「なあ、本当に行くのかよ、ここ」
亮が懐中電灯の光で、錆びついた看板を照らした。『山城総合病院』。三十年以上前に閉鎖され、今では地元で最も有名な心霊スポットだ。面白半分の肝試し。俺、健太と、恋人の美咲、そして亮の三人で訪れた無謀な冒険だった。
「ビビってんのか、亮? 大丈夫だって、ただの廃墟だよ」
軽口を叩きながら、俺は軋む鉄の扉を押し開けた。ひやりとした腐臭が鼻をつく。消毒液とカビが混じったような、死を連想させる匂い。
「……気味が悪いわね」
美咲が俺の腕にそっとしがみつく。その震えが、俺の虚勢をわずかに揺さぶった。
院内は静寂に包まれていた。月明かりが割れた窓から差し込み、剥がれた壁紙や散乱したカルテを不気味に浮かび上がらせる。俺たちはふざけ合いながら、一階の待合室まで進んだ。その時だった。
バァンッ!
背後で、凄まじい音が響いた。開けてきたはずの入り口の扉が、固く閉ざされていたのだ。
「嘘だろ……開かない!」
亮が必死に扉を揺するが、びくともしない。まるで、外から溶接でもされたかのようだ。
その瞬間、院内放送用の古いスピーカーから、ノイズ混じりの声が響き渡った。
『――これより、『お約束』を開始します』
子供のような、それでいて老人のようにも聞こえる、性別のない声だった。
『ルールは簡単。夜が明けるまで、"鬼"から逃げるだけ。ただし、四つの『お約束』を必ず守ってください』
スピーカーは、淡々とルールを告げ始めた。
『お約束、ひとつ。鬼は"音"に集まります。物音を立てず、息を殺してください』
『お約束、ふたつ。鬼は"光"を嫌います。懐中電灯は、あなた方の命綱です』
『お約束、みっつ。鬼に見つかったら、決して"目"を逸らさないでください。見つめている間、鬼は動けません』
『お約束、よっつ。決して、「助けて」と"言葉"にしてはいけません』
「な、なんだよこれ……悪趣味なイタズラかよ!」
亮が叫んだ。その声が、静まり返った院内にこだまする。
まずい、と思った瞬間だった。
廊下の奥の暗闇から、音がした。
――ギ、ヂ……ギヂヂ……。
何か硬いものを、濡れた床の上で引きずるような音。音は、間違いなくこちらに近づいてくる。
「やばい、隠れるぞ!」
俺は美咲の手を引き、近くの診察室に飛び込んだ。亮も慌てて続こうとする。しかし、パニックに陥った彼は、金属製の医療ワゴンに足を引っ掛けて派手な音を立てて転倒した。
「いってぇ! くそっ!」
――ギヂヂヂヂヂヂヂッ!
音が、一気に速度を増した。廊下の角から、"それ"は現れた。
人型だった。だが、およそ人間とは呼べない。関節がすべてありえない方向に曲がり、四つん這いで天井に張り付くようにして、異常な速さで這ってくる。顔があるべき場所は、のっぺりとした肉塊で、目も鼻も口もない。
「ひっ……!」
亮は腰を抜かし、動けなくなっていた。
「亮! こっちだ!」
俺が叫ぶが、遅かった。"それ"は亮の目の前に降り立つと、歪んだ腕を伸ばした。
「うわああああああ! たすけ――」
亮の言葉は、途中で肉が潰れるような音にかき消された。悲鳴すら残さず、彼は暗闇の中に引きずり込まれていった。スピーカーから、再びあの声が聞こえる。
『お約束を破りました。参加者は、残り二名です』
俺と美咲は、息を殺して診察室のロッカーに隠れていた。心臓が喉から飛び出しそうだ。あの言葉。「助けて」と言ってはいけない。言っていたら、亮と同じ運命を辿っていた。
それから数時間、俺たちは亡霊のように院内をさまよった。物音を立てぬよう、すり足で歩き、時折聞こえる"鬼"の引きずる音に怯えながら、ただ時間が過ぎるのを待った。
危機は、唐突に訪れた。俺の持っていた懐中電灯の光が、ふっと弱まったのだ。電池切れが近い。
「健太……どうしよう」
美咲の顔が絶望に染まる。光は命綱だ。これが消えれば、俺たちは闇の中で嬲り殺される。
「ナースステーションだ。あそこなら予備の電池があるかもしれない」
俺たちは、壁を伝いながら慎重に進んだ。ナースステーションのカウンターを乗り越え、引き出しを漁る。あった。単三電池のストックだ。
安堵したのも束の間、カウンターの向こう側、廊下の真ん中に"それ"が立っていた。
いつの間に。音は、しなかった。
俺たちは、凍りついた。"それ"ののっぺりとした顔が、ゆっくりとこちらを向く。
「……目を、逸らすな」
俺は美咲に囁いた。お約束、みっつ。見つめている間、鬼は動けない。
俺と美咲は、恐怖で叫び出しそうになるのをこらえ、"それ"を睨みつけた。異形の怪物は、ぴくりとも動かない。まるで、こちらの根気を試すかのように。
一歩、また一歩と後ずさる。数メートル離れたところで、俺たちは向き直って全力で走り出した。目指すは、外光が差し込み始めている東側の病棟だ。夜明けは、近い。
最後の角を曲がった時、美咲が床の破片に足を取られて転んだ。
「きゃっ!」
その声に反応し、背後の闇から"鬼"が凄まじい勢いで現れる。もう目と鼻の先だ。
「美咲!」
絶望的な状況で、美咲の唇が震えた。
「た、たす……」
「言うな!」
俺は咄嗟に美咲の口を両手で塞いだ。その瞬間、ある考えが稲妻のように頭を貫いた。
ルールは、俺たちを縛るためのものだ。だが、それは"鬼"の弱点そのものでもあるんじゃないか?
光を嫌う。目を逸らせない。
俺はポケットからスマホを取り出し、カメラを起動した。そして、最大光量に設定したフラッシュを、"鬼"の顔めがけて連続で焚いた。
パシャッ! パシャッ! パシャッ!
『ギイイイイイイイイイィィィィッ!』
初めて、"鬼"が声を発した。ガラスを引っ掻くような、耳を劈く絶叫。光を浴びた"鬼"の体は、陽炎のようにぐにゃりと歪み、まるで黒い煙のように霧散して闇に溶けていった。
静寂が戻る。
同時に、ガチャリ、と音がして、固く閉ざされていた病院の扉がゆっくりと開いた。
隙間から差し込む朝の光が、まるで天国からの救いのように見えた。
俺と美咲は、言葉もなく病院を飛び出した。亮は、もういない。
一週間後。日常に戻った俺のスマホが、不意に震えた。
未知のアドレスから届いた一件のメール。
『件名:おめでとうございます』
『本文:『お約束』のクリア、お見事でした。素晴らしい知恵と勇気です。つきましては、新たなゲームへ、あなたを特別にご招待いたします。次の舞台でお会いしましょう』
俺は、血の気が引くのを感じた。
ワクワクするだろう?
新しいゲームの始まりだ。
お約束
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