絶叫デリバリー

絶叫デリバリー

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「退屈だ」
佐伯健人は、ベッドに寝転がりながら天井のシミを数えていた。十三個。昨日と変わらない。大学とバイト先を往復するだけの日々。刺激もなければ、感動もない。まるで色の抜けた写真のような毎日だった。

その時、スマホが短く震えた。どうせまた、どうでもいい広告だろう。気乗りしないまま画面をタップすると、そこには奇妙なアイコンが表示されていた。ピエロの顔が歪んで叫んでいるようなデザイン。アプリ名は『絶叫デリバリー』。

『退屈な日常に、極上の恐怖をお届けします。今なら初回無料体験実施中!』

胡散臭いキャッチコピーの下に、「いますぐ注文」という真っ赤なボタンが点滅している。個人情報の自動入力に同意しますか、というチェックボックス。健人は馬鹿馬鹿しいと思いつつ、自嘲気味に笑った。
「上等だ。俺の退屈を殺せるもんなら、殺してみろよ」
ほとんどヤケクソで、健人はその赤いボタンをタップした。注文完了、の文字が一瞬表示され、アプリは静かになった。

その日の夜。時計の針が午前零時を指した瞬間、アパートの玄関ドアが、ドン、と重くノックされた。
ビクッと肩を揺らし、健人はベッドから起き上がった。こんな時間に誰だ? 友人と約束した覚えはない。恐る恐るドアスコープを覗くと、薄暗い廊下には誰もいなかった。

いたずらか。そう思った瞬間、ドアノブがガチャガチャと狂ったように回り始めた。まるで外から誰かが無理やりこじ開けようとしているようだ。心臓が跳ね上がる。健人は慌ててチェーンをかけようとドアに駆け寄った。
その時、ドアの下の郵便受けの隙間から、一枚の黒い封筒がスゥッと音もなく滑り込んできた。

震える手で封筒を拾い、中身を取り出す。そこには、一枚のカードが入っていた。

『ミッション:かくれんぼ。鬼は”それ”です。夜明けの午前五時まで”それ”に見つからずに隠れきれば、あなたの勝ち。報酬として、現金拾万円を贈呈します。健闘を祈る』

「……は?」
意味が分からなかった。”それ”とは何だ? まるで出来の悪いゲームへの招待状だ。健人がカードを握りしめて呆然としていると、背後で、ギィ……と湿った音がした。

振り返る。そこには、さっきまで閉まっていたはずのクローゼットが、ゆっくりと開いていく光景があった。暗い闇の奥から、何かが這い出してくる。人間ではない。手足の関節がありえない方向に曲がり、天井に頭をこすりつけながら、四つん這いで現れた”それ”は、ただ一点、健人を見つめていた。顔があるべき場所には、のっぺりとした皮膚しかない。

「ひっ……!」
声にならない悲鳴を上げ、健人は部屋を飛び出した。サンダルも履かず、裸足のままアパートの冷たい廊下を疾走する。背後から、骨が軋むような、嫌な音が追いかけてくる。

階段を転がり落ちるように駆け下り、夜の街へ飛び出した。どこへ? どこへ逃げればいい? パニックに陥る頭で、ふとスマホのアプリのことを思い出した。ポケットから取り出すと、『絶叫デリバリー』の画面が明滅していた。そこには、健人の現在地を示す青い点と、急速に近づいてくる赤い点がマッピングされている。

『ヒント:”それ”は音に敏感です』

通知が表示された。音? そうか! 健人は息を殺し、近くの駐車場の車の影に身を潜めた。心臓の音がうるさい。赤い点は、健人がさっきまでいた場所で一度止まり、やがてゆっくりと動き出した。まるで、聞き耳を立てているかのように。

健人はアプリの情報を頼りに、息を殺して路地裏から路地裏へと移動した。ゴミ箱の裏、自販機の隙間、工事現場の資材置き場。まるで本物のかくれんぼだ。しかし、見つかれば死ぬという、究極のペナルティ付きの。

午前四時半。夜明けまであと少し。追い詰められた健人は、煌々と明かりが灯るコインランドリーに逃げ込んだ。もう走る体力も、隠れる場所のあてもない。その時、ランドリーのガラス戸に、あの歪な影が映った。まずい、見つかった!

万事休すかと思われた瞬間、スマホが再び震えた。

『ヒント:”それ”は鏡を嫌います』

鏡。健人はハッと顔を上げた。このコインランドリーの壁は、防犯のためか、一面が大きな鏡張りになっている。
”それ”がゆっくりと中に入ってくる。健人は最後の賭けに出た。ポケットのスマホのライトを最大光量で点灯させ、背後の鏡に向けた。

瞬間、健人の放った一筋の光が、鏡に乱反射して無数の光の矢となり、”それ”に突き刺さった。
『ギィイイイイイイイッ!』
”それ”は、初めて苦悶の声を上げた。無数の鏡に映る、おぞましい自分の姿と、眩い光に耐えられないようだ。後ずさり、身をよじらせ、やがて朝日が差し込み始めた頃、霧のように掻き消えた。

その場にへたり込む健人の耳に、スマホの軽快な通知音が鳴り響いた。

『ミッションクリア! おめでとうございます! 報酬拾万円が指定口座に振り込まれました』

安堵のため息をつく健人の画面に、すぐさま新しい通知がポップアップした。

『お客様の恐怖レベル:★★★★☆。大変ご満足いただけたようです。次回はさらに刺激的なプラン『鬼ごっこ』はいかがですか?今ならリピーター様割引でご提供!』

疲労困憊のはずの身体の奥から、奇妙な高揚感が湧き上がってくるのが分かった。恐怖。絶望。そして、それを乗り越えた時の、脳が痺れるような達成感。
退屈だった日常は、もうどこにもなかった。
健人は、震える指で、ゆっくりと「注文する」のボタンに触れた。極上の恐怖は、最高の麻薬だった。

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