛が聞こえた。隅田川のほとりに佇めば、大空襲のサイレンと人々の悲鳴が、彼の鼓膜を内側から掻きむしった。それらは全て、レコーダーには記録されない、彼だけの幻聴だった。

「水沢さん、最近集中できてないんじゃないか?」

スタジオでのミキシング作業中、クライアントから鋭い指摘を受けた。無理もなかった。繊細な音のバランスを調整している最中に、すぐ耳元で「ここは昔、処刑場だったんだ」などという古武士の怨嗟の声が聞こえてくるのだ。仕事はミス続きで、完璧主義者だった彼のプライドは日に日に削られていった。

彼は医者に相談したが、結果は「ストレスによる聴覚過敏」というありふれた診断だった。処方された精神安定剤は、彼の鋭敏な聴覚を鈍らせるだけで、根本的な解決にはならなかった。

孤独と恐怖の中で、響は自ら調査を始めるしかなかった。図書館に通い詰め、古い地図や郷土資料を漁った。彼の聞く音が、その土地の歴史と奇妙に符合していることに気づいてからは、彼の探求は一種の強迫観念じみた熱を帯びていった。

そして、彼は銀幕座の過去に辿り着く。あの映画館で聞こえた音声は、五十年前、火災によってフィルムが焼失し、監督も命を落としたという曰く付きの未公開映画『海の葬列』のものだと判明した。記事には、失われたフィルムを惜しむ批評家の言葉が添えられていた。「天才監督の最高傑作になるはずだった」と。

響は確信した。自分は、土地や場所に染み付いた「記憶の音」を聞いているのだと。彼は呪われているのか、それとも選ばれたのか。答えの出ない問いに苛まれながら、彼の体重は減り、目の下の隈は深くなる一方だった。彼はもはや、音を捕獲する狩人ではなかった。絶えず鳴り響く過去の音に追われる、哀れな獲物だった。

***第三章 調律の真実***

転機は、偶然訪れた。ある雨の日、彼は公園のベンチで、壊れたラジオが発するノイズを聞いていた。ザー、というホワイトノイズの中に、ふと、少女の歌声が混じった。それは、この公園が遊園地だった頃に流れていたという童謡だった。

その瞬間、響は雷に打たれたような衝撃を受けた。幻聴は、特定の「場所」に紐付いているだけではない。特定の「周波数」に同調した時に、より鮮明になるのではないか? ラジオのノイズが、彼の脳内のチューナーを偶然その周波数に合わせたのだとしたら?

その仮説に取り憑かれた響は、自室に閉じこもり、狂ったように機材を改造し始めた。音響スペクトルを解析するソフトウェアを応用し、幻聴が聞こえる瞬間の脳波と外部の電磁波を同時に記録するシステムを構築した。それは、科学とオカルトの境界線を踏み越える、無謀な試みだった。

数日間の試行錯誤の末、彼はついに「その周波数」を特定した。それは、既存のどの放送波とも異なる、奇妙に揺らぐ特殊な周波数帯だった。彼は自作の増幅器にその周波数を入力し、フィルターをかけてノイズを除去し、ヘッドフォンで聴く準備を整えた。もし仮説が正しければ、過去の音が、クリアに聞こえるはずだ。

ゴクリと唾を飲み込み、彼はヘッドフォンを装着した。

聞こえてきた音は、彼の想像を根底から覆した。

それは、古ぼけた過去の残響などではなかった。驚くほど生々しく、クリアで、立体的な……「現在」の音だった。

『――おい、聞こえるか? 調律師』

それは、映画『海の葬列』の監督、故・黒岩の声だった。すぐ隣で囁かれているかのような臨場感。響は恐怖で全身の毛が逆立った。

『やっと繋がったな。君の耳は、最高のアンテナだ』
『こちら側は退屈でね。早くそっちに行きたいんだ』
『扉を開けてくれ、調律師』

次々と重なる、男女の声。それは、響がこれまで聞いてきた幻聴の主たちの声だった。彼らは過去の記憶などではなかった。死者の世界――あるいは、我々の世界とは異なる位相の次元――に「今も存在する」者たちだったのだ。

そして、響は戦慄すべき真実を理解した。彼が音を「記録」し、その正体を探ろうと「解析」する行為そのものが、二つの世界の境界を薄め、彼らを呼び寄せる儀式となっていたのだ。彼らは、響の類稀なる聴覚を「扉」として、こちら側の世界へとなだれ込もうとしていた。彼らは響を、異界の周波数にチャンネルを合わせる者――「調律師」と呼んだ。

