静寂こそが、俺の仕事場であり、聖域だった。
長谷川湊、三十二歳。フリーランスのサウンドデザイナー。防音設計されたマンションの一室で、俺は音を切り貼りし、磨き上げ、命を吹き込むことで生計を立てている。だから、俺の耳は人一倍、いや、機材以上に繊細だと自負していた。あの日までは。
始まりは、ありふれたノイズだった。クライアントから依頼された、奥多摩の渓流の音源を編集していた時だ。ゼンハイザーのヘッドホンが捉える水の躍動の中に、微かな異音が混じっていた。「サー…」というホワイトノイズに紛れて、何か紙が擦れるような、乾いた音。
「またケーブルか…」
溜息をつき、端子を抜き差しし、機材を再起動する。だが、音は消えない。それどころか、注意して聞けば聞くほど、それはただのノイズではないと確信に変わっていった。まるで、誰かの囁き声の断片のようだ。その日は気味の悪さを振り払うようにPCの電源を落とし、強い酒を呷って眠った。
悪夢は、日常に染み込むインクのように、ゆっくりと広がっていった。渋谷のスクランブル交差点の雑踏、静かな神社の境内の風の音、赤ん坊の産声。どんな音源を扱っても、必ず奴がいた。あの、乾いた囁き声だ。
最初は「…して…」と聞き取れるかどうかの断片だったものが、日を追うごとに輪郭を帯びてくる。「…かえして…」と聞こえた時は、全身の血が逆流するような寒気を感じた。
ヘッドホンを外しても、静寂の中で奴は残響のように耳の奥にこびりついていた。耳鳴りだ、と自分に言い聞かせた。過労とストレス。そうに違いない。しかし、心のどこかで分かっていた。これは、そういう類のものではない。俺の聖域は、得体の知れない何かに土足で踏み荒らされていた。夜、ベッドに入り、耳を澄ます。しん、と静まり返った部屋の中で、奴はすぐ隣で息をしているかのように、確かに存在するのだ。眠れない夜が続き、隈は深くなり、モニターに映る自分の顔は生気を失っていた。
転機、いや、破綻は突然訪れた。
「正体を突き止めてやる」
半ば狂乱しながら、俺は専門外のノイズリダクションソフトを立ち上げた。音源から囁き声の周波数帯だけを抽出し、増幅させる。何時間没頭しただろうか。外はとっぷりと暮れ、部屋はモニターの青い光だけが支配していた。
そして、ついにその声が、明瞭な言葉として立ち上がった。
それは、老婆のような、ひどく掠れた声だった。怨念と渇望を煮詰めたような、おぞましい響き。
「オマエノ キレイナミミヲ、コチラニ」
はっきりと、そう言った。
その瞬間、バチン!と火花が散るような音を立てて部屋の照明が明滅し、PCに繋いでいないはずのデスクトップスピーカーから、最大音量でその声が響き渡った。
「アアアアアアアッ!」
俺は椅子から転げ落ち、両手で必死に耳を塞いだ。しかし、無駄だった。声は、鼓膜を震わせる物理的な音ではない。頭蓋の内側、脳の皺に直接刻み込まれるように鳴り響いている。
「オマエニハ キコエスギル。ソノジョウトウナミミ、ワタシニクレバ、モットイイオトヲ キカセテヤルノニ」
嘲るような声が、頭の中で反響する。もう、どこにも逃げ場はなかった。俺の耳が、俺自身が、奴の受信機になってしまったのだ。
クローゼットの奥に逃げ込み、分厚い毛布を頭から被った。防音室で、さらに毛布を重ねても、声は小さくならない。むしろ、外界の音が遮断されたことで、そのおぞましい囁きはより一層クリアに、親密に響いてくる。
「ホラ、コワイカ?デモ、キモチイイダロウ?ワタシノコエガ、オマエダケニキコエル」
ああ、そうだ。この声から逃れるには、音の発生源を断つしかない。俺は絶望の淵で、たった一つの真理にたどり着いた。
震える足でクローゼットから這い出し、作業机に向かう。そこには、工作用に置いていたカッターナイフがあった。冷たい金属の感触が、汗ばんだ手のひらにやけに心地良い。
窓の外では、東京の夜景が、何も知らずに美しく瞬いている。救急車のサイレン、遠くで笑う人々の声。かつて俺が愛した世界の音。それら全てが、今は忌まわしいノイズにしか聞こえない。
「ソウダ、ソレガイイ。ソレデ、ワタシヲムカエニクルノダ」
頭の中の声が、歓喜に震えている。
俺はカッターナイフの刃を、ゆっくりと押し出した。カチリ、カチリ、と小気味よい音が、俺の最後の聖域に響く。そして、鏡に映った自分の顔を見た。そこには、狂気と諦観が混じり合った、歪んだ笑みを浮かべた男が立っていた。
これで、静かになれる。
俺は、震える手でそれを自分の耳に近づけた。
残響ノイズ
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