古書のインクと埃の匂いが混じり合う場所が、俺の職場であり、安息の地だった。神保町の片隅に佇む古書店「迷迭香(まんねんろう)」。俺、真島蓮は、ここで働きながら、インクが滲んだ古い紙片に綴られた誰かの記憶の断片に触れるのが好きだった。
その日も、段ボール数箱分の古書を買い取った。整理していると、一冊の文庫本から、革装の小さな手帳が滑り落ちた。商品ではない。おそらく、前の持ち主の私物だろう。繊細なエンボス加工が施された表紙をめくると、そこには少女のものらしい、丸みを帯びたインクの文字が並んでいた。他人の日記を覗き見る背徳感よりも、古い手書きの文字への好奇心が勝った。
日記は、日々の他愛ない出来事で埋め尽くされていた。友達と食べたパフェの味、飼い猫の気まぐれな仕草、夕焼けの美しさ。微笑ましい記述が続く最後のページに、それはあった。
『かげふみあそび』
まるで違う人間が書いたかのような、少し歪んだ文字。そこには、奇妙な遊びのルールが記されていた。
一、まよなかに、へやのあかりをぜんぶけすこと。
二、まどのそばにたち、つきあかりだけでできた、じぶんのかげだけをみること。
三、けっして、かげからめをはなしてはいけない。そのまま、こころのなかでゆっくりじゅうかぞえる。
四、かぞえおわったら、うしろをふりかえらずに、へやのあかりをつけること。
五、すると、”ともだち”がきてくれる。
馬鹿げている。子供の他愛ないおまじないだ。そう思ったはずなのに、俺の心は妙にざわついていた。古い紙に宿る、未知の物語への誘惑。その夜、俺はアパートの自室で、まるで何かに導かれるように、その遊びを試してしまったのだ。
カーテンを開けると、蒼白い月光が床に俺の歪んだ影を落とした。心臓が少しだけ速くなるのを感じながら、俺は床に伸びる黒い人型に視線を固定した。一つ、二つ、三つ……。しんと静まり返った部屋で、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。影はじっと動かない。当たり前だ。十、と数え終えた俺は、ルール通り振り返らずに壁のスイッチを入れた。
パチン、と乾いた音がして、部屋が蛍光灯の白い光に満たされる。振り返っても、誰もいない。俺は小さく息を吐き、自嘲気味に笑った。「だよな」。くだらない感傷に浸った自分を笑い飛ばし、その夜はベッドに入った。
異変は、翌日から始まった。
朝、目覚めると、ベッドサイドに置いたはずの文庫本が、机の上に移動していた。昨夜、読みかけで置いた場所とは明らかに違う。気のせいか、と思った。だが、その「気のせい」は続いた。鍵をかけたはずのドアが半開きになっていたり、誰もいないはずの背後から、ふと視線を感じて振り返ったり。
決定的な恐怖を感じたのは、古書店からの帰り道だった。ショーウィンドウに映った自分の姿を何気なく見た瞬間、俺は凍りついた。ウィンドウの中の俺の影が、ほんの一瞬、俺の動きとは無関係に、ぐにゃりと首を傾げたのだ。
慌ててアパートに駆け戻り、あの日記帳を再び手に取った。震える指でページをめくる。楽しげに見えた少女の文章。しかし、光に透かしてよく見ると、文章の端々が黒いインクで乱暴に塗りつぶされていることに気づいた。塗りつぶされたインクの染みの下に、かろうじて読める、怯えたように震える文字があった。
『ちがう』『たべられる』『たすけて』
背筋を冷たい汗が伝う。俺はとんでもないものを呼び覚ましてしまったのかもしれない。その日から、俺の部屋の隅に、黒い染みのようなものが現れた。それは日に日に濃さを増し、やがて朧げな人の形を取り始めた。呼応するように、床に落ちる俺自身の影は、どんどん薄く、輪郭が曖昧になっていく。まるで、あの黒い何かに、少しずつ喰われているかのように。
もう一度、日記を調べるしかない。俺は藁にもすがる思いで、黒く塗りつぶされた最後のページを、デスクライトの強い光にかざした。インクの向こう側に、隠された本当のルールが浮かび上がる。
『”ともだち”は、あなたのかげをたべておおきくなる。ぜんぶたべられたら、こんどはあなたが”ともだち”になるばん。やめたいなら、もういちどあそんであげるしかない。でも、こんどは、あなたが”かげ”になるんだよ』
絶望が、冷たい水のように全身を巡った。足元を見る。俺の影は、もはやアスファルトに滲んだ油染みのようにしか見えなかった。そして、部屋の隅に立つ黒い人影は、ほとんど俺と同じ背格好になっていた。
その夜、それはついに動き出した。のっそりと、しかし確かな意思を持って、俺の方へ近づいてくる。月明かりが、その顔を照らす。そこには目も鼻も口もない。のっぺりとした平面があるだけだ。それは俺の姿をした、俺の「影」だった。影は声なく口を開き、俺の頭の中に直接響くような声で囁いた。
『……あそぼう』
数日後、古書店「迷迭香」のカウンターに、一人の若い女性が立っていた。
「すみません、この本、買い取っていただけますか?」
彼女が差し出したのは、古びた革装の小さな手帳だった。
カウンターに立つ店員は、人の良さそうな笑みを浮かべてそれを受け取った。
「ええ、喜んで。これはまた、素敵な日記ですね」
にこやかに応じる店員の足元には、なぜか影が落ちていなかった。そして、彼が手帳を受け取ったその指先は、まるで上質な万年筆のインクのように、じわりと黒く滲んでいた。
彼は手帳の最後のページを開くと、震える文字で何かを書き加え始める。
『あたらしい”ともだち”をさがす、あたらしい”あそび”を』
かげふみあそび
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