そのアパートに越してきたのは、ひとえに家賃の安さが理由だった。都心へのアクセスも悪くないのに、信じられないほどの低価格。築年数が古いことや、エレベーターがないことを差し引いても、破格と言えた。俺、相沢圭介は、内見もそこそこに契約書にサインした。最上階の角部屋、303号室。隣は302号室のみ。静かな生活が送れるだろうと、高をくくっていたのだ。
異変は、引っ越しの翌日から始まった。
夜、ベッドで微睡んでいると、隣の302号室から壁を叩く音がした。コン、コン、と二回。不規則な、それでいて明確な意志を感じる音。深夜一時だ。さすがに非常識だろうと眉をひそめたが、初日ということもあり我慢した。
しかし、音は毎晩のように続いた。
ある晩は、くぐもった鼻歌。聞いたこともない、不気味な旋律だ。またある晩は、何か重いものを引きずるような音。そして決まって、コン、コン、と壁が鳴る。俺の安眠は完全に妨害された。
一週間後、我慢の限界に達した俺は、管理会社に電話を入れた。
「あの、302号室の方の騒音がひどくて……」
電話口の男は、数秒の沈黙の後、困惑した声で言った。
「お客様……302号室は、もう五年以上、空室のはずですが」
背筋が凍った。空室?じゃあ、毎晩聞こえてくるあの音は一体何なんだ。幽霊か何かか。馬鹿馬鹿しい。俺はきっと、配管か何かの音を勘違いしているのだと自分に言い聞かせた。
その夜も、音は聞こえてきた。コン、コン。壁が鳴る。
神経が苛立ちでささくれ立つ。空室だという管理人の言葉が、恐怖よりも先に、誰かにからかわれているような不快感を煽った。
「うるさいな!」
俺は怒りに任せて、隣との境界である壁を力いっぱい叩き返した。コン、コン。奇しくも、隣から聞こえてきた音と全く同じリズムで。
その瞬間、ぴたりと音が止んだ。
静寂が部屋を支配する。ようやく静かになったか、と息をついた、その時だった。
ドン!ドン!
今度は、俺の部屋の玄関ドアが、外から激しく叩かれた。心臓が跳ね上がる。こんな夜中に誰だ?恐る恐るドアスコープを覗くが、薄暗い廊下には誰もいない。気のせいか。そう思った刹那、ドアの向こうから、囁くような声が聞こえた。
「圭介」
俺自身の声だった。
血の気が引く。全身の毛が逆立ち、金縛りにあったように動けない。ドアの向こうにいるのは、俺の声を持つ「何か」だ。
「開けて」
再び、俺の声が懇願する。震える手で口を覆い、息を殺す。何が起きている?なぜ「それ」は俺の名前と声を知っている?
答えは、すぐに出た。壁を叩き返したことだ。あの音を「真似」したからだ。
「それ」は、音を模倣する者を標的にするのだ。
それからというもの、恐怖は部屋の内側へと侵食してきた。
隣からの音はもう聞こえない。代わりに、俺の部屋の中で、奇妙な音が鳴り始める。
俺が立てる音、その全てが、間髪入れずに部屋のどこかから繰り返されるのだ。
カップを置く音。カタン。すると、天井裏からカタン、と聞こえる。
咳払いを一つ。ゴホン。すると、クローゼットの奥からゴホン、と聞こえる。
それはまるで、俺という存在を正確に学習し、コピーしようとしているかのようだった。俺は音を立てることに極度の恐怖を覚え、息を潜めて生活するようになった。食事も、歩行も、呼吸さえも、抜き足差し足忍び足。
だが、完全な沈黙は不可能だ。
ある朝、洗面台で顔を洗っていると、鏡に映った自分の口が、俺の意志とは無関係に、あの不気味な鼻歌をハミングし始めた。ヒュルル、ルル……。俺は声も出さずに後ずさる。鏡の中の俺は、にたりと笑っていた。
もう、逃げられない。
俺というオリジナルの音は、少しずつ「それ」に上書きされ、侵食されていく。意識が靄のかかったように遠のいていく。最後に聞こえたのは、俺自身の声で、俺の耳元で囁く声だった。
「次は、君が鳴らす番だよ」
コン、コン。
一ヶ月後、アパートの管理人が新しい入居者を連れて、俺の隣、空室だった302号室を案内していた。ドアを開けた俺は、人の良さそうな笑顔で挨拶をする。
「はじめまして。303号室の相沢です。よろしくお願いします」
新しく越してくる青年は、安堵したように笑みを返した。
俺は彼らを見送ると、自室に戻り、壁にそっと耳を当てる。まだ何も聞こえない。静かなものだ。
早く夜にならないだろうか。
どんな音を鳴らしてくれるのだろう。
俺は指を折りながら、コン、コン、と小さくテーブルを叩いた。新しい隣人が立てるであろう、最初の音を、今か今かと待ち侘びながら。
隣の空室
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