自分がしてきたことは、失われた音の保護などではなかった。それは、開けてはならない扉の鍵を、必死で回そうとする愚かな行為だったのだ。

***第四章 最後のセッション***

世界がきしみ始めた。響が扉の存在を認識して以来、死者たちの声はより強く、より明確な要求となって彼に降り注いだ。彼の部屋ではポルターガイストが頻発し、本棚の本がなぎ倒され、電灯が激しく明滅した。彼らの焦燥が、物理的な干渉となって現れ始めたのだ。このままでは、自分だけでなく、世界そのものが混沌に飲み込まれる。

響は決断しなければならなかった。彼は痩せこけた顔を上げ、鏡の中の自分を睨みつけた。そこには、音に憑かれた亡霊のような男がいた。だが、その瞳の奥には、かつてないほど強い意志の光が宿っていた。

彼は全ての機材を車に積み込み、全ての始まりの場所――取り壊しを待つ銀幕座へと向かった。死者たちを鎮めるのではない。彼らが渡ってくる扉を、内側から完全に破壊するのだ。

その方法は、理論上は単純だった。彼らが発する特殊な周波数に対し、位相を百八十度反転させた「逆位相」の音波を、同じ強度でぶつける。そうすれば、二つの波は互いに打ち消し合い、完全な「無音」が生まれる。音の扉は、音によってしか閉じられない。

だが、それには計り知れない代償が伴った。そんな極端な音響操作を、媒介である自分の聴覚を通して行えば、彼の繊細な鼓膜と聴神経は破壊的なダメージを受けるだろう。聴力を永遠に失う可能性が、極めて高かった。

銀幕座の劇場は、以前よりも冷たく、濃い気配に満ちていた。響が機材を設置していると、四方八方から声がした。

『待っていたよ、調律師』
『さあ、我々を迎え入れろ』
『お前も、こちら側に来たいのだろう? 孤独なお前には、我々こそが相応しい』

孤独。その言葉が、響の胸を抉った。そうだ、自分はずっと孤独だった。人々の声がノイズに聞こえ、世界から耳を塞いできた。だから、死者たちの声に耳を傾けてしまったのかもしれない。彼らの孤独と、自分の孤独が共鳴してしまったのだ。

響は、ミキサー卓の前に座り、最後のヘッドフォンを装着した。逆位相の波形を生成するプログラムを起動する。彼の指が、ゆっくりとフェーダーに触れた。

「安らかに眠れ」

彼は、誰に言うでもなく呟いた。それは、死者たちへの手向けであり、音に囚われていた過去の自分への訣別の言葉でもあった。

フェーダーが、ゆっくりと引き上げられる。

――キィィィィィンッ!!

ヘッドフォンから、脳を直接焼くような凄まじいハウリングが炸裂した。死者たちの懇願と怒号が、断末魔の叫びとなって混じり合う。世界の全ての音が凝縮され、彼の鼓膜で衝突し、そして、砕け散った。

視界が真っ白になり、意識が遠のく。

どれくらいの時間が経っただろうか。響がゆっくりと目を開けると、そこには静寂だけがあった。完璧すぎるほどの、絶対的な静寂。彼はヘッドフォンを外した。だが、何も変わらなかった。自分の荒い呼吸の音さえ聞こえない。

彼は聴力を失ったのだ。

不思議と、悲しみはなかった。むしろ、心は凪いだ湖のように穏やかだった。彼は震える手でポケットからメモ帳とペンを取り出し、そこに書きつけた。

『世界は、こんなにも静かだったのか』

彼は立ち上がり、おぼつかない足取りで劇場の外に出た。夜明けの光が、街を優しく照らしている。車の走る音も、鳥のさえずりも、風の音も聞こえない。だが、彼は見ていた。街路樹の葉が、朝の光を受けて風にそよぐ様を。それは、彼が今まで聞いたどんな音楽よりも美しい、生命の旋律に見えた。

もう、彼の耳に異質な残響が聞こえることはない。彼は孤独な音の調律師ではなくなった。世界の静寂と調和した、ただの一人の人間として、彼は新しい朝の中を歩き始めた。聞こえなくても、世界は音で満ちている。彼はそのことを、誰よりも深く知っていた。

